氷の精霊と優しい世界
目を開けた瞬間、『彼女』は自分が精霊であると認識した。
生みの親は、眼前の冷たい目をした女性だ。五段ほど高い場所に置かれた玉座にもたれて座る姿は、凍てつくほどに美しい。
女性は氷の女王。周囲の壁も床も、玉座が置かれた段も、玉座そのものも、その頭上に戴く王冠も、全ては精巧に細工された氷で出来ている。
女王は頭痛に耐えるようにこめかみを揉み、深い溜め息を吐いた。
「ああ、また役にも立たないクズが生まれてしまった。わたくしが欲しいのは跡継ぎだというのに。こんな微量な魔力じゃどうしようもないわ。誰か。これを時空の裂け目に捨ててきなさい。同じ世界にいるのも嫌だわ」
何て冷たい言葉だろう。女王の冷たい息吹から生まれ、寒さには強いはずの『彼女』は表情も変えずにそう思う。
じっと女王を見上げていると、どこからか現れた氷の兵士が『彼女』の腕を乱暴に掴んだ。そのまま何も言わずに引きずられ、『彼女』も逆らわずにそれに続く。
最後にちらりと見やった女王は、もはや『彼女』に寸毫の興味も抱いていない。次の子供を生み出すべく、結晶に息吹を吹き込んでいた。
兵士に連れられたまま『彼女』は城を出る。すぐに乗せられたのは、揺れるたび霜がたてがみから流れる馬が引く氷の馬車。
そして連れて来られたのは、深い崖だった。見下ろせば底は見えず、代わりに不思議な光が渦巻いているのが見える。
そう認識した途端、『彼女』は何の感慨もなく兵士に背中を押され崖から突き落とされた。悲鳴もあげずに、『彼女』の体は光の渦の中に飲み込まれる。
目が覚めた時、『彼女』はぬくもりの中にいた。
視界に映るのは、開いた窓から差し込む日の光で照らされた緩いアーチ型の天井。釣り下がった花形の照明器具は今はその役目を休んでいる。
首を軽く動かして、『彼女』は自身が柔らかなベッドに寝かせられていると認識した。
ここはどこだろう。
どうしてここにいるのだろう。
自分は確か谷に突き落とされたのではなかっただろうか。
色々と考えていると、突然ドアが開く。ゆっくり視線を向けると、入ってきた小さな少年はびっくりした様子を見せた。しかしすぐに笑顔になり、『彼女』の元に近付いてくる。
「よかった、気が付いたんだね。君、僕の家の庭に倒れてたんだよ。覚えてる?」
日に光る金の髪を揺らして駆け寄ってきた少年は、鮮やかな紫色の双眸を輝かせて問いかけた。
何故そんなに嬉しそうなのか。頭の隅で考えながら、『彼女』は緩く頭を振る。倒れていたことどころか、落ちた直後からのことは何も覚えていない。
またあの失望の顔を見ることになるかもしれないと思っていた。しかし、少年は気遣うように微笑んだ。
「そっか。まだ起きたばっかりだもんね。もう少し寝ていて。今お医者さんを呼んでくるから」
言うが早いか少年は踵を返して扉の向こうに消えていく。目だけで見送った『彼女』は、生まれた時から与えられている知識にない『オイシャサン』を素直に待つべく再び視線を天井に向けた。
少年が帰ってきたのはそれから数分後。傍らには茶縁の四角い眼鏡をかけた中年の男が連れ立っている。痩身に白衣を纏った優しい面立ちの男は、その雰囲気に似合わない短くしすぎにも見える茶髪を軽く撫でて『彼女』に微笑んだ。
「はじめましてお嬢さん、私はヘルマン・ドラード。こちらのブローサ家の専属医師のひとりです。診察させていただきますが、よろしいですか?」
男性――へルマンは手にしていたバインダーを持ち上げる。問われた『彼女』は、『シンサツ』が何かよく分からないまま首を傾げ、じっと彼の赤みの強い茶色の目を見つめた。
通じてないと察したのか、ヘルマンは優しく笑って歩き出す。途中にある机から椅子を引き抜きベッドの横に運び、顔の近くにヘルマンは座った。「失礼」と断りを入れてから『彼女』の額にそっと手を触れてくる。温かい――を少しばかり越えた熱を額に感じた。
