第四話 ヨンゴ
●「さて、真打登場ですか」
秋の学園通りはイチョウの黄色に染まる。どこまでも高い青空を見上げれば、現実であれば視界のどこかに必ず不愉快に引っ掛かる『迷惑地所のオッ勃起てたタワーリングシットマンション』なぞは綺麗にその存在が削除されており、この上なく気持ちが良い景観がひろがる、あの頃の美しい学園都市のままだった。
落ち葉の黄色い波を蹴るようにして歩く5人、ヨンゴは少し歩きますよと告げると、That's what I wantとニイゴが即答する。各々思い出が多々あることもあるがこの大通りは歩いていて飽きない。勝負はヨンゴのペースでいつの間にか開幕していた。
多摩地区の至宝であるイタリアンレストラン『アウローラ』までたっぷり歩かされた一同は到着と同時に生ビールを注文した、ここの生はレーベンブロイで体調によっては飲み始めると同時にガツンと酔いがくることがあるので注意が必要だ。ヨンゴは店主とワインの相談をしていた。
その店は夫婦のみで切り盛りしているので広さはあまりないが清潔感のある白を基調とした店内はゆったりとくつろげる雰囲気で美味しにうるさいお客を優しく出迎えてくれる。ヨンゴだけでなくサンゴも常連の店だった。
アラカルトが充実しているのが嬉しい、普通この規模のレストランではコース料理決め打ちでもおかしくないところだ。都心では大手の有名店であってもそうしている所は少なくない。「季節のコースも素晴らしいですし、手の込んだアラカルトも絶品揃いですが―――」
そこでヨンゴは両手を広げ「―――Willkommen!(ヴィルコッメン!)ワタシはこの『青唐辛子のパスタ』で辛いもの勝負に挑みます!」もう勝ったも同然と言わんばかりにドヤ顔で高らかに宣言した、それもイタリアンレストランなのに何故かドイツ語で。いくつになってもこういう所は変わらないようだ。「ふぉ!(ファイッ!)」
●「いただきます」ヨンゴは店内BGM『イルモンド』のサビの部分にこのいただきますを合わせてきた
それは拍子抜けするぐらい至ってシンプルな見た目オリーブオイル塩味のパスタだった。恐らく乾麺のスパゲッティが使われている、火が通りオリーブオイルをまとった青唐辛子の鮮やかな緑と炒められてオレンジになったニンニクが美しい一皿だった。
これまでに勝負に登場した辛いものは序盤のアプローチ、例えば香り、から刺激や興奮を感じさせたがこのパスタからはそういったものがまったく無い、固目に調理されたと香りでわかる乾麺の香りがわかりやすい第一印象だ。正直これだけなのかと若手2人は思わずにはいられなかった。
その空気を感じたサンゴが促す「まあ喰ってみろヨ、ヨンゴの旦那、攻めてるからサ」じゃあまあとカチャカチャとフォークで麺にとりかかる5人、そのカチャカチャ音はまるでオーケストラが演奏前に行う音程調整の響きのようにも感じられた。
全員が一口目を噛みしめる、噛みしめ続けるといつしか世界はスローモーションになった、ヨンゴがゆっくりと口のはじを吊り上げるのが視界の片隅に見える「ふぉぉ…(美味し…イルモンド=世界美味し…)」どうやら神様はその異世界との遭遇のあまりの衝撃に、こっちの世界のコントロールに干渉を許してしまったようであった。
ヨンゴにすすめられるままにシチリア産の白ワインを口にする、料理と合うとかマリアージュとかそんなレベルではなかった、それはお互いを極限まで高め合っていた。シンプルゆえに誤魔化しが効かないとかそういうどこにでもあるお話はここで軽く吹っ飛んだ。
すぐさませかせかと第二波にとりかかる、まず香るのは香ばしいニンニク、そして清涼感溢れる青唐辛子だ。噛み進めるとアルデンテの乾麺の香りがくる。香りの後に口に広がるのは麺そのものの圧倒的美味さだ。麺のまとったオリーブオイルがジューシーな食感を楽しませてくれる。
