第11話 数字に出ない仕事
その日の相手はB.ONEの中位クラブだった。潮見にとっては格上。とりわけ厄介なのが背番号十。リーグ屈指のスコアラーで、去年はこの男に五十点近く取られている。
潮見は開幕から十七連敗していた。
試合前。ベンチで郷田 学は腕を組んでいた。その視線の先に東 悠真がいる。アップで黙々と体を動かしている、地味な男だ。
(一ヶ月、使ってみろ、か)
郷田は要実と交わした約束を苦々しく思い出していた。失点が減らなければ二度と口を出すな――そう言ったのは自分だ。
だが、こんな地味な男があの背番号十を止められるとは思えなかった。
要はコートのすぐ脇の関係者席にいた。何も言わない。ただじっとコートを見ている。
試合が始まった。
バッシュがフロアを鳴らす。きゅっ、きゅっと無数の靴が木の床を擦る音。汗と消毒液の匂い。千五百人ぶんの、まばらな、しかし確かな熱。
そして背番号十は噂どおりだった。
黒木 隼人が必死に食らいついても、するりとかわされる。止められない。ドライブ、プルアップ、スリー。何をやっても決まる。
じりじりと点差が開いていく。前半だけで二十点。ベンチの空気が重く沈んでいく。
――また、いつもの試合だ。
誰もがそう思いかけた、その時だった。
「東」
郷田が低く呼んだ。自分でもなぜそうしたのか分からなかった。ただ追い詰められた指が、勝手にその名を選んでいた。
「10につけ。……止めてこい」
東はうなずいた。多くを語らず、ただコートへ走り出た。
そこから、試合の"音"が変わった。
背番号十がボールをもらう。いつものように抜きにかかる。
だが、そこに東がいた。抜いてもいる。スクリーンで剥がそうとしても、しつこくついてくる。
派手なスティールは狙わない。ただ、消えない。
10が少し苛立ったのが、離れた関係者席からも分かった。
東は点を取らない。スコアシートには何も書かれない。
だが、10のあの簡単に決まっていたシュートが、急に"難しく"なった。コンマ数秒、遅れる。角度がわずかにずれる。放たれたボールがリングに嫌われて、硬い音を立ててこぼれる。
その、こぼれ球に。東が床へ身を投げていた。
バチン、と体がフロアに叩きつけられる音。拾ったボールを東は倒れたまま、黒木へはたいた。
黒木が走る。速攻。誰もいないゴールへ、レイアップが吸い込まれた。
――東は、一点も取っていない。なのに、点差が縮まっていく。
第4クォーター。
あれだけ止まらなかった背番号十が、この時間帯、ほとんど沈黙していた。
ベンチが立ち上がっている。まばらだった客席から、聞いたことのない地鳴りが起きていた。
残り十秒。二点差。
黒木がボールを運んだ。誰もスクリーンに行かない。行く体力がもう誰にも残っていなかった。
黒木は一人で打った。
放物線が上がる。体育館が音を失った。
リングを、二度跳ねて。
――落ちなかった。
ネットがばさりと鳴った。
一点。リードした。
千五百人が同時に立ち上がった。
残り三・八秒。相手ボール。タイムアウト。
郷田はホワイトボードの前で、何も書かなかった。
書く必要が無かったからだ。
このチームは今、全員が同じ場所を見ている。相手ベンチの背番号十を。
三・八秒。あの男には十分すぎる。
郷田はペンを置いた。そして、東を見た。
「あとは、お前だ」
東はうなずいた。それだけだった。
ボールが入った。当然、10だった。
東がついている。
10がドライブに入る。東が体を入れる。抜けない。
味方がスクリーンに来る。東がその下をくぐる。剥がれない。
三・八秒が二秒になっていた。
10は打つしかなくなった。上体が流れている。左肩が開いている。
要にバスケは分からない。だが、あれが「打たされている」体勢だということだけは分かった。
放たれた。
リングが硬い音を立てた。
ブザーが鳴った。
――勝った。
その音が体育館に届くまで、たっぷり一拍あった。
それから、地鳴りが来た。
千五百人しかいない。だがその千五百が全員立って、全員叫んでいた。何年ぶりかを、たぶん誰も数えていない。
コートで志水が膝から崩れた。番場が黒木の頭を乱暴に抱えていた。
その輪の外で、東が一人、床のボールを拾っていた。
誰も、そこを見ていなかった。
郷田はベンチで、一枚の紙を握りしめていた。スタッツシート。
東の欄は、得点2、リバウンド3。相変わらず地味だ。
この紙のどこにも、いま起きたことは書かれていない。
だが、その隣。東がコートにいた後半の時間帯だけ、相手の得点がはっきりとへこんでいた。
あの背番号十を封じた。スコアシートには決して載らない、やり方で。
郷田は関係者席の要をちらりと見た。要はこちらを見ていなかった。ただコートの東を見ている。手を叩くでも勝ち誇るでもなく、ただ静かに。
郷田はふう、と長い息を吐いた。握った紙の皺を伸ばす。
(……こんな数字を拾うやつが、いるのか)
その夜。要の手帳の勝敗の欄が書き換わった。
今季初勝利。
だが要が長く見ていたのは、そこではなかった。
その隣。今季、最少の失点。
(……こっちが、本体だ)
勝ちは、来るか来ないかだ。だが失点は、東がコートにいるかぎり毎試合出る。
要は手帳を閉じた。
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