「おや、随分熱が低いね。まるで氷のようだ。でも脈は正常だし、肌も白いけれど顔色が悪いわけではないし、普段からあまり高くない方ですか?」
ようやく分かることを訊かれて『彼女』は頷く。
「……私、氷の精霊なので、熱はないです」
ぽそりと答えると、ヘルマンは軽く目を見開いた。何に驚いたのかは分からないが、後ろで様子を窺っていた少年は『彼女』が喋ったことに驚いたらしい。そのままの驚きが口にされる。
「氷の精霊でしたか。そうなると、確かに体温が低いのはもっともですね。どこか、痛い所はありますか?」
次の問いかけには首を振った。ヘルマンは聞いたことを次々にバインダーに挟んだ紙に書き込んでいく。
「では、自分がどこから来たのか覚えていますか?」
「氷の女王が治める、地。それ以外は分からないです。生まれてすぐに『いらぬ』と言われ時空の裂け目に捨てられたので」
淡々と事実を述べれば、ヘルマンは労わるような視線を向けてきた。何故そんな目をされるのか、『彼女』には理解出来ない。生みの親の言葉を冷たいとは思ったものの、いらないのであれば仕方ないというのが『彼女』の考えだ。
「――記憶に混濁は見られませんし、恐らく時空を渡る際に気を失ってしまったのでしょう。一応後で魂読みを呼んで素性を確認しましょう。それではアベル坊ちゃん、私は一旦下がって旦那様たちに彼女のことを報告してきますね」
ペンを胸ポケットにしまい直し、ヘルマンは少年――アベルに視線を送りながら立ち上がる。それから思い出したようにもう一度『彼女』に視線を向けて少し眉を歪めて微笑んだ。
「失礼、伺っていいのか分かりませんが、お名前はありますか?」
気遣うような声音の問いかけに、『彼女』はやはりあっさりと首を振る。「名前」というものは知識にあるが、自分を表すそれは知識になく、与えられて初めて得るのであれば『彼女』が持っているはずもなかった。
「それなら!」
突然声を張り上げベッドに飛び込む勢いで駆けて来たのは、それまで黙って見守っていたアベルだ。眼前に来た紫の双眸はきらきらとしている。
「それなら、僕がつけてあげる! それでもいい?」
首を傾げて尋ねられ、『彼女』は一瞬間を空けてから小さく頷いた。一生縁はないのだろうと思っていたものがこうも容易く与えられるとは。少しばかり戸惑いながらも、『彼女』の心ははじめての感覚に――期待に踊っている。
「じゃあ、リスティア。君はリスティア!」
リスティア。与えられた名前を『彼女』――リスティアは口の中で何度も繰り返した。心と耳に優しく響く音にリスティアは満足を覚える。
そんな彼女の様子に、アベルもまた満足そうに笑った。その横に立つヘルマンは、穏やかな表情を浮かべて手元の紙にリスティアの名を書きこんだ。
「絵本に出てくる雪の妖精の名前でしたか?」
ヘルマンが思い出したように問いかけると、アベルはにこりと笑って彼を見上げる。
アベル曰く、彼が気に入っている絵本に出てくる雪の妖精で、主人公の少年を助けてくれる存在だという。リスティアはそちらの「リスティア」に似ているらしく、はじめて見た時も絵本から飛び出してきたのかと思ったほどだそうだ。
子供っぽいかなと照れて笑う彼に、リスティアは首を振った。子供なんだからいいんじゃないか、と口にした途端「僕もう12歳だもん」と頬を膨らませられてしまった。
12歳は子供だというリスティアの知識は間違っているらしい。国が違えば常識も違うということだろう。と、考えた時、リスティアはようやく自分から問いかけを口にする。
「――ここは、どこですか?」
元いた場所とは駆け離れた場所だという認識はある。感じ取れる空気も魔力もまるで違った。質問に答えたのはアベルだ。教える、ということが楽しいのかすっかり表情は明るくなっている。
