白い祈り(絵・鍋弓わたさま)
鍋弓わたさま(http://6789.mitemin.net/)のイラストに文章を付けさせていただきました。
ジャンルは指定なし、必須要素は「白い鳩」の作品です。
ジールの目に映る物はすべて、彼女の物だった。欲しいものは口に出すだけで何でも手に入る。
服といえばデザイナーがやってきて服をしつらえてくれたし、お菓子といえばパティシエがケーキを焼きに来た。部屋に飽きたら大工を呼んで模様替えをし、音楽を聞くために楽師を招聘した。
苦節の末に富を手に入れた両親が、愛しい一人娘に同じ思いを味わわせたくないと思ってすべてを与えたのだ。
生まれた時からの環境はジールにとって当然のものであり、違和感を覚えることなく育った。
家から出ることなく全ての用事が済んでしまうジールには、外の世界を知る機会がなかった。街はすぐ近くにあるが、城壁のように強固な塀により彼女の家の周りだけ空間が断絶されている。
常に両親が仕事で世界中を飛び回っている彼女にとって、彼らは使用人である以前に家族であり社会だった。
そんなジールにも、手に入れられないものが一つだけあった。
友人である。近隣の子供を呼びよせて遊び相手にしてみたこともあったが、気が合わなくて失敗に終わった。その隙間を埋めるように芸人や役者を呼び集める日が続いていた。
「ねえ貴方、外はどんななの」
暇つぶしに呼び寄せた旅芸人に問いかけた。彼はぎょっと目を剥くと、ジールを見ずに答える。
「どんなって、見えている通りですよ」
その答えに、窓から見える世界を眺めた。ついため息が零れる。
見渡す限り見慣れた庭が続いていた。月に一度やってくる庭師のおかげで、何年も形を変えず保たれた庭園だ。
「世界って変わり映えしないつまらないところなのね」
「お嬢さまがどんな暮らしをされているか、すべてをはかり知ることはできません。ですが、ひとつだけ保証いたしましょう。旅というのは大変ですがとても楽しいものです」
彼女の言葉の真意がつかめず、旅芸人は曖昧な笑みを浮かべた。軽妙な語り口が売りの商売をしている彼が、仕事中にこれほどまで言葉を詰まらせたのは初めてのことだった。
そこへメイドのヘレンがやってきて、終了の時間を告げた。
「お嬢様、夕飯に致しましょう。今日は隣の国から、一番の腕利きシェフを呼んでおります」
とてつもなく重大で特別なことであるかのように、ヘレンは大げさな身振りで話す。その仕草は旅芸人に渋面を作らせ、追い出すには十分な効果を発揮した。
肝心のジールはといえば、興味もなさそうにヘレンの後ろをついて歩くばかりだった。
――見たこともない国の、聞いたこともない料理なんて。
ジールが飽きないようにと毎食趣向を凝らして提供される食事は腹を満たすもの以外の何物でもなく、窓から眺める庭園のように味気ないものだった。
それでも、外の世界を見られない彼女を思ってのことだというのは身に染みて感じていた。その気持ちに報いるため、感謝しているふうを装うことばかりが上手くなる。
「ねぇ、ヘレン」
ジールが声を掛けると、彼女の肩が小さく揺れた。
「なんでしょう」
「わたし、欲しいものがあるの」
「この屋敷で揃わないものはございません。どうぞ、おっしゃってください」
決まり文句のようになった言葉を紡ぎながら、ヘレンは慣れた動作で手帳を取り出した。
「友達が欲しいわ」
ペンを走らせようとしたヘレンが身体を固くする。なんとか「お友達」と書ききると、ぎこちない笑みを浮かべて頷いた。
「どんな子がよろしいですか?」
男の子? 女の子? 年上かしら? それとも年下?
