第3章 ランゲージ・エンゲージ 1
状況確認。見知らぬベッドの上にいる。持ち物、財布、バスの定期券。記憶はある。俺は異世界から来た。異世界を研究していた。異世界転生のルールも覚えてる。
だがーー
隣にいる女の子は誰だ?思い出せない。知らない間に女の子が横で寝ていた。そんな素敵イベントにも、なぜか素直に喜べない。
その子は目を覚ました。
「…ん…おはよ」
電撃が走った。正直、超タイプだった。ストライクゾーンど真ん中。まるで、脳内を覗かれて分析されたかのように、俺の好みに合う女子だった。
短く切りそろえられた髪、斜め下を見がちなその仕草、控えめな喋り方、そのスタイル、頭の先から足の先まで右手の先から左手の先まで上下左右、前後表裏、完璧にマッチしていた。
一目惚れというのはこういうのをいうのだろうか。
おっと、見とれていてはいけない。
「あ、あぁ、おはよう」
「……? どうしたの?」
「えっと、きみのことを思い出せないんだ。この世界の人かな?」
その子は、一瞬悲しそうな表情をしたように見えた。
「…私は、アイだ。君といっしょに異世界から来た」
アイ……
聞き覚えのない名前だ。
「…おそらく転生の際に、神に私に関する記憶を消されたんだと思う」
「なるほど……」
これが、女神の言っていた神様の仕業か。
それからアイから、様々なことを聞いた。アイが俺がいた世界とは別の世界にいたこと、そこに帰ろうとしていること。記憶を失っていること。
「…それでね、ここに来て思い出したの」
「何を?」
「…私がもともといた世界のこと」
俺とは逆パターンで神から記憶を断片的に戻してもらった、ということか?
「…私、ゲームの世界から来たの」
「ゲームの世界?」
「…VRMMO。名前は……『ディストピア・オンライン』」
VRMMO。仮想現実大規模多人数オンライン。おそらくその世界へは転移で行ける。
ーー死なずに済む。
「まあ、とにかく外に出て周辺を探索しに行こうか」
「…うん」
部屋から出て、一階に降りると、屈強な男がいた。
どうやらこの人が俺たちを拾ってくれたらしい。
「あの、ありがとうございました」
「mgjtmdgaぴょwgwpjtdapwptpdgw!」
ぴょ、しか聞き取れなかった。この世界独自の言語らしい。この世界を探索する前に、とりあえず、この言語習得から始めなければいけないらしい。
ご飯までご馳走になり、何度も頭を下げてお礼をした。
家の扉を開けると、広大な街が広がっていた。美味しい空気。いい匂い。初めて見る形の家。それらを見て、異世界に来たことを実感する。
「とりあえず、散策しつつ図書館みたいなとこを探そうか」
まずはこの世界の言語を知らなければ、情報収集すらできない。当面の目標は、言語習得と、寝泊まりできる場所の確保だ。
街中を散策して気づいたことは、この街にはありとあらゆる施設が揃っているということだった。食料品店、呉服店、学校、老人ホーム、文具店、酒場、マッサージ店などなど。街として完成されていた。異世界から来た者が革新を起こす必要もないくらいに、安定していて、平和だった。
しかし、なかなか図書館や本屋が見つからない。
言葉を通じるようにするために図書館に行きたい。
しかし、見つからない。街の人に聞こうにも、言葉が通じない。言葉を通じるようにするために、図書館に行きたい。そんな無限のジレンマが続く。
そうこうしているうちに、辺りが暗くなり始めた。
この世界にも夜のようなものがあるのか。お腹も空いてきた。
屈強な男の家を出た時が、何時だったのかはわからない。この世界の夜が何時からなのかもわからない。そもそも時間という概念があるのか?
この世界に来てから時間感覚がまるでない。まるで、時間なんて気にするな、と世界から言われているかのようだった。
「とりあえず宿屋に行って今日は休もうか」
「…うん」
言ってから気づいたが、女の子に対して、「少し休んでいかない?」などと言うことは、誤解を招きかねない表現だ。俺は真の紳士、真摯な紳士、sincere紳士を目指している。今後気をつけよう。
行ってから気づいたが、お金がない。これは、切実な問題だ。日本円なら持っているが、この世界では使い物にならないだろう。
この世界に来て1日目。この1日目はサバイバル生活にしても、異世界生活にしても非常に重要なものだ。
拠点の確保、協力人の確保、食料品、その他生活必需品を揃える目処を立てることができれば、その後の生活がぐっと楽になる。だが、俺たちはと言うと、拠点を見つけるでもなく、お金を稼ぐのでもなく、ただ歩き回っていただけだ。俺に至っては、初めての異世界で浮かれてしまい、旅行気分でいた。
俺たちはこれからこの世界で、生活をしなくてはいけない。あの屈強なマッチョマンの家に、お世話になった方が良かったのか? だが、今更引き返して、もう一晩泊めてください、とも言いづらい。そもそも言語が通じないから、言いづらいというより、言えない。
こんな場合、こんな状況、主人公ならどうする?