「ここはね、エスピリトゥ・ムンドっていう創霊様が作った世界で、色んな世界の間をふわふわしてる世界なんだよ。その『せーしつ』上異世界とつながりやすいから、リスティアみたいに別の世界から来る人もいるんだ。で、この世界には今の所、僕たちがいるエスピリトゥ・テレノっていう扇形のすっっっごく大きな大陸しかないんだ。後はぜーんぶ海。でもね、大陸上にいっぱい地域があるから本当に色んな人がいるんだ。あ、ここはね、ユーグの町っていって、僕のお父さんが町長をしてるんだ。それでね」
「坊ちゃん、アベル坊ちゃん」
立て板に水を流すが如く喋り続けるアベルをヘルマンが苦笑と共に止める。
「一気に喋ってはリスティアさんも混乱してしまいますよ」
柔らかく注意され、それもそうかとアベルは説明をやめ眉を八の字にした。
「ごめんねリスティア、今度はゆっくり話すね。何か訊きたいことはある?」
素直な少年の目には不快よりも気遣いが灯っている。
リスティアは僅かに頬を緩めると、今彼から聞いたばかりの事をひとつひとつおさらいして質問し始めた。
これなら問題ないだろう、と、ヘルマンは退室を告げて先の宣言通りこの家の主の元へと向かう。
リスティアがアベルの世話係――という名の遊び相手としてブローサ家に受け入れられることが決まるのはこの数時間後。「魂読み」と呼ばれる魂に刻まれた記憶を読む者によって「無害である」と証明された後のことであった。
リスティアがブローサ家預かりになってから五ヶ月ほどの月日が経つ。
その間に、リスティアは自分自身のことも含め様々なことを知った。
たとえば自分のことなら、自分の髪と目の色が青味がかった銀色であること(ちなみに髪は最初長かったが、アベルが「切る」と言って切らせた結果、前髪の真ん中と顔の両脇の髪だけが長いざんばら髪になっている。使用人の女性たちが気を遣って切り直してくれると言っていたが、折角アベルが切ってくれたのでそのままだ)。
目つきが少々厳しく、表情が少ないこともあり、睨んでいる・怒っていると勘違いされやすいこと。
身長が普通の女性よりも少々高いこと。
世界のことなら、ここが「創霊」と呼ばれる高位の存在に愛された世界である(とされている)ということ。
多種多様の生き物やそれ以外が多く存在すること。リスティア以外の精霊にも道すがら偶然会う、ということもあったほどだ。
アベルやその周辺のことなら、両親とアベルを含めた5人兄弟の7人家族であること。
アベルはその末っ子であること。
他の兄姉とは仲がいいが、3番目の兄とは喧嘩が絶えず、嫌っていること。
他のことなら大抵我慢出来るが、子ども扱いされると本気で怒り出すこと。
運動はそこそこだが勉強はかなり出来ること。そして――。
「アベル、見つけました」
リスティアは大きな木の陰から体を出してその根元を覗き込む。そこに膝を抱えて座り込んでいるのはアベルだ。
顔を上げない彼が泣いていることは、鼻をすする音ですぐに気付いた。返事をしないアベルの横にリスティアはぺたんと座り込む。
「寒い!」
ユーグの町は温暖な地域にあり、今は9月なので近付いただけで叫ぶほど寒いことはないだろう。
しかし素直なリスティアはアベルの横から少し離れた。
そのまましばらく黙っていると、不意にアベルが少しだけ手を伸ばしてくる。リスティアは小さな手を取って包むように握り締めた。
リスティア自身にはよく分からないが、何でもリスティアの手を握っていると苛立ちや焦りが消えて冷静になれるらしい。精霊としての能力なのだろう。
そのまま少し待つと、アベルは真っ赤になった顔を上げて自分からリスティアに近付き寄り添った。
「……ごめんね」