問いかける声の調子がいつもと違うことに、ジールは罪悪感を覚えた。ヘレンは思いだしているのだ。年頃が近いという理由で集めた子供たちとトラブルになってしまったあの日を――。
「そうね、鳥がいいわ。鳩なんてどうかしら?」
白い鳩は平和の象徴だという。誰が言ったかわからない逸話を思いだしながら、ぼんやりとジールは答えた。
次の日、本当に鳩が家にやってきた。新雪のような美しい白の鳩だった。
籠から出してやると、鳩は大人しくジールの手に止まる。そして、首を目いっぱいに伸ばしてジールに顔を近づけた。
そうして初めて見えたのだが、その鳩の首にはホクロのように黒い点の模様がひとつだけあった。ひと声鳴くたびに模様が動く。その様子が面白くてじっと眺めていると、ヘレンが息を飲むのが聞こえた。
「お嬢様、申し訳ありません。純白の鳩と注文したのに……。すぐに取り換えさせます」
「ヘレン。待って」
のど元の模様のことを言っているのだとすぐにわかった。
「わたし、この子が気にいったの。友達を取り上げないで」
ジールの切迫した声は効果てきめんだった。鳩を買ってきた使用人を怒鳴りつけようと息巻いていたヘレンは動きを止め、やり場のなくなった腕を後ろに組む。
「……お嬢様がそうおっしゃるなら良いでしょう。お世話はすべて私たちがいたしますから、遊びたい時はお申し付けください」
「ううん、この子の面倒はわたしが見るわ。動物と仲良くなるには、一日じゅう一緒にいるのがいいって本で読んだもの」
「そうですか? お嬢様がそうおっしゃるなら……」
ヘレンが思案顔をすると、鳩がのどを鳴らすように小さく鳴いた。
「せっかくだから名前をつけてやらないとね。……何がいいかしら」
じっと顔を寄せて鳩と向かい合っていると、その視線を追い払うように何度も頭を振って両翼を広げた。
「クレスなんてどう? 首の模様がネックレスをしているみたいだから、クレス」
ジールが呼びかけると、クレスはくすぐったそうに首を縮めて胸に顔をうずめた。柔らかそうな羽毛が顔の形に合わせて沈む。
そのまま毛づくろいをはじめたクレスを見て、ジールは声をあげて笑った。
クレスはジールの最初の友達になった。
空を求めて飛び出しても時間が経てば必ず帰ってくるクレスのことを、ジールは本当に大切に想っていた。
しかし、幸せな時は長くは続いてくれなかった。
「お嬢様、大変です」
ヘレンが半乱狂になって部屋に飛び込んできたのは、風の強い晩だった。
明日から強い嵐になるというので、それに備えて屋敷の者は各々買い出しであったり屋根の点検であったりと出払っている。おかげで屋敷はとても静かだった。
「どうしたの」
驚いて籠の中で羽ばたいたクレスをなだめながら、ジールは問いかけた。
「落ち着いて聞いてください」
「ええ」
「旦那様が……旦那様と奥様が乗られた船が転覆したそうです」
クレスを落ち着かせようと伸ばしていた指が止まる。
呼吸を忘れてヘレンの言葉を反芻した。脳にじわじわと意味が浸透し、全身から血の気が引いていくのを感じた。
「そ……それで、お父様とお母様は無事なの?」
「船がいる辺りにちょうど嵐が重なっているそうで、救助の船が向かえないと……」
深く項垂れるヘレンに、重い沈黙が続いた。不穏な空気を感じ取ったのか、クレスもじっと二人を見つめている。
「祈るしか……ないのね」
「はい」
屋敷の主を襲った不幸の話題は、瞬く間に使用人たちの間にも広まった。
「お願い、クレス。お父様とお母様を守って……」
雨が天井を叩き風が窓を揺さぶる中、ジールは祈り続けた。平和の象徴であるクレスに両親を守る力があるのかは定かではなかったが、彼女にできるのはそれだけだった。
雷鳴が轟き、庭の木が光った。バリバリと大きな音を立て木が倒れていく。
目の前で起こる現象が信じられず、ジールは夢の中にいるような心地になった。
