1話 その1 異世界転移1
「ケホッ、グホッ、ゴホッ」
まさか溺れるなんて……
直前の記憶はカナちゃんを助けたこと、そして川に流されたことだった。
助かったのはいいけど、どこなんだここは。
気が付けば、山に囲われた場所に打ち上げられているようだ。
あの川ってこんな場所まで入り込んでいたっけ……
何か妙な感じがするのだが。
まあ、でも、歩いていればそのうち知ってる場所には出るだろ。
俺は守留町に戻ろうと、山道を進んで行くことにする。
しかしその道中で、だんだん危険を感じ始めていた。
なぜなら、山林の暗がりから何かの気配がしてきたからだ。
やばいな。
茂みから何かが出てきそう……
もしかしたら、熊かも。
……どうしよう。
やっぱり……
こういうときは、早く逃げた方がいいよね。
俺はそう決断を下すと全力で走りだした。
――しかしその逃走の最中、自分の体ながらどこか違和感を覚え始めていく。
ここは舗装もされていない山道だ。
石も散らばっているし、傾斜だってもちろんある。
それなのに……
何でこんなに疲れないんだろう。
やがて十分に距離を取れたと判断し、息を整えながら立ち止る。
途中で何度か後ろを確認していたけど、熊なり猪なり、そんなものが追ってきている様子はない。
ひとまず危険は去ったと考えていいだろう。
俺は完全に後ろへと振り返り、いま来た道を見渡した。
けっこう走ったと思ったんだけど、まったく山を抜ける気配はない。
もしかしたら思っていた以上に遠くまで流されたのかも。
とはいえ、なぜか体力には余裕がある。
このまま歩き続けていれば、いずれ守留町に戻れるはず。
そう思いながら、ふたたび山の中を進んでいく。
――そして、それから数時間。
全然着かないよ!
太陽が沈んで夜になっても、俺は未だに山の中を歩いていた。
しかも目の前にはまだまだ暗い道が続いている。
いいかげん山を下りさせてよ……
せめて妹でもいれば、お兄ちゃんに任せろとか強がることもできたのに。
心細さを感じながらも進んでいると、地面に小岩が埋もれていることに気が付いた。
ちょうど先端だけが突き出ている。
危ない、もう少しで躓くところだったよ。
やっぱり山道は歩きづらいな。
そうして小岩を避けると、そこでふと疑問が浮かび上がってくる。
あれ……
でもどうして岩があるって気づいたんだろ。
今になって自覚したことだが、カメラの暗視機能を使ってるみたいに視界がよく見渡せるんだけど。
夜の山ってこんなに明るかったっけ。
月明かりのおかげってわけじゃなさそうだし、やっぱり何かおかしい。
それにもう流された距離分くらいは歩いたと思うんだけどなあ。
川沿いだから道を間違えるわけもないし、なんで守留町に辿り着かないんだ。
ちゃんとこのまま進めば戻れるよね……
俺は心配になりながらも山の中を歩いていった。
すると今度はそれとはまた別の不安に襲われるようになってくる。
――昼間にも感じた、森の中の気配だ。
うーん、何かいそう……
こうなったら仕方ない、また走るしかないか。
熊でも猪でも、そんなものと遭遇なんて冗談じゃないからな。
それじゃあ――
と、足に力を込めようとしたそのとき。
――茂みからガサッと葉枝が揺れる音がした。
っな、なに!?
