【今週の短編小説】
毎週土曜日の朝に届く、少し不思議なストーリーをあなたに贈ります。
土曜日の朝、目が覚めるとカーテンの隙間から差し込む光がいつもより柔らかいことに気づく。
ハルカは気怠げにベッドの中で大きく伸びをした。
昨夜まで降り続いていた雨はあがり、窓の外からは濡れた葉が乾いていくような、初夏の瑞々しい香りが漂ってくる。
外の天気と打って変わり、平日の忙しさに追い立てられたハルカは少し疲れていた。
こういう時は外出して少しでも外の空気に触れるに限る。
ふと思い立って、街の外れにある小さな植物園へ向かうことにした。
そこには、土曜日の午前中にだけ開く不思議な喫茶店があるという噂があった。
植物園の奥、大きなクヌギの木の影にその店はひっそりと佇んでいた。
外観は円形を基調としたログハウスで、看板には『喫茶・サタデー』とだけ書かれている。
ハルカは少しの高揚感を感じつつ木製の扉を開けた。
開けた瞬間、チリンチリンという鈴音がさらにこころを弾ませてくれる。
店内はクヌギの木を大黒柱にした造りだった。
窓からは外の木漏れ日が差し込み、暖かい雰囲気だ。
正面に半円状のカウンターが備え付けられ、その中心に店主と思われる人が笑顔で出迎えてくれた。
「いらっしゃい。ちょうどお湯が沸いたところですよ」
店主は、銀色の縁で作られた丸メガネをかけ、銀髪を丁寧に整えた穏やかな老紳士だった。
彼がメニューを差し出してくれた。
メニューには、文字が一つもない。
ただ、季節の草花が描かれているだけだった。
「今のあなたに、一番必要なものを淹れましょう」
店主が選んだのは、透き通るような青い紫陽花の刺繍が施されたページだった。
運ばれてきたのは、青色のハーブティーだった。
香りは枝豆や黒豆を茹でた時のような、植物性の優しく素朴な香りがわずかに感じた。
ハルカが不思議そうにハーブティーを眺めていると、店主が静かに教えてくれた。
「このハーブティーはバタフライピー、和名では蝶豆と言います。
花の形が、羽を広げた「蝶」に似ていることから名付けられました。
ここにレモンを少し入れると、面白いハーブティーが完成します。」
そう店主が教えてくれながら、白い皿に薄く輪切りにしたレモンを載せて出してくれた。
ハルカが慎重にカップの中で藍色のがレモンをひと絞り落とした瞬間に
鮮やかな夜明けのような紫色へと変わっていく。
「どうぞ、『雨上がりのしずく』になります。一週間、頑張った心に効きますよ」
一口飲むと、爽やかな酸味が口の中に広がった。
胸の奥に溜まっていた重たい澱が、すうっと溶けていくような気がした。
ふと見ると、ソーサーの端に小さな紙切れが添えられている。
それは、古い電車の切符のようだった。
『行き先:明日 / 経由:今日をたっぷり楽しむこと』
「あの、これは?」
ハルカが尋ねると、店主はいたずらっぽく微笑んだ。
「それは、自分自身への予約席です。
皆さんは、月曜日から金曜日まで、誰かのための時間を生きてしまう。
だから土曜日くらいは、自分のためだけの切符を持っていてもいいでしょう?」
ハルカが切符を手に取ると、指先からじんわりと温かさが伝わってきた。
店を出ると、庭園の紫陽花が、雨露を受けたように宝石のように輝いていた。
青、紫、淡いピンク。
それらは、一つとして同じ色はない。
「私の色も、これでいいんだ」
そんな思いが、自然と胸に湧いてきた。
ハルカはポケットに入れた「水色の切符」を指先でなぞりながら、ゆっくりと歩き出した。
特別なことは何もなくていい。
ただ、この澄んだ空気を吸い込む。
それだけで、世界はこんなにも新しく見える。
土曜日の午前中、世界はいつもより少しだけ優しく、魔法をかけて待っていてくれる。
ハルカの足取りは、いつの間にか軽やかになっていた。
(完)