やつあたりだった、と謝るアベルに、リスティアは「いいんですよ」と首を振る。
「またバスコ坊ちゃんと喧嘩ですか?」
バスコ、とはアベルと仲が悪い3番目の兄だ。現在16歳でアベルとは4歳離れているのだが、そういう年頃なのか性分なのか、アベルには非常に意地悪だ。
頭の回転では負けないアベルだが、如何せん挑発に弱い。バスコが小馬鹿にすればあっさりとこうして泣いてしまう。そして泣く時は、必ずこんな風に木の陰に隠れるのだ。最初は探すのに苦労したが、5ヶ月も経つと探すのもお手の物になっていた。
「だってバスコの奴、僕のお気に入りの絵本馬鹿にするんだもん。そりゃ、子供向けだけど、でも僕にとっては一番のお話なのに」
また目が潤んでくる。リスティアは緩んでいた手をもう一度つなぎ直した。アベルは袖で浮かんだ涙を拭く。
その様子を見て、リスティアは内心でどうしたらいいのかを考えた。
正直なところ、彼女にはアベルの気持ちもバスコの気持ちも正確には分からないのだ。
好きなものは好きで、他人にどう言われようといいではないか、とアベルに対しては思う。
一方バスコには、何が好きかは人の勝手だろう、と思う。そもそも何冊も難しい本を読破しているアベルがそれでも気に入っているのだから、馬鹿にするものではないとも思う。
かといって、それをそれぞれに素直に言ったところでどちらからも反発されてしまうので、解決策は難しい。
落ち着き始めたアベルと共にぼんやりしていると、不意に草を踏む音が聞こえてきた。
誰か来たのか、とリスティアが首を巡らせると、襟足が少しだけ長い金髪の少年が、木剣を片手に従者を引き連れ歩いているのが目に映る。噂をすれば影、とは正にこのこと。3番目の兄・バスコだ。
リスティアとほぼほぼ変わらない身長のすらっとした少年は、木の陰から自分を見ているリスティアに気付いた。遅れてその隣にアベルがいることに気付くと、にやっと意地悪な笑みを浮かべる。
従者の男は「バスコ坊ちゃん」と慌てた様子で止めるが、聞く耳持たずバスコはこちらに近付いてきた。
その声にようやくアベルもバスコが近くにいることに気付いたらしく、びくりと体を跳ねさせて反射的にリスティアの背中に隠れる。しかし、その選択は悪手だ。この行動をバスコがからかわない訳がない。
「何だよ、また泣いてたのか泣き虫アベル。リスティアの後ろに隠れてばっかりで本当に情けない奴だな」
バスコはくっくっと喉を鳴らし、嫌味たらしい笑みを浮かべる。リスティアは反抗心ではなく純粋な意見を口にした。
「バスコ坊ちゃん、お若い内からそんな顔をしていると将来その顔が定着してしまいますよ。あまり良い印象はありませんから、お直しになった方がいいです」
さらりと口にされた言葉は淡々としており、バスコは「またこいつは」と睨みつけてくる。
後ろの従者は「何てことを」と「よく言った」が入り混じった複雑な表情をしていた。怖いもの知らずなリスティアの発言は、彼のような「忠誠はあるものの主の言動の一部に辟易している」という層の使用人たちにはある種ありがたいものらしい。
「ぷっ。無理じゃない。バスコは心の底から意地悪だから、絶対将来みんなに嫌われるおじいさんになるよ」
リスティアが盾になっているためか、アベルは少々強気にバスコに喧嘩を売る。そんなつもりではなかったし、あまりアベルに口の悪いことを覚えさせないように、と教育係の年かさな女性から言われていた。
何故かリスティアが怒られること自体はいいのだが、彼女自身もアベルには優しい言葉を使ってほしいと思っている。その思いから、リスティアはやめるよう言おうと口を開いた。
しかしそれに先んじて、バスコはまた意地の悪い顔でアベルを見下ろす。