反射的に音がした方向に振り返ると、俺はそこで言葉を失った。
……何だよ……こいつ。
俺が警戒していたのは熊とか猪とか、常識的な猛獣までだぞ……
いくら何でもこんな生き物が出て来るなんてあり得ないだろ。
この現れた生き物を一言で表すならば、猿に近い。
それもかなりの大柄だ。
むしろゴリラといった方がいいかもしれないが、それにしてはやたら細い。
手足は長く伸びているし、しかもその両手足からは鋭い爪が伸びていた。
ともかく危険な動物ということは一目瞭然。
――俺の緊張は高まった。
なにせ好戦的な目で低く唸ってるからな。
動かずに相手の出方を伺っていると、その金色の眼と視線が合う。
するとそいつは牙の生えた口を歪ませた。
どうやら俺のことを獲物と見定めたようだ。
「ガオオオオオオオオッ!」
圧倒的な威圧感を伴った咆哮に、背筋が凍りそうになる。
ただそれと同時に、俺は目の前に存在する動物のその姿を見て戸惑ってもいた。
確かにあいつにそっくりだが……
でも、馬鹿な……
しかしそんなことを考えている間にも、相手は動き出した。
威嚇のような咆哮を終えると、その身を低く屈め始める。
――そして視界から消えた。
まずいっ、これは――
動きこそ見えなかったが、とっさに地面に転がり込む。
その直後――
凄まじい速さの何かが空気を切り裂きながら、頭上を駆け抜けていった。
その風圧を肌で感じながら、冷や汗を流す。
ぎりぎりのところで攻撃を躱せたようだけど、なんて威圧感なんだ。
判断が少しでも遅れていれば、命を落としていたに違いない。
それが俺の中の戸惑いを”ふっきる”きっかけを与えてくれた。
すると自然に口元が歪んでいく。
あはは、ははっ、アハハハハ。
そうだよな……
相手が猿でも熊でも、何だって関係ない。
今大事なのは……
――こいつが俺を殺そうとして襲ってきた。
それこそが問題であり、最優先して対処すべき事象だった。
疑問など気にしてる状況ではない。
そう……
――どうしてゲームのモンスターが現実にいるのか。
なんてそんなこと、考えている場合ではなかったのだ。
俺は認識を改め、再びそいつの姿を見据えた。
獰猛な猿の姿――
それに先ほど見せた跳躍からの鋭い爪による奇襲。
やはりこいつは……
――オーヴェミウス。
携帯ゲーム機にインストールされていたRPGで登場したモンスターだ。
獣種の中でも、上位の相手である。
攻略推奨レベルは60。
俺のデータからすれば、ただの雑魚だった。
しかし今の俺は生身の人間なのだ。
ゲームみたいにスキルを使って瞬殺なんて出来ない。
どうやってこの状況を切り抜きればいいものか……
――そう考えを巡らせているうちにも、やつは、次の攻撃体勢に入っていく。
まったく……
少しはこっちにも反撃させてくれよ。
ともかく行動を見極めて対応しないと、殺されてしまう。
また爪による強襲なのか。
それとも別の攻撃手段を取るのか。
次の行動は何だ。
俺は視線を動かし、相手の出方を窺う。
さっきはゲームと同じ攻撃モーションだった。
だからこそ見えてなくても避けられたのだが、次の行動もそうなのか。
もしそうであるのなら、予想される攻撃は突進からの2連撃。
でも違っていたら死ぬかもしれない。
一瞬、脳裏に自身の体がバラバラに引き裂かれるイメージが浮かんだ。
恐怖のせいか、鼓動が早くなっていく。
額からは汗が浮か上がって睫にかかると、輪郭を伝って地面に落ちる。
しかし俺は一瞬の行動を見逃すまいと目を見開き、相手の攻撃に備えた。
――それからすぐにオーヴェミウスが動きを見せる。
やつは腰を屈めると身を低くして、体重を前にかけた。
そして……
――そのまま疾走してきた。
やはり最初の行動は突進なのか。
確かにこのパターンは予想していたがっ――
くっ、これほどに早いとはっ――
凶悪な爪を持った巨体が、凄まじい速さでこちらに迫りくる。
さながら弓の達人が矢を構えて、それを正面から放たれたような圧迫感だ。
とはいえゲームと同じ行動規則であるならば――
躱すことはできるっ!
俺はやつの突進に合わせて、重心を移動させた。
そして次に来るであろう攻撃を予測して、サイドステップを踏む。
――ザンッ! ザンッ!
