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スコール

 彼女のご機嫌はスコール並だ。

 今まで晴れていたはずなのに見上げた太陽はすでに雲の中、気がつけばパンツまでびしょ濡れの大雨に晒されて、それでいてため息を吐いているうちに今度は水分なんてどこにあったのかと思えるくらいの晴天がまた広がる。

 彼女もそうだ、あれは猫だとかそんな気紛れな動物よりももっと予測不可能な、スコールに良く似ている。

 アプリコットのワインは適切な温度で冷えていて、用意されていたのは彼女の贔屓しているスイートカフェで買ってきたチョコレートパイと季節のフルーツタルト、バナナのココアケーキに林檎のチーズケーキ。付き合い始めて二年目、最近どちらかの家でばかり会っていたので、たまにはプチホテルにでも泊まりましょうか、ということになって僕はあまり気がすすまなかったのだけれど――彼女との仲が冷えていた訳ではなくて、僕の面倒臭がり屋な性格のせいだ――彼女が嬉しそうにしているので、こちらだってそれなりに楽しくなってきた矢先に向こうは機嫌を損ねた。原因は簡単、僕がチョコレートパイを選ばなかったせい、ただそれだけだった。確かに僕は普段チョコレートが大好きだし、ケーキだろうがパフェだろうがチョコレート味を好む。それでも、たまには別のものが欲しくなることだってあるのだ、今日の僕がフルーツタルトを食べたい、と言ったように。

「フルーツタルトがいいの?」

 ほらほらケーキ買ってきたよ、とにっこりした彼女が僕の目の前でケーキ箱を開き、そこにはつやつやのケーキ達が幸せに甘い香りを発しながら鎮座していて、僕の目尻だって下がった。どれがいいの、と聞きながら、彼女は僕が迷わずチョコレートパイを選ぶことを確信していたのだろう。でも僕は少し迷ってからフルーツタルト、と口にした。それが食べたい、と。

「あなたが好きだから、チョコレートの買ってきたのに?」

 彼女の怒りは理不尽で不当だ、もしもどうしても僕に食べさせたくて買ってきたなら、どれがいいの、なんて聞かずにさっさとチョコレートパイを目の前に差し出して、あなたの好きなの買ってきたよ、とでも言ってくれれば、僕だってそれを食べたのに。

「お前が食べたくて買ってきたんだったら、フルーツタルトじゃないのでもいいよ、チョコレートパイでも構わないし」

「『チョコレートパイでも構わない』? なにそれ、渋々食べるんならいいわよ、あたしだって別にフルーツタルトが食べたい訳じゃないもの」

「だから、渋々食べる訳では、」

「食べればいいでしょ、フルーツタルト! いい、あたしお風呂入ってくる!」

 ちょっと待てよ、の声も届いたはずなのに無視されて、彼女は部屋に備え付けのユニットバスへと駆込んでしまった。これで当分トイレの使用が出来ないということだ。彼女は別段長風呂という訳ではないけれど、機嫌を損ねているので立てこもりの意味も含まれる今回の入浴は、どれぐらいの時間がかかるか分からない。貸し切りに出来る岩風呂があるからここのプチホテルを選んだくせに、ユニットバスに入ってしまってどうするのだろう。

 仕方なく僕はケーキの箱を閉じ直して、ワインを部屋の冷蔵庫に押し込む。食べればいいでしょ、と怒鳴られて、そうですか、とフルーツタルトをひとりで食べることなんて出来ないし、食べるつもりもない。彼女の機嫌が直ったら、やっぱりチョコレートパイが食べたくなった、と言ってやって、彼女にフルーツタルトを勧めてやらないといけないだろうし、と考えると自然にため息がこぼれた。自分で食べたくてフルーツタルトを彼女は買ってきたのだろう。彼女が否定しようが認めなかろうが、あの態度からすればそれには間違いがなかった。素直に自分からフルーツタルトはあたしのだからね、と一言告げてくれれば良かったのに。

 スプリングのよく利いたベッドに腰を下ろして、なんで僕は彼女と付き合っているのだろう、と考え込んでしまう。気は強いし我侭は言うし気紛れだし、男だろうが気にせず怒鳴るし女だから、という言葉を心底嫌っているし。僕はもうちょっと女らしい人が本来好きだったはずなのに。休みの日は図書館までお散歩を兼ねて行くんです、とか、お菓子作りが趣味なんですけどシュークリームだけ上手く焼けないんです、とか、なんか、そんな人が。フリルのスカートとか、清楚なワンピースとか、長い髪は小さい頃から伸ばしていて、一度も染めたことなんかないんです、みたいな人が。僕は男兄弟の長男で、母以外の女性が家にいたことがなく、その母もどちらかといえば男勝りな人だったので、人からそんなメルヘンな女気持ち悪いよ、とどんなに笑われても、そういうのが理想だったはずなのに。

