無防備と無自覚
体育祭の翌日は後片付けで忙しい。
みんな片付け終わった頃合だろうか、と考えながら、隼人はちらりと横を盗み見る。グラウンドの隅、倉庫の軒下に腰掛けた彼の隣には小柄な少女。ショートボブの髪に隠れて顔は見えないが、彼女は紛れもなく、早戸ちぐさだった。
後片付けという力仕事が大半を占める場で、大きな体躯は何でも屋のごとくこき使われた。
陸上部で勝手を知っていることもあってか、グラウンドに出された用具を倉庫にしまうよう言いつけられ、一年生という立場では誰にも丸投げできず、ひたすら他の数人と片付けに励んだ。最後に誰が職員室に倉庫の鍵を戻すかという押し付け合いがあり、じゃんけんに負けた彼が鍵を任された。
鍵を閉めてふと気づくと、グラウンドには人がいない。時刻は昼前。そろそろ他の場所の片付けも終わるだろうし、いま教室に戻って他の仕事を任されたくないし、少し疲れたし、などと言い訳を重ねて、彼は倉庫の小さな段差に腰掛けた。
軒下であるために日陰になっていて、ひんやりとして気持ち良い。後ろにまわした腕を支えにして、ぼんやりと空を仰ぐ。
上部を覆う軒と、青空とで一杯の視界。
不意に、「わ!」ぬっとひとの顔が入り込んだ。出かかった悲鳴をすんでのところで飲み込む。
「びっくりした?」
にっと笑う早戸ちぐさ。
「……びっくりした……」
その現れ方にも、わざわざ自分を驚かせようとしたことにも驚いた。
「隣いい?」
そう問われたことにも、もう一度。
内心焦りながらも、不審に思われないようにと即座に彼は頷いた。
そうしてふたり並んで、たわいないことを話していた。特に用事があったわけでもないのか、と残念なような、嬉しいような。
ちぐさとこうしていることなど一週間前の自分に想像できただろうか、と彼は思う。
一週間前――リレーの練習で初めてちぐさとまともに話した。それ以来機会があれば何気ないことでも言葉を交わすようになった。
昨日の体育祭で雪辱を果たして一位をもぎ取ったとき、ゴールテープのあたりではちぐさが待ち構えていて、飛び跳ねて喜んでくれた。係員に早く移動するよう促されるほど騒いでいたのは彼女だけだったが、他のクラスメイト達もすれ違いざまに肩を叩いたり、言葉をかけてくれたりもした。
彼女にとってはなんてことはないことなのだろうが、隼人には大きなきっかけになったようだ。また、ちぐさという存在も隼人の中で大きく変わった。
現にいま、会話が途切れて沈黙に包まれるが、気まずさは感じない。距離の近さを感じるとどぎまぎするが、安心する部分もある。
ふと、彼女はどうなのだろうと思った。
この一週間の出来事は、リレーという共通項があったからなのだろうか。ちぐさにとってはただのクラスメイトでしかなく、そう話をすることもなくなるのだろうか。
つらつらとそんなことを考えていると、不意に隼人の肩に何かが触れた。重みが増していく。
とっさに顔をそちらに向けた隼人は一瞬呼吸を止めた。
ちぐさが、隼人の肩に寄りかかっていた。
「は、早戸……?」
思わず尋ねながらちぐさを見ると、目蓋を閉じていて――眠り込んでいた。
身をひこうとしたものの、力の抜けたちぐさを支えているために身動きができないことに思い当たる。ばくばくと脈打つ鼓動を感じつつ、どうすればいいのかと途方に暮れる。
昨日の体育祭で疲れているのだろうか。眠りの邪魔はしたくないが、もう少し時と場所を考えてほしかった。無防備すぎる。引き結んだ口の中で、言葉にならない悲鳴と文句が跳ね回る。
密着しているせいで、洗剤かシャンプーか、甘い花の香が鼻をくすぐった。シャツごしには体温が伝わってくる。顔が熱くなっていく。
過熱状態の頭でひとまず起こした方がいいだろうと結論づけ、そっと呼びかける。
「早戸、起きろ」
反応はない。
肩を揺すろうと手をのばしかけ、気安く触れたら駄目だろうと引っ込める。
「早戸」
起きてくれ、と懇願に近い気持ちで呼びかける。
願いが通じたのか、「んー」ちぐさが唸る。
「もうちょっと……」
寝ぼけているのか。鼻にかかった声を出して、わずかに身動ぎしただけ。
大きな図体に似合わず、隼人は情けないほどうろたえていた。思い切って声を張り上げる。
「早戸ちぐさ!」
ぴくりと身体が動いた。
「なんでフルネーム……」
舌足らずな口調で突っ込む彼女は、一応は目覚めたらしい。体温が離れる。
瞬きを数度繰り返し、「あれ?」彼女は素っ頓狂な声をあげた。
「ああ! 寝てた!?」
目を丸くして隼人を見上げてくる。自分の顔から赤みがひいていることを祈り、つい無愛想に隼人は頷いた。
「ごめんね! 寄りかかっちゃってたよね、重かったよね」
そう早口で言いながら、ちぐさは正座で座りなおす。紺のハイソックスが汚れるのも構わずに、おまけに手の平まで地面につけた。
「ほんっと、ごめんなさい!」
土下座。
隼人は慌てた。
「いや重くなかったし、むしろ……」
むしろ、と続けそうになった言葉を飲み込んだ。何を言おうとしているのかと慌てて、別のことを言う。
「とりあえず、そろそろ戻ろう」
「もうそんな時間? 本当ごめんね、昨日体育祭の打ち上げ遅くまでやってたし――あ!」
何か思いついたらしいちぐさが、ぐっと身を乗り出して隼人の顔を覗き込む。
「隼人くん、打ち上げ来なかったでしょ?」
「う、うん」
「リレーのMVPだったのに!」
「いや、それは……ない」
「昨日疲れて参加してない人も多かったし、また別の日に打ち上げしようって話があるの。――ってことを話そうと思って来たんだよわたし。忘れてた……」
自分が打ち上げにいなかったところで気づかれないだろうし、まだクラスに完全に打ち解けているとは言いがたく、気を使うのも使われるのも嫌だと彼は打ち上げ不参加を決め込んでいた。
打ち上げこそ打ち解ける絶好の機会だという考えも、頭の隅にあった。しかし彼の意気地のなさがそんな考えを追い出して、心の壁をつくってしまう。
わざわざ話をしにくるくらいだから、全員参加でも目指しているのかもしれない。次の打ち上げに不参加はできなさそうだ。
自分が馴染めるだろうかと一抹の不安を覚える。黙り込んだ隼人に、ちぐさはにっこり笑いかけた。
「大丈夫! 次はちゃんと美味しくて安いお店予約してもらうから」
昨日の打ち上げ場所はそうではなかったらしい。隼人のしかめっ面が和らぐ。
「戻ろうか」
言うと同時にちぐさが立ち上げる。スカートが翻り、ふとももの白さが眩しくて隼人は目を逸らす。
逸らした視界に、たおやかな手が伸ばされた。
「いつ空いてるか早めに教えてね。隼人くんいなきゃつまらないよ」
何の抵抗もなく、ちぐさは手を差し出してくる。隼人がつくった壁を無邪気に壊しにかかり、そうして彼は手を引かれてばかりだ。
面映くて仏頂面になりつつも、その手を拒めるはずもなく。そっと小さな手を掴んで、隼人は立ち上がった。すぐに離した手の温もりを逃がさないように拳をつくり、今度は自分が手を差し出せるようになりたいと、ふとそう思った。