――目が覚めれば、嵐なんて夢だったんだって安心できるのに。
変わり映えのしない世界がどれほど幸せなものだったか、今になってひしひしと感じられる。
ヘレンや他の使用人たちがせわしなく動き回っている様子を見ると、悪夢のような光景の数々が紛れもない現実なのだと教えられた。
嵐の規模が大きくなるほど、ジールの胸のうちの不安も膨らんだ。
――こんな時、海はどうなるんだろう。
海を知らないジールには想像もつかなかった。冷たい水にもまれ、苦しんでいるのだろうか。それよりは、せめて楽に最後の時を迎えて欲しい。
縁起でもないことだが、悪い方向へ進む思考を留めることはできなかった。
嵐が去った翌日、クレスはすぐに籠から出せと催促し始めた。普段の大人しさからは想像もできない行動だった。
「どうしたの?」
心配しながら給餌のための器を見るが、水も餌も十分にある。
天候が回復したことでこれまでの運動不足を解消しようとでも思っているのだろうか。
クレスが騒ぐ理由がわからないまま、求められる通りに籠を開けた。
白い鳥は、バサバサとせわしない音を立て、屋敷の中を猛スピードで飛んだ。
滑らかな動きで障害物をよけ、あっという間に玄関を抜けた。
――お父様やお母様だけでなく、クレスまでいなくなってしまったら……。私はどうやって生きていけばいいの!
奇妙なクレスの行動に不安を覚えたジールは、遠ざかる白いシルエットを追って走る。
「お嬢様!?」
驚いたヘレンも彼女の後を追って駆け始めた。
白い鳩を先頭とした奇妙な行列は広大な庭を通り抜けようとひたすらに進んだ。途中、御者が馬車を牽いて表れ、息も切れ切れになっていたヘレンとジールを救出した。
クレスは馬車が動きだすのを待つように空中で何度か旋回したあと、再び屋敷の敷地から抜け出すように遠くを目指して飛んだ。
「クレス、案内してくれてるんだわ」
根拠はないが、ジールは確信していた。クレスの向かう先に、両親がいる。
塩気を含んだ風の匂いを感じながら、ジールは御者を急かした。
馬車は人通りの多い道を避けて港を目指して進んでいく。
――どうか、二人とも無事で。
胸の前で指を組み、一心に願い続けた。隣でヘレンが祈りを捧げている声も聞こえてくる。
「……っ、お嬢様!」
馬が嘶き、馬車は急停止した。
港には崩れた船が停泊し、周囲に人だかりができていた。
「ヘレン」
「ええ……」
ヘレンが頷いた。かろうじて船の形をとどめている「それ」は、ジールの両親が乗っているはずの船だった。
人だかりのせいで様子がわからない。野次馬ははけるどころか次第に数を増し、耐え切れなくなったジールはその中へ飛び込んだ。
人が多くいる環境には慣れているはずだった。けれど、無秩序に押し寄せる人波に飛び交う怒号は全くの未知で、委縮した瞬間にもみくちゃにされていた。
上空で様子を窺っていたクレスはじわじわと高度を落とし、羽音を響かせながらジールの元へ降りていく。
人々は急に降ってきた鳩に驚き、ジールから一歩離れた。
視界が少し拓けたことで落ち着きを取り戻したジールは、手の甲にクレスを止まらせて船のある方へ急いだ。
「お父様、お母様っ!」
人の山が途切れた所に、毛布にくるまれた人影があった。
「……やぁ、ジール。お誕生日おめでとう」
顔色は悪く、やつれていたが父は生きていた。隣に連れ添う母も、力なくはあるが笑みを浮かべている。
「よかった」
緊張の糸が切れ、ジールはその場に崩れ落ちた。そして、子供のように泣いた。人々は呆気にとられながらも、無事に再会した親子へ祝福の拍手を送った。
「旦那様、御無事でなによりです」
「心配かけたな」
「お嬢様が、ひどく心配されていたのですよ」
目元を赤く染めたヘレンが小さく洟をすすった。
「娘の誕生日に間に合わせようと急がせたら、波に負けてしまったんだよ」
ハハハ、と豪快に笑う姿は、いつもの父だった。