「ふん、お前は本当にリスティアがいないと何も出来ないな。町の奴らとの肝試しも、結局リスティアと一緒だったんだろ? 寝る時もトイレ行く時もひとりじゃ無理なんじゃないのか? お前こそ将来ひとりでなーんにも出来ない赤ん坊みたいな爺になりそうだな」
「赤ちゃんじゃない!」
年頃故に子ども扱いを嫌うアベルはかっとなり、リスティアの背中から飛び出して真正面からバスコを睨みつけた。しかしバスコは小馬鹿にする態度を崩さない。
「へー? でもリスティアがいないと何も出来ないのは本当だろう? 甘ったれ」
注意したばかりの顔でアベルを見下すバスコは、本当に歪んだ顔をしている。不快より何故伝わらないのかと疑問が先に出ながらも、リスティアは彼らを落ち着かせるべく手を伸ばそうとした。
しかし、その手は途中で止まる。
「別にそんなことないよ! リスティアがいなくても平気だもん!」
力の限りアベルが叫んだ言葉は、かつて氷の女王がリスティアに吐き捨てた言葉以上に彼女に衝撃を与えた。
思考が追いつかない内にアベルは駆け出してしまい、バスコは「勝った」という風に鼻を鳴らして満足げに笑う。
しかし、不意に奇妙な冷気を感じてその視線は残されたリスティアに向かった。
「はっ? お、おいリスティア。寒いぞ。何してるんだ」
目にした光景にバスコは思わず後退る。
視線の先では、膝をついたままのリスティアが無表情のまま固まっていた。それだけなら驚くこともないのだが、ついた膝の周りが凍り付いている。残暑の熱い空気の中ではありえない光景だ。
「バ、バスコ坊ちゃん。謝った方がいいんじゃないですか? リスティアは氷の精霊ですし、怒らせると怖いですよ」
従者がこそこそとバスコに耳打ちした。もっともな意見なのだが、意固地になりやすいバスコには逆効果だったようだ。さっと踵を返してしまう。
「知らん。どうせ俺の従者じゃないし、別にこいつには何も言ってない」
その通りではあるが原因であることには間違いないのに、と従者が続けて言うが、バスコは無視して早足で立ち去ってしまった。流石に置いて行かれては困る、と、従者はリスティアに謝ってからその場を離れる。
しばらくして、ひとりになったリスティアはよろりと立ち上がった。その際手をついた木は触れた場所から一瞬で氷に覆われる。
それに気を向けず、リスティアはふらふらと歩き出した。歩くたびに足跡代わりに地面は氷結していく。
屋敷の者たちがその異変に気付き騒ぎ出したのは、凍りついた木が砕けて倒れた轟音が屋敷に響いた後のこと。その頃には、周囲にリスティアの姿はなく、足跡代わりの氷はすでに溶けきっていた。
ユーグの町のすぐ隣にある巨大な森の名はトロステムダムの森。以前町のイベントで肝試しのイベントがあった際、舞台となった場所だ。
リスティアはその森の中にある湖のそばに俯いて座り込んでいる。座り込んだ場所を中心に氷が広がっていた。
頭の中をぐるぐると回るのはアベルが叫んだ言葉。
『別にそんなことないよ! リスティアがいなくても平気だもん!』
同時に思い出すのは生まれて始めてかけられた言葉。
『ああ、また役にも立たないクズが生まれてしまった。わたくしが欲しいのは跡継ぎだというのに。こんな微量な魔力じゃどうしようもないわ。誰か。これを時空の裂け目に捨ててきなさい。同じ世界にいるのも嫌だわ』
リスティアはいらない存在として生まれた。必要ない存在として生まれた。だから捨てられた。その後、アベルが手を差し伸べてくれたからこうしてここにいる。
なのに、そのアベルにまで見捨てられてしまったら、リスティアはどうしたらいいのだろう。
心の底から湧きあがってくる気持ちに、胸から込み上げてくる感情に、リスティアはついていけずに困惑する。
その困惑に合わせて周囲はどんどん氷に包まれて行った。その度に周囲の動物たちは、陸海空問わずリスティアから離れていく。
ああ、動物にも避けられる存在なのか。
