私と私(絵・けいさま)
けいさま(http://254.mitemin.net/)のイラストに文章を付けさせていただきました。
ジャンル・必須要素は指定なしの作品です。
月があんまりにも綺麗だったので、千景は自転車を漕いだ。
もっと近くでしっかりと網膜に焼き付けたい。その一心だった。
漕げども漕げども、月には近づけない。むしろ、彼女から逃げるように小さくなっているふうにも見えた。そして、満月は恥じらう乙女のように雲の陰に隠れてしまった。
厚い雲を突き破ってなおも光を溢れさせる月の存在感は、圧巻だった。息が止まりそうな衝撃に打たれながら、千景の足はペダルを踏み続ける。
住宅の壁が途切れ、拓けた農耕地に出た。遮る物がなくなったおかげで、雲さえ風で流れてくれれば文句のつけどころがない眺めになるだろう。
自転車を降り一息つこうとした時、人影が目に留まった。
千景と同じ高校の制服を着た女の子だった。
こんな偶然もあるのかと驚きながら、彼女の隣に並んでみる。
「こんばんは。あなたも月を見に来たの?」
千景の呼びかけに、先客は答えなかった。胸にかかる長さの髪が表情を遮り、不安を植え付ける。
緩やかな風が吹いて少女の髪が乱れた。それを整えるために髪を掻き上げた瞬間に、千景の呼吸は止まった。
――私と同じ顔!?
間違いない。目の前の少女は千景と瓜二つな顔をしていた。よく見てみれば、鞄に付いたキーホルダーも、自転車も、靴も丸写しだ。
唯一異なるのは、もう一人の千景は死人のように青白い肌をしていることだった。
月明かりと街灯しか光源がないとしても、明らかに色が白い。表情からも生気が感じられなかった。
「……あなた、一体何なの?」
震える声で問いかけると、もう一人の千景はゆっくりと顔を動かした。タイミングを見計らったように雲が千々に分かれ、彼女の存在が強調される。
「私はあなた、あなたは私」
どきりとするほど澄んだ声だった。
鼓膜ではなく体の芯に訴えかけるような響きに、思わず納得しそうになる。
「でも、おんなじ人が二人いるのっておかしいよ」
千景が詰め寄ると、もう一人の彼女は冷めた目で月を見上げた。
個々のパーツは同じはずなのに、表情ひとつで別人のように思える。
「一日が二十四時間しかないと嘆く人はいても、千四百四十分もあるじゃないかと楽観したり八万六千四百秒もあると絶望したりする人はいない。そういうことよ」
「どういうこと?」
「……物分かりがわるいのね。少なくて嘆く人はいても、多くて困る人はいない。そうは思わない?」
もう一人の千景は眉ひとつ動かさず、淡々と語っていた。彼女が口にする内容もさることながら、無表情なのが一層不気味だった。
「私、自分は一人でいいと思うの」
「なぜ? 二人いれば片方が学校へ行ってもう片方が遊びに行くことだってできるのよ?」
「そんなことしたって楽しくないじゃない」
ぽつりと零した途端、空気が変わった。刺すような殺気が千景を包み、一瞬視界が歪んだ。
瞬きをして目をこする。千景の脳は目の前の状況を認めまいと何度も視線を泳がせた。
「――……月が、ふたつ?」
「そう。ふたつ。ひとつの時より明るいでしょう?」
もう一人の千景が嬉しそうに目を細めた。初めて見せる表情らしい表情に息を詰まらせる。
「あっちの月があなた。こっちの月が私」
元からあった月を示し、それから新たに現れた月に指を滑らせる。
「見えるモノと見えないモノ。表と裏。それがあなたと私」
「まるで、自分が裏だと言ってるみたいね」
「その通りよ。見ていて、今に面白いことが始まるわ」
彼女の声が合図になったのか、第二の月が動き始めた。二人が見守る前で本来の月へゆっくりと迫っていく。
目視でもわかるそのスピードに、思わず息を飲んだ。
かさついた唇を舌でなぞり、月の動向をなぞる。緊張から血の気が引いていくのが感じられた。二人の千景はどちらがどちらかわからなくなるほど蒼白で無表情だった。
二人の視線が交わるところで、二つの月が重なった。どこから現れたのか、大きく厚い雲が月を覆い隠す。
「……あれが面白いこと?」
「ええ」
雲が切れると、そこには何もない空が広がっていた。
二つあったはずの月がない。星もない。光だけは変わらずに降り注いでいた。
「どうなってるの!?」
「あなたは、自分がいなくなったら世界が変わると思ってるの?」
「……考えたことない。でも、友達や家族は悲しんでくれるはずよ」
「それはどうかしらね」
意味深い笑みを見せると彼女は千景に歩み寄った。顔と同じで青白い手を伸ばし、抱き付きながら耳元に口を寄せる。
「月のひとつやふたつ、消えたって変わらないのかもしれないわ」
雲が晴れた空には、数え切れないほどの月が浮かんでいた。空一面が月だ。万華鏡のような空に圧倒される。
「あなたとは上手くやれそうだったのに、残念だわ」
彼女の声を聞きながら、千景は意識が遠のくのを感じた。
「おい、大丈夫か。救急車呼ぶか?」
声を掛けられて、重い瞼を開いた。よれたシャツにだぼついたズボンの男が顔を覗き込んでいる。
「……んっ、大丈夫です」
長いこと眠ってしまっていたのか、身体が痛い。怪我はしていないのを確認して、男性にお礼を言った。
彼はたまたま車で通りかかった人らしく、住宅地から外れた所で倒れていた千景を心配していた。
「どうしてこんな所で寝てたんだ?」
「それは……」
答えに迷ったが、正直に話すしかないと腹を決めた。
「月があんまりにも綺麗だったので」
「月? お嬢ちゃん、大人はからかうもんじゃないよ」
呆れたような口ぶりに、証拠を示そうと空を仰いだ。
「今日の満月はいつも以上に大きくて。だから写真を撮りに……あれ?」
どこを探しても月は見当たらなかった。
空を仰いで視線を泳がせる千景に不信感を抱いたのか、男性はポケットのスマートフォンを取り出した。
「夢でも見てたんじゃないか?」
差し出された画面を見て絶句する。
彼は今日の月の満ち欠けを調べてくれた。そこに表示されている今日の月は「新月」だったのだ。
「……でも、私見たんです」
必死で訴えるも、もう一人の自分にあったことや月が二つになったことを話せば本当に警察か救急車を呼ばれてしまうだろう。
もどかしさに足踏みを繰り返しながら空とスマートフォンの情報を確認した。
「疲れてるんじゃないか? 時間も時間だし、親御さんが心配してるだろ。この車でよかったら自転車も一緒に送るよ」
見ず知らずの相手ということもあり、千景は彼の申し出を丁重に断った。
自宅までの道のりを自転車で進みながら、頭の中では勘違いに至った原因を探る。
「……あっ、そうだ!」
周囲が明るいのだ。街灯の明かりだけでなく、満月を想起させる光があるからあれが夢だと思えなかったのだ。
千景が気付いたと同時に、瞳の奥が鋭く痛む。反射的に瞬きをすると、一転して周囲は新月特有の闇に呑まれていた。