予想通りのコースを爪撃が通り過ぎた。
その風圧だけでも体勢を崩されそうになるが、なんとか躱せたな。
だったら……
今度はこっちが攻撃する番だろ。
攻撃を外したやつは、大きな隙を見せている。
俺はカウンターとして、オーヴェミウスの脇腹へと蹴りを放った。
その右足は的確にやつの体を捉え、芯を貫く。
「ガオオオオオオオオッ!」
渾身の蹴りを受けたオーヴェミウスは咆哮を上げた。
だがそれは上手くカウンターが入ったから、というわけではさそうだった。
なぜならやつは怯む様子もなく、こちらを凝視していたのだ。
俺はその視線に危機感を覚え、体を凍りつかせる。
それに対してオーヴェミウスは腕を振り上げ、思いっきり薙ぎ払ってきた。
どうしてっ――
ゲームではカウンターを受けると怯むはずなのにっ――
そう思ったのも束の間、思考は痛みで中断される。
薙ぎ払われたその爪先によって、俺の体は切り裂さかれた。
「ガオオオオオオオオオオオッ!」
ぐっ。
こんな攻撃って……
体から力が抜け落ち、血だまりに膝をつく。
幸い直撃ではなかったようだが、腕と胸、それに脇腹が深く抉られているようだ。
とめどなく流れる血が地面に広がっていた。
痛い……
でもこのまま倒れたら、殺される。
に、逃げないと……
俺は震えながらも立ち上がり、距離を取ろうと後ずさった。
足元こそふらつくが、なんとか動くことは出来る。
ただ……
いまにも意識を失いそうだし、目も霞んで見えないような状態だ。
くそっ。
本当はカウンターで怯ませて、そのまま逃げ切るつもりだったのだのに。
どうして反撃なんか……
危機的な状況で様々な思考が浮かぶ中、ふいに閃いた。
もしかして、ダメージが全く通らなかったのか。
それではさすがに、怯まないよな……
ゲーマーならではの納得をすると、今度は自然に対策を考え始める。
しかし出血がひどく、頭がうまく働かなかった。
危機感だけが空回りして感情がそれに引っ張られていく。
攻撃力が……
足りてないんだ…………
もしこのまま何も出来なかったら、次は殺される。
焦りが次第に強まり、その焦燥感が心拍数を跳ね上げさせた。
――ドクンッ
せめてダメージが通れば……
――ドクンッ、ドクンッ
これでも俺の蹴りは、人間の骨くらいなら折れるんだぞ……
相手がゲームのモンスターだって言うなら……
その攻撃力……
ステータスで教えてくれよ……
――ドクンッ
――ドクンッ、ドクンッ
やがて意識は混濁し始め、そんなことを考え始めた。
しかしすぐに頭を振る。
いや、何を考えてるんだ……
いくら相手がモンスターだからって、ステータスなんてあるわけない。
現実逃避よりも、状況の打開策を考えないと。
自身にそう言い聞かせたものの、正常な判断力を保てた時間は僅か。
もはや思考するには血液が足りないのだ。
わずかに戻った自我もすぐに消えていく。
それでも鼓動はどんどん加速していき、傷口からは流血が続いていた。
――ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ
そうして致死量を超える血液を失った俺は……
死の間際……
目の前のモンスターと、ゲームの記憶。
その二つを現実に重ねあわせ、幻覚を見るようになっていた。
まるで走馬灯の代わりのように。
俺はゲームキャラを操作する感覚で、理不尽なこの場面に怒りを覚える。
そう……だ……スキルだよ……
相手がモンスターなんだから、スキルで対抗しなくちゃ……
なんで使えないんだよ。
俺はあのRPGをやり込んだんだ……
だからオーヴェミウスぐらい、楽勝だよな……
どの技があいつに有効かなんて……
もちろん……知ってる……
対策を立てることなんて……本当は簡単なのに……
オーヴェミウスみたいな雑魚に……
殺されるなんて……あるわけない……
それなのに…なんで、どうしてスキルが使えないんだ……
このままだと殺されるぞ……
もしかしてバグったのか……
ステータス……が……表示されない……
最強まで育てた……
俺のデータ、それが見れない。
このままでは殺される、ステータスを見せろ……
――ステータスを…………見せろよ!
そう思ったとき――
突然――
周囲の景色は真っ暗な空間へと切り替わった。