この時点で相当辛味を感じているが辛いとか美味しとか、そういうリアクションをするのは無粋と思えるほどの、ある種の尊厳がそこにあった。よく欧州の有名な大聖堂では緊張のあまり気を失う信者が出ると聞くが、それに近い、ちょっとでも気を抜いたら『持っていかれる』というやつだ。
しかも、しかもだ。この料理、食べ進める程に美味しが上昇してゆく。二口目より三口目、食べ始めより最後の一口、そこにあるのは純粋な美味しのみである。しばしば都心のレストランのコースや旅館の懐石料理でありがちな終盤を惰性で食べ終えるというあの行為は何だったのかと頭を抱えずにはいられない気持ちになる。
そして悪魔が囁く「この料理はおかわりがまた、美味しなんですよねえ」それもそのはずだ、最後の一口に続く次の最初の一口が美味しでないワケがない。天使は都合が悪くなるとそれは試練ですとか言い訳するが悪魔はいつでもどこでもどこまでも正直だ。そして終わりが始まりであることをもって人はそれを幸せと呼ぶが、そこに悪魔が介在してこないはずがないのだ。
おかわりを大盛で頼む5人、しばしの静寂を破ったのはサンゴだった「へっ、旦那もヒトがワルいネ!」何よりの称賛の言葉だろう、ニイゴが続く「メーン、これにどうやって勝てってのよ、ヨンゴブラザーにはハンデが必要なんじゃねーの?」称賛の洪水だ「ヨンゴ先輩、どこかの勝負でオレが勝てたら『ここの店のこのパスタを喰え』を助言として教えて欲しいッス」
全員思い出したかのように白ワインを手にする「はぇー…(ワシ、思うんじゃがの、この快感ってちょっと失礼かもしれんが、ジャンクフードの与えてくれる興奮に似とると思うぞい…)」「かなり乱暴な表現ですが…言い得て妙ですねえ、案外人間の美味しの根底は初めて駄菓子や祭屋台の食べ物に出会った時のそれなのかもしれませんねえ」
「ある意味オレがこれまで出してきた懐かし美味しより懐古ポイント高いかもしれないんスね」「メーン、それよりブラザーズ、なんかこう、腹減ってきてね?食べる前より」「多分旦那はそこいらの先まで考えてんゾ、見ろよ旦那がワルいこと考えてる顔してんゼ?」
「さあ二皿目です!ここのお店特製の激辛チリオイルをかけて味を変えていきましょうか!」「で、出たーッ!うちの父親がそのあまりの美味さに『チリオイルかけフォカッチャ』だけで満腹になってしまったヤツーッ!」
「うめ!うめ!これいくらでも喰えるッスよ!」「ヨンゴブラザーの企みってコレかあ」「『無限喰いハイ』とでもいうんかネ、ましてやこの美味し空間サ、限界超えて喰い続けちゃうでしょう!」「皆さん、おかわりはいかがです?」「ふっ!(くっ、抗えん!)」
「三皿目はアンチョビとキャベツをこれに追加してもらいましょうねえ!」「くあ!そうきたか!そうきちゃいましたか!攻める、攻めるねえ!」辛味を洗い流すキンキンに冷えた白ワイン美味し、ある意味天国であり、またある意味地獄のようでもあったが、生きるということはその両方を行ったり来たりすることなのかもしれない。
5人は食べた、食べ続けた「食欲の秋ってカ!」「サンゴブラザー、これもう食欲ってレベルじゃねーよ、暴食で強欲だよ、七つの大罪ダブル役満メーン!」三日目まではカウントしていた、恐らくその狂宴は七日ほどは続いたと思う。
「へっ、へへへ…」5人は力なく薄笑いを浮かべていた「ふへへ…(そろそろ移動せんと本物のバカになってしまうぞい…)」いやもう充分本物のバカですよ、と誰もが思いつつ秋夜の満月に向かって一斉に手を合わせた「ごちそうさまでした」