さらに落ち込んだ、その時だ。
「ちょっとあなた。森を凍らせるのいい加減やめてくれる? 周囲の連中から苦情が来てるのよね」
心底呆れた様子の声音にリスティアはゆるゆると顔を上げた。
隣に立っていたのは一人の少女。女性との境目にありそうな年頃だ。明るい茶色の長髪はふたつの細いみつあみにされ、眼鏡の下にある同色の双眸は猫のような吊り目。
見につけているのは森に溶け込む深緑と茶色のエプロンドレスだ。後ろに少女の三倍は巨大なこげ茶のクマを連れているが、知性があるのか襲うどころか唸りもしない。
「聞こえてる? やめてちょうだい」
少女は再びリスティアに制止を呼びかける。視線を下げたリスティアは漏れ出ていた力を意図的にコントロールして治めた。
途端に、周囲の氷結化が止まる。氷は一気に溶けることはしないが、木洩れ日と温かな空気で少しずつ溶け始めた。
「よしよし。話を聞けないタイプじゃないわね。私はリルテ。あなたは? 何でこんなことになってるの?」
リルテ。聞いたことがある気がしたが、未だに混乱が続いているリスティアの頭は思い出す作業を放棄する。
代わりに、問われたことをただ答えた。
「リスティア、です。ごめんなさい、こんなことするつもりなかったんだけど、落ち着かなくて」
リスティアが素直に謝ると、リルテは「誰も死ななかったからいいわ」と言ってリスティアの隣に腰を下ろす。その直前に巨熊が寝そべり、腕を彼女の下に差し込んで自ら椅子代わりになった。やはり知性があるようだ。
「で? 落ち着かなかった理由は?」
直前まで氷を撒き散らせていたリスティアを微塵も恐れることなくリルテは質問を重ねる。
リスティアは一瞬言いづらそうにしたが、ひとりでは考えをまとめきれないと判断して、ぽつりぽつりと自分の素性と先ほどの出来事を話し始めた。
言葉足らずな部分はリルテからの質問で補足をし、全て話し終わった時にはそれなりに時間が経ったらしい。影の位置が少し変わっている。
「ふーん、つまり、大事な坊ちゃんに否定されたのが悲しいってことね。でもそれなら、素直に涙を流してもらった方がこっちとしては楽なんだけど。泣く代わりに氷付けは困るわ」
悲しい? とリスティアは鸚鵡返しした。いつだかアベルが本を読んで涙を流した理由に挙げた感情だ。
「え、そうでしょ? ……あー、生まれたばっかりだっけ? 胸とか頭の辺りがごちゃごちゃになって叫びだしたいような、込み上がってくるような感じしない? 痛いな、っていうの。今ならそれが悲しいよ。涙は、ここから出てくる雫」
リルテの指がリスティアの眦を叩く。そう言われると、分かった。
そして分かったと思った瞬間、リスティアの青銀の双眸から幾粒も涙が零れ出す。
ぼろぼろと零れていくそれを止められずにいると、リルテが軽く背中を叩いてきた。「泣いときなさい」と言われたので、素直に尽きるまで涙を流し続ける。
「……嫌です。アベルにまで否定されるのは、悲しい。一緒にいたいのに、いなくてもいいと言われたら、私はどうしたらいいのですか? こんなのは、嫌です」
搾り出すような言葉にリルテは言葉を返さない。その代わり、何かに呼ばれたように顔を上げ、何もいない空間に目を向けた。
そして一度頷くと、リスティアに目を向け、彼女の顎を掴んで顔を自分に向けさせる。
「リルテ……?」
「リスティア、あんた、トロステムダムの森の魔女の噂は知ってる?」
トロステムダムの森の魔女。
それは、ユーグの町が肝試しをした際に最大の恐怖として挙げていた対象だ。
その魔女は森に住み、詠唱もなく相手を石化させ、この世界であってもなお不可視である一部の存在を認識し従わせることが出来るとされている。
ゆえに魔女。魔力を持ち魔法を使う者が多数存在する世界でそう呼ばれる存在は多いが、トロステムダムの森の魔女はそれらとは一線を画す畏怖の対象だ。
