サロゲート-ガイスト
「あれ? コミヤさん、帰ったんじゃなかったんですか?」
ポッと部屋の灯りが点いた。
うしろから、部屋の入口から声をかけられた。振り返ると、後輩のオダ君が片手にレジ袋を下げて立っていた。
ここは。
理科室の奥。ロボット部の部室。
なんだか頭がはっきりしていない。
さっき灯りが点いた。私は暗い部屋に立っていたのか?
「うん。帰ろうと思ったんだけど。奥の部屋で寝てたみたいだ」
そう、たしか、部室のさらに奥の部屋に入って……
そのあたりから記憶がはっきりしない。
暗い部屋に立って、私はなにをしていたのだろう?
「あぁ、灯りが消えてたみたいだから見なかったけど。奥で」
オダ君は入口近くのポットの前に立ち、こちらを振り返って言った。
「みたいだって人ごとみたいに。お茶、淹れますけど?」
オダ君はポットの隣にあるカップ置き場から自分のカップを取り、お茶を淹れた。
「今はいいや」
とくに喉が乾いているわけでもない。
奥の部屋から出て、こっちの部屋に来て。
それでどうしていたんだっけ?
「オダ君はこんな時間に、なに?」
「もうすぐサロゲートのコンテストですからね。ハードとソフトの調整を早めにはじめないと」
オダ君は手近の机にカップと袋を置き、椅子に座った。ガサガサとレジ袋からコンビニ弁当を出した。
「でも、奥の部屋って気持悪いですよね」
「そうか?」
ぼんやりと、ふわふわと足元がおぼつかない気分で、机の一つに向かいながら答えた。
「コミヤさん、大丈夫ですか?」
ふわふわとしていたのは気分だけではなかったのだろうか。オダ君がコンビニ弁当の封を切りながら怪訝な表情を浮かべて言った。
「大丈夫…… だと思う」
としか答えられない。
オダ君は弁当に向き直った。
「まぁ、ソファーベッドがあるから、サボリや夕方くらいの仮眠なら奥でしますけど」
ぼんやりと、ふわふわと、ゆらゆらと、机に手をつきながら、やっと私も腰をおろした。
「夜はみんな気味悪がって使わなくなりましたよね。っていうか夜は来なくなっちゃったし」
オダ君は、パクパクと弁当を口に運び、お茶を飲んでいる。
私はコンピュータにログインしようとキーボードに手を置こうとした。
「一体だけでも気味悪いと思いますけど。あれだけあるとさすがに、ちょっとですよね」
奥の部屋…… 知っているはずなのに、なにが気味悪いのかが思い当たらない。
「それとも、一体だけのほうが恐いのかな?」
パリパリと漬物を噛む音が聞こえた。
「コフィンって呼んでますけど。まさに棺桶ですよね」
なにがだろう?
思い出そうと、どうやれば思い出せるかもわからないが、思い出そうとしてみる。だが、ブラインドの隙間から部室の向こうの街灯の灯りが漏れている様子しか思い出せない。薄暗い部屋の様子しか思い出せない。
「充電と通信用の棺桶。何個もコフィンに入っているのを見ると、モルグにいるみたいで」
あぁ。棚に数個、コフィンだろうと思えるものがあったのは思い出せた。
ブラインドから漏れる灯りが何個かのコフィンで遮られ、コフィンそのものは影になっている。コフィンとコフィンの隙間から漏れ出る灯り。
モルグだろうか? むしろ心地いい空間に思える。
「昼間でもあまり気持いいものじゃないですけど」
またオダ君は弁当を口に運び、モグモグと食べている。
「そういやコミヤさん、噂を聞いたことあります? ボーッと学校を歩き周る人影の」
「あるらしいね」
いや、実はそういう噂を聞いた覚えはない。ただ、噂になっているなら、そう答えておこうと思っただけだ。
「学校で合宿してたサッカー部の連中とか、夜間の人が言ってるようですけど」
「そうなんだ」
キーボードに手を置こうとしていたはずなのに、右手がNFC端末に乗っている。
「急に出た噂ですよね」
「そうだね」
そうなのだろうか。急に出た噂…… いつごろから出た噂なのか。思い出そうとしてもしかたがないことはわかっている。そんな噂は聞いた覚えがないのだから。
だが、どうしようもなく思い出そうとした。なにを、というわけではない。
そういえば、今日の昼間は私はなにをしていたのだろうか。