異世界モノならどうしてた? 必死に考えを巡らす。
そんな時、隣のアイが宿屋の看板を指差した。
「…あれ見て」
看板には意味不明の文字が並んでいる。
「なんて書いてあるのか読めないぞ?」
「…あそこ」
看板の下の方。大きな赤文字で"g-0"と書かれている。看板に、0の文字。考えうるのは、"無料"。
「もしや、無料ってことか?」
「…たぶん」
そんなに粗末な部屋なのか? それとも食事代が馬鹿高いのか? それとも延長料金でぼったくりの値段つけてくるのか? さまざまな不安がよぎる。
"この世に、タダほど怖いものはない。"ウチュウではそんな言葉があった。しかし、ここはこの世ではない。異世界だ。
相談した末、入ってみることにした。
「usbduetsvbeiにゅるaysnka!」
にゅる、しか聞き取れなかった。たぶん、「ようこそー!」と言っているのか?緊張しながら受付に向かう。ちゃんと伝わるだろうか? 0という文字を見る限り、数字は伝わりそうだが、そのほかは全くわからない。
しかし、受付は、宿泊者カードに名前を書くだけで済んだ。こんな簡単なのでいいのか、とは思ったが受付と会話せずに済み、ホッとしていた。それに受付の人から何も説明を受けなかったし、やはり無料なのだろうか。
鍵を受け取り、鍵と同じ文字が刻まれている部屋を探す。
その部屋は2階の廊下の一番奥にあった。残りの不安要素は部屋の綺麗さだったが、それもクリアされる。中に入ると、きちんと整えられた部屋だった。
俺の研究室なんかよりよっぽど綺麗だ。新築のような木の香り、隅々まで掃除が行き届いていた。
俺ら2人とも、入るなりゴロンと寝転ぶ。今日はもう疲れた。
「…ねぇ、お腹すいた」
「あー、そうだな。食堂とかあるのかな?」
心身はもう動きたくないと思っているが、空腹には勝てない。
「ちょっと見に行ってみようか」
「…うん」
一階に降りて受付横の通路を抜けると、いい匂いがしてきた。空腹の俺たちにとって、悪魔の誘いだった。一方それは天使の誘いでもあった。
食堂に入り、恐る恐るメニューを見ると、並びに並ぶ、"g-0"の文字。
「ここも無料なのか?」
「…みんな、払ってない」
他の客を見ると、先払いするわけでもないようだし、食べ終わった後は、そのまま出て行ってしまう人ばかりだ。本当に無料らしい。
それでもなんだか気が引けたので、一人一皿ずつ注文。メニューが読めなかったので、何を頼んだかわからなかったが、何がくるのかお楽しみというドキドキ感もあった。
しばらくして、運ばれてきた料理は見たこともない肉や、見たこともない草が使われていた。アイの頼んだものは、パスタのような、麻婆豆腐のような、ロールキャベツのような、カレーのような、スープだった。
一口食べてみた。
美味い。空腹だからか今まで食べてきた中で一番うまかった。
アイはというと、一口食べて、初めは平気そうだったが、2秒後に顔をしかめ、
「…辛い」と一言。
そして水を飲み干す。これじゃいくら水があっても足りなそうだ。どうやらハズレを引いたようだった。
「交換するか?」
「…ありがと」
よくわからない肉料理と、よくわからないスープを取り替え、食事再開。そのスープを一口。
「辛い。」
辛いとしか言えない。でも、美味い。慣れてしまえば、スパイシーと形容できる。
「…大丈夫?」心配そうなアイの声。
「ノープロブレム」
親指をグッとつきたて、強気のグッドポーズ。
そして、完食し、お代を払うこともなく、俺は唇を真っ赤にして、部屋に戻った。
部屋に戻ると、いつのまにか布団が敷かれていた。まるで旅館のようなおもてなしだ。
布団にバタンと倒れこみ、今日の出来事を回想する。長い1日だった。どこからが今日なのか曖昧だが、最近の睡眠は、睡眠というより、意識喪失に近かったため、こうしてゆっくり考えながら寝ることができるのは久しぶりだ。
「明日はもう少し遠くまで見に行ってみようか」
「…うん」
「んじゃ、電気消すよ。おやすみ」
「…おやすみ」
ーーアイはゆっくり眠れただろうか。
俺は全く眠れなかった。異世界に来た興奮はまだ冷めない。隣にタイプの女の子が寝ているという興奮も少なからず冷めることはない。だが、俺は心志、心身、紳士的だ。神使ともいえる。就寝中の寝室の女の子に手を出したりしない。
これは深層心理、信念だ。
そんなことを考えながら、明日からの生活を考えながら、夜を明かした。
そうだ。異世界に来たことだし、またあれを書き始めよう。