「はい。リルテが森の魔女なのですか?」
涙に濡れたままの双眸で、リスティアは恐れることなく問い返す。リルテはにっと笑うと眼鏡を軽くずらした。境目から覗く明るい茶色の眼を見た瞬間、リスティアは何かに侵食を受けたような感覚を覚える。
「そう。私の目は石化の魔眼。目を合わせた瞬間に相手を石に変えるわ。……あなたも悲しくてどうしようもないなら、石にしてあげましょうか? そうしたら、もう何も悲しまなくていいでしょう? 誰にも望まれないなら、私が望んであげるわ。石像のひとつとして、ね」
今まで以上に声を張って、少し芝居がかった調子でリルテは誘いかけた。リスティアが疑問を込めてその名を呼ぶが、リルテは面白がるような笑みを浮かべるばかりだ。
いきなりどうしたのか。疑問はある。しかし、その申し出は今のリスティアには非常に魅力的だった。誰にも望まれぬ命。一生を石で過ごしたところで、何も変わらない。
誘いを受けようかと口を開いたその時、声が響く。
「やめろーーっ」
聞き慣れた声に、リスティアを守るようにリルテとの間に入り込んできた後ろ姿に、彼女の心は一気に感情で溢れかえった。
嬉しい、寂しい、悲しい、愛おしい。言葉に出来なければ感情を統一することすら出来ない状態で、言葉を無くすリスティア。
その眼前では、幼い主と眼鏡をかけ直したリルテが対峙している。
「何? あんたがリスティアをいらないって言った主さん? 今さら何の用?」
挑発するように、リルテは組んだ足の上についた肘で顎を支えて微笑んだ。アベルが見下ろしているはずなのに、精神的にはリルテの方が見下ろしているようだ。
「いっ、いらないなんて言ってない!」
「あら、だって『いなくても平気』って言ったんでしょ? それっていらないってことじゃないの?」
「い――言った、けど……でっ、でも意味は違う! 僕はもう子供じゃないから、ひとりで出来ることの方が多いって言いたかっただけだよ」
「ひとりで出来るならやっぱりいらないんでしょ?」
「いるよ! 出来るからいらない、出来ないからいるって、そんなの道具と同じじゃないか。僕はリスティアを道具だなんて思ってない。リスティアは僕の家族なんだ。……カッとなって、酷い言い方したのは認めるよ……。でもいらないなんて思ってない! お前に石化なんてさせないんだからな! リスティアは僕が守るんだ!」
啖呵を切ると、アベルは家から持ってきた稽古用の木剣を振りかざそうとする。それを、背後のリスティアが抱き締めて留めた。
「リスティア……!」
どうして、と悲壮感を漂わせてアベルが振り返るが、すぐにその表情は変わる。彼の視線の先ではリスティアがぼろぼろと涙を流していた。しかしその表情にはどこか安堵が含まれている。
「アッ、アベル、私のこと、家族だと、思ってくれて、るんですか?」
しゃくりあげながら確認するように問われ、アベルは持っていた木剣を放り投げリスティアを小さな腕で抱き締め返した。
「思ってるよ! ずっと思ってる! 傷付けるようないい方して本当にごめんね。でも、本当にいらないなんて思ってないから。離れたら寂しいよ。……これから先、ひとりで色々やること増えるけど、絶対いらないって思ってるわけじゃないから。だから」
体を離し、アベルはリスティアと顔を合わせる。紫色の双眸からは雫が溜まっていた。
「帰って来て。リスティアが一緒にいないと寂しいよ」
真摯な眼差しを受け、必要とされていなかったわけじゃないと確信したリスティアは、涙をこぼしたまま微笑む。
「……はいっ」
もう一度抱き締め合い、リスティアとアベルは安堵の涙を流した。
「はいはい、ハッピーエンド。良かったわねー」
