続・答えは猫箱の中に ―舞踏への誘い―
世界一短い小説、と呼ばれるものがある。
アメリカの小説家アーネスト・ヘミングウェイが書いたとされるその小説は、英語にして僅か6単語しかない。
日本語訳は「売ります。赤ん坊の靴。未使用」だ。
これだけで、読者は様々な展開を想像できる。
赤ん坊は死産だったのかもしれないし。
死んだ赤ん坊が自分の子か、友人の子かでも話は変わる。
もしかすると、そんな悲劇は存在せず。
子供はとても健康に成長して、思っていたよりも早く、靴が小さくなってしまったのかもしれないし。
犬のおもちゃに買ったものの、犬のお気に召さなかったのかもしれない。
このように。
この短い小説は、想像の余地がある限りどこまでも世界を広げてくれるのだ。
ピアノ流れる暗がりのバーで、メメントモリを飲み干す。
「それで、どんなものなのですか? その小説は。」
そうわたしが訊くと、バーテンが静かにグラスを下げる。
先ほど、このバーテンは世界一短い小説を思いついたと言った。
わたしがシナリオライターだから、そうした話題を振ったのだろう。
ヘミングウェイが書いたとされる有名な小説は英訳にして6単語だから、それより短くしなければならない。
これはなかなか難しいことだ。
バーテンはグラスを拭きながら『舞踏への誘い』と言った。
舞踏へ誘い?
英語で「Invitation to the dance」だから。4単語か。
確かにヘミングウェイの「 For sale: baby shoes, never worn」より短い。
しかし、これが小説として成立するだろうか。
ふと、ピアノが踊るように跳ねる。
この曲はウェーバーの舞踏への勧誘という曲で、こちらもInvitation to the danceと書く。
勧誘ではなく、誘いとしたのはニュアンスの問題だろう。
バーテンは静かにグラスを拭き続けている。
わたしが飲み干すと次のオーダーを訊くのが普段の流れだが、今日は何かが違う。
葉巻が欲しくなってカウンターに置かれているシガーの箱をみると、今日は代わりにバックギャモンが置かれていた。
昔、魔女とよく使っていたボードゲームだ。
まだここにあったのか、もう魔女が生きているかもわからないのに。
「あなたになら伝わると思ったんですがね。」
「わかりますが、小説外の要素を利用するのはずるいですよ。」
そうでしょうかと、バーテンは続ける。
「特定の人に向けた小説もあるでしょう。他の誰かには伝わらないけど、伝わる人には伝わるものが。」
「あなただからこそ、わかることもあるでしょう。」
露骨だ。
とても露骨だけど、何一つ真実を語っていない。
魔女は死んでいるのか、生きているのか。
もしかしたらこのバーテンは何かを知っているのかもしれない。
わたしは猫箱の中身を知りたくなったが、訊けなかった。
いくらなんでも無粋過ぎるからだ。
訊いたところで、バーテンだって答えてはくれないだろう。
猫箱の中で、また可能性が重なり合っていた。
死んだと思っていた魔女が実は生きていて、ここで待っていれば、また昔のようにバックギャモンでわたしを踊らせてくれるかもしれないし。
魔女はやはり死んでいて、わたしはこのバーテンに踊らされているのかもしれない。
どちらもありえる可能性だ。
でも、いい加減、わたしは賭けるべきだろう。
バーテンが、いかがなさいますか? まだメメントモリが必要ですか? と言う。
挑戦的だ。
わたしは酒棚の片隅で半ば骨董品となりつつある、赤ワインのマグナムボトルをオーダーすると、魔女を待った。
魔女であれば、死後に蘇ることもあろう。
その可能性にわたしは賭けることにした。