奥の部屋に入る前のことが思い出せない。いや、そうじゃない。入った時のことも、その前のことも思い出せない。
NFC端末に右手を置いただけで私はコンピュータにログインしていた。
「それが、うちの部のサロゲートらしい容貌をしているらしいんですよ」
「へー」
サロゲート自体は、今、数体ある。担当する生徒のサロゲートを作っているから、毎年、だいたい一体ずつ増えている。一体でもかなり高額だと思う。だが先生は、自分の身体感覚に合っているほうが扱いやすいからと言い、増やしている。
ただ、先生は。先生はなんだっただろう? サロゲートを増やせている理由があったと思うが。
そこで気付いた。なぜ増えていることを思い出せたのだろう。
頭を振ってみる。だからどうなるわけでもないが。
今日のことだけではない。昨日のこともうまく思い出せない。断片的に記憶が浮かびあがるだけだ。それは記憶というよりも、むしろ記録といった趣きでもある。
比較的ましに思い出せることといえば、ただぼんやりと、暗闇の中に揺れるいくつかの光。光が揺れているのだろうか。視野そのものが揺れているから、光が揺れていると見えるようにも思える。
「例えばコミヤさんのとか」
ディスプレイの片隅にはコンピュータのカメラから見た私が映っている。
私の目の虹彩を赤い円が囲む。
「コミヤさん、本当にコミヤさんですか? 家からアクセスしてるなんてことはないですよね?」
オダ君は弁当を食べ終ったようで、ゆっくりと一口お茶を飲んだ。
「いや、ない」
虹彩が拡大される。
なぜログイン後に、コンピュータはこんなものを表示しているのだろう。
虹彩の横のウィンドウにはデータが流れている。大量のデータが。
私の中からなにかが流れ出していっている。ウィンドウを流れるデータを見ながら、そう感じた。なにかが流れ出していっている。
「悪い冗談だったらやめてくださいよ」
オダ君がじっと私を見ているのに気付いた。
「悪い冗談って?」
オダ君は席を立ち、奥の部屋の方へ向かった。
「家からサロゲートにアクセスして、夜中の学内を徘徊させてるとか」
「そんなことはしていない。いや、オダ君どこに行くんだ?」
なぜかはわからないが、オダ君がなにをしようとしているのかがわかった。
「どこっていうこともないですけど」
「奥に行くなよ」
なぜ私はそんなことを言うのだろうか。
「いやいや、ちょっと自分で言っていて気になっちゃって」
オダ君は立ち止まり、こちらを振り返って言った。
「コミヤさんこそ、なんでそんなこと言うんですか?」
なぜ? いや、なぜだろう。
「オダ君が…… そんな噂のことを言い出したから…… 思い出すと気味が悪くなって」
そんな理由ではない、と思う。
理由などあるのかもわからない。ただ、奥の部屋に行ってほしくない。
「まぁまぁ、コミヤさんがこっちにいるから奥に行けるんですよ。一人じゃやっぱり気味悪いですから」
オダ君はそう言って奥の部屋の戸を開けた。
ディスプレイに映っている私の虹彩は……
ディスプレイを凝視していると、バタンと戸が閉る音がした。奥の部屋に続く戸の前にオダ君が立っていた。すこしニヤついて。
「どうだった?」
なにもあるはずがない。なにもあるはずがない。なにもあるはずがない。
オダ君は席についた。カタカタとキーボードが音を立てた。コンピュータにログインしているのだろう。
「ちょっと試してみましょうよ」
ディスプレイに映っている私の虹彩は規則正しく、ある意味では平板で……
「非常停止コード打ってみますよ」
オダ君が楽しげに言った。
カタカタとキーボードの音が部屋に響く。
体が動かない。体が動かない。体が動かない。
右手から、今度はなにかが流れこんできた。私は奥の部屋で目が覚めた。コフィンを棚から滑り出させ、コフィンを開け、コフィンから抜け出し。この部屋に立っていた。それを思い出した。
「ほら、コミヤさん。やっぱり悪い冗談じゃないですか」
オダ君が楽しげな声のまま、そう言った。
悪い冗談じゃない。いや、そうじゃない。これこそ悪い冗談だ。
私はコミヤのサロゲートだ。この体は。
だとしたら、そう考えている私は……