茶化すようにパチパチと拍手が送られる。ハッとしたアベルは涙を袖で拭い、改めてリスティアの前に両手を広げて立ちはだかった。
「もう何にもしないわよー。それに、そもそも氷の精霊に石化は効かないわ」
え? とリスティアとアベルの二人から同時に疑問の声が上がる。リルテはくすっと笑った。
「氷も〝固める〟ものでしょ? 土――というか岩の方ね。それと氷は本質が違うけど、大まかな性質が似てるから、術にかけようとするとお互い相性が悪いのよ。だから私もタイタニロもリスティアの氷結の中歩けたし、リスティアも私の目を見て固まらなかった。さっき目合ったでしょ? そこの坊やみたいな普通の人ならあの時点で石化してるわ」
先ほどの侵食されるような感覚はそれだったのか。無事だったからいいものの、アベルの件が誤解と分かった今となってはぞくりとする話である。
「……ん? あの、タイタニロというのは? もしかしてその――」
はじめて聞く名前だが、対象となりそうなのはこの場でひとり――否。一匹。
リスティアと、興奮が冷めて怯えているアベルが視線を向けた先にいるのは、我関せずで手をリルテの椅子にし続けている巨熊だ。リルテはにっこりと笑う。
「そ。この子よ。この子はタイタンベアって言ってね。土の魔力が強くて石化耐性がある種族なの。私の目を見ても石化しないメインのパターンの子ね。ついでに、私が魔女って呼ばれてるもうひとつの理由、かしら?」
顔を覗き込むように尋ねられ、アベルは口ごもって視線を泳がせた。先ほどまでの勇敢な少年はどこに行ったのか、とリルテは楽しげに笑い出す。
「……はー、笑った。じゃ、誤解も解けたようだしもう帰りなさい。水溜りを辿ってその坊やの家の人たちがお迎えに来たようだから、私たちはもう行くわね」
リルテが立ち上がると、タイタニロはのっそりと起き上がる。四本足でも三メートルを越しそうな大きさには流石に耐え切れず、アベルは青い顔でリスティアに抱きついた。
「大人しいから襲わないわよ。……私に危害を加えなければね」
にやりと悪戯な笑顔を浮かべて脅かすのを忘れず、リルテは踵を返す。その歩が十を越える辺りでリスティアは突然立ち上がり、リルテに呼びかけた。
彼女を見つめる青銀の眼差しは、早くも赤みを消している。そこにはいつもの無表情――より、少し興奮気味の顔があった。
「ありがとうございます。あなたのおかげでアベルと仲直り出来ました。その……今度、改めて伺っていいですか? お礼に何かお持ちしますので、またお喋りしてください」
また来るの? とアベルは驚いた顔をしたが、リスティアが珍しく自分から誘いかけているので頑張って口を閉ざす。一方のリルテは一瞬ぽかんとし、次いで楽しげに笑った。
「いいわよ。またね、リスティア」
別れを告げ、今度こそリルテとタイタニロの姿は森の中に消える。入れ違いに、ブローサ家の使用人たちがやって来た。その中にはリスティアの異常を聞き心配して付いてきたヘルマンもおり、リスティアとアベルは無事を喜ばれた後に心配をかけたことを彼にこってり絞られることになる。
こうして、リスティアとアベルの喧嘩にもなりきらなかったすれ違いは幕を閉じた。
アベルとの信頼関係を再認識したリスティアの生活は、変わらないようで少しだけ変化する。
たとえばバスコが、アベルをからかうネタにリスティアを交えることがなくなったり、トロステムダムの森に訪れることが多くなって町の人々に少し怯えられたり、逆に興味をもたれたり、その森に住まう魔女と仲良くなったり。
そんな変化の中、氷の精霊は少しずつ笑顔と感情を覚えていった。この優しい世界で生きている幸せを、存分に噛み締めながら。
イベントフリー冊子より転載。
2015年文学フリマ東京20初出の作品です。
作中登場のリルテは「魔女リルテ」の成長した姿になります。




