第1章 愛と出逢い、 5
いつのまにか雨が降り始めていた。バスのワイパーが、俺の心臓と同じリズムで動いている。道路の信号一つ一つが鬱陶しかった。
早く、早く、早くーー
周りの乗客学生も、立鉄キャンパスで何かあったらしい、とSNSなどを見てざわつき始めた。
バスを降りて、全速力で走った。雨なんて気にならなかった。
その場所はすぐにわかった。この大学のシンボル、十七階建てのビルキャンパスの下に人が集まっている。
彼女は、その屋上にいる。太陽の光を受け、はっきりとは見えないが、縁に人影があった。
下で何人かの人が、陸上部用のマットをいくつか用意しているが、明らかに数が足りない。
自殺志願者を刺激することは、最も危険とされている。それで、膠着状態が続いている。周りの人は「あれ誰?」というふうに見ている。孤独な彼女を知る者はいない。
俺は駆け出した。周りの人は驚いだろう。俺が一番驚いている。周りの人は俺を馬鹿だと思っただろう。俺が一番わかっている。それでも俺が行かなければならない。
エレベータに乗り込む。焦りからボタンを連打する。指が震えているだけなのかもしれない。
2階…
3階…
4階…
いつもよりエレベーターがゆっくり動いている気がしてしまう。早くしろよ!
5階…
6階…
7階…
8階…
9階…
10階…
11階…
意味もなく足踏みをする。
12階…
13階…
14階…
エレベーターでは15階までしか行かない。そこからは屋上までは、階段で行くしかない。俺は階段を駆け上がった。
15階…
16階…
17階…
運動不足を感じさせない走りだった。そして、屋上への階段を登りきり、息を切らせながら扉を開けた。
雨が、冷たかった。
そこに、彼女はいた。彼女は何かブツブツつぶやいている。
「おい!馬鹿なことはやめろ!」
「…きみか」
刺激しないようにしなければならない。慎重に慎重を重ねる。
「とりあえず、落ち着こう? な?」
「…これ以上にないくらい冷静だ」
「なんで、こんなことをするんだ?」
「…理由は簡単。元の世界に戻りたいからだよ」
「そんなことをしたってどうにもならない!」
どの口が言っている?変な実験して、かっこつけて、何を見つけた?何のためになった?
唯一見つけたものは、現実だけだ。
「…きみは、異世界の存在をを信じてる?」
「っ……!」
痛い質問だ。昔の俺なら、迷わず即答できた。今の俺には、できない。
「…どうなの?」
なんて答えるのが正解なんだ?
苦し紛れに回答を絞り出す。。
「……信じて……いた、かな」
心の底からの、本音。前は信じていた。今はもう、異世界に行くなんて不可能なのではないかと思い始めている。
「……そう。じゃあ、私一人で行くことにする」
「待って! 異世界は半信半疑だけど、君のことは、信じている!」
安っぽい、薄っぺらい、矛盾。
「……」
彼女はこちら側に降りた。思いとどまったのかと思ったが、無言で、群衆がいる方とは反対の縁に歩き出した。そっちの下にはマットも、人もいない。
「…ねぇ、君も見に来てごらんよ。世界はこんなに広いんだ。」
ためらいつつも、恐る恐る登ってみた。その景色は雲に隠れているが、果てしなく、続いている。あぁ、なんて自分はちっぽけなんだろうと実感する。
「こんなものじゃない。世界はもっともっと広いのさ。翔悟」
横にいる彼女を見る。何を話せばいいのだろう。用意していた台詞は言い尽くしてしまった。アドリブ力は俺にはない。
溢れ出す思い。自分でもよくわからない。出会って2日の女の子の何を知っている? 俺は惚れっぽいなあ。なんでこんなに惹きつけられるんだろう? そういう運命、定められた宿命、前前前世からの因縁、巡り巡る因果?
ーーあるいは、天命か?
そんな少女漫画みたいなロマンチックなものは存在するはずがない。
ーーそれでも。
思わず、俺は彼女を抱きしめた。
振り絞ったセリフ。紛れも無いアドリブ。そして謎のポエム。
「アイが孤独だとしても、俺がいる。
記憶がないなら、今から作ろう。
過去に何があったかは知らない。
それがなんだって言うんだ。
未来を見よう、現実を見よう。
死ぬまで一緒だ。死んでも一緒にいよう。
だから……」
だから。続きに迷いはない。
「アイ、好きだ。俺と付き合ってくれ」
文脈がおかしくなってしまったかもしれない。これが海川翔悟、人生初の告白。
告白する気なんて毛頭なかった。でも、自然と何かの力に引かれてセリフがポンポン出てきた。
言ったあとに後悔する。こんな出会って2日の男からの告白なんて気持ち悪いだろう。
彼女の反応はこうだった。
「……ねぇ、確認だけど、異世界ってあると思う?」
痛い質問。
「…異世界なんてない。そんなもの、知らない。」
いい慣れた台詞。しかし、心持ちが違う。今はもう……
「…さすがね。」
刹那。力一杯引っ張られた。何が起こったのか理解できなかった。
ーー彼女と俺は、飛び降りていた。
足を滑らせた? 違う。彼女に引っ張られた。俺の惹かれた彼女に。
重力加速度を受け加速していく。
よく、死の間際は時間がゆっくり感じられるという。まさに俺は、その瞬間を、スーパースロー映像のように感じた。
16階…
15階…
14階…
怖い、恐い、
怖ろしい、恐ろしい。
怖い怖い怖い。
13階…
12階…
11階…
その時間の減速が、死の恐怖を増幅する。
10階…
9階…
8階…
7階…
6階…
死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!!!
5階…
4階…
3階…
彼女を、抱きしめた。最後の抵抗だった。
2階…
1階…
ドサッ