「……なんでよりによってあいつなんだ」

 認めてしまえば、恋人と二年も続いたのは彼女が初めてであり、それまで僕が理想としていたメルヘンな人とは三ヶ月も付き合いが続けば長い方だった。それは僕がそういう人達をどうやって扱って良いのか分からなかったという、その一点に尽きると思う。彼女達は「男」という僕に最後まで慣れてくれず、おどおどと遠くから眺めているだけだった。メルヘンな人に憧れる割には、スポーツが好きだったり友達と飲みに行くのが好きだったり、プロレス観戦なんかどんなに眠い夜中のテレビにだって噛り付いて見てしまう程で、彼女達は僕の好きな物をほとんど野蛮だとか乱暴だとか言って眉を寄せた。今の彼女もプロレスなんて人殴ってたり頭割って血を流したり、真剣なのか八百長なのか分からないと文句を言いつつ、デートしている夜だともそもそと起きてきて僕の隣でぼんやりテレビを一緒に見てくれたりする。あれ本物の血? とか、なんであの人リングの上で犬みたいにぐるぐる回ってんの? なんて、見ているんだか邪魔してるんだか分からなくなるほど質問攻めにしてみたり、気がつくと僕の肩に頭を預けて寝てしまっていたりするけれど。

 ユニットバスからはとりあえず水音がしていた。シャワーを使っているのだろう、彼女の背中のラインを思い出して僕は目を細める。人の身体をやたらと洗いたがるくせに、彼女は自分の身体を僕に洗わせない。裸で僕に向き合うのが嫌なのだそうだ、女は子宮がある分どうしても下っ腹が出るのよそういうのを見られるのが嫌なのよ、と言って。彼女の言う下っ腹が出る、という状態は別に悪くないんだけどな、と僕は思うから素直にそう言う。お前のお腹に手を当てたり、寝転がっている時に頭乗せたりさせてもらうのがすごく好きだよ、と。彼女は猫みたいなアーモンド型の目をきゅうっと細めて形のいい唇をぎゅうっと持ち上げて、それとこれとは違うのよっ、と語尾を跳ね上げて笑う。

 その顔が、僕は大好きだ。

「悪かったよ、いい加減機嫌直して出ておいでよ、」

 ベッドのスプリングを利用してポンと飛び起き、僕はユニットバスのドアをノックする。

 コンコンコン、コンコンコンコンコン。

「出ておいで、ケーキ食べよう。ワインも飲もう、冷えてるからさ」

 彼女と付き合い出してから、どうも僕の方がなだめ役というかフォロー役というか、そんな位置についてしまった。どちらかといえば僕も人間的に短気な部類に入るし、我慢強くないし根性もない方なのだけれど、彼女はもっと短期で我慢強くなくて根性もなくて気分屋で表情だってごろんごろん変わってしまうスコールちゃんなのでもう、どうしたって付き合ってる人間はふたり、片方が先に機嫌を損ねてしまえばもう片方がどうにかするしかない。物分かりが良くなった訳でもなく、年を取って丸くなった訳でもなく、彼女の存在が僕を優しくさせる。

「出てこーい、おーい、フルーツタルト本当に食っちまうぞー」

 そんな彼女だからケンカだってケンカにならない。今日みたいに彼女があっという間に怒ったりいろいろして僕がとりなす役になる。最初はそれが納得できなかった。僕だって彼女の態度とか不機嫌そうな顔に腹が立って、どうしようもなかった。別れた方が精神衛生上いいのかもしれない、と思ったこともあった。ケーキごときでキレられても男としてどうなのだろう、それをなだめなきゃならないのなんて女みたいな、優しさを売りにしないと女にモテないような、軟弱男の役目だと思っていたのに。

「お前が風呂入ったままだと、俺は今日誰抱いて寝ればいいんだよー」

 シャワーの音はいつの間にかやんでいた。

 面倒臭がりなんだけどな、と僕はなんだか可笑しくなってくる。

 面倒臭がりなんだけどな、本当はこんな猫なで声を出してつまらないことで不機嫌になった恋人なんか放っておいて、ベッドでごろごろ寝るとかワインをひとりで飲んでしまうとかしてしまう方が楽だと思うのだけれど。

「出てこいよ、フルーツタルト一口くれ、チョコレートパイ一口やるから」

 スコールみたいな僕の彼女、どうして彼女じゃなきゃ駄目なのかなんて理由は分からないし、僕はメルヘンみたいな女性が元々好きなのだ、それでも。

「出てこーい、いい加減にしないと俺だって怒るぞ」

 バスタオル、とドアの向こうからくぐもった、怒ったような声がする。

「なに、」

 バスタオル、あたしなんにも持たないで入っちゃった。

 ガチャリ、とドアノブが回されて、鍵が解除される。待ってましたとばかりに飛び込めば平手打ちではすまないことを知っているので――哀しいことに過去の経験からだ――僕はホテル備え付けの籠から取り出してきたバスタオルを、右手と供に少し開かれたドアから突っ込んでやる。引っ手繰られて、それはつい想像を忘れていたことだったので僕の身体はバランスを崩しかけた。

 困った恋人。

 きっと僕以外は彼女と付き合えない、なんとなく、でも核心的に僕は思う。

 僕以外は彼女のスコールに体力を奪われてへとへとになってしまうだけだ。

 怒った顔のままバスタオルを巻きつけてドアを勢いよく開け、出てきた彼女はそれでも多少悪いと思っているのかいないのか、僕の顔をちらりと見る。ケーキ食べようか、と言おうと思っていたのに、僕の口からこぼれたのは全然違う言葉で。

「結婚しようか」

「――っ、え、」

 あっという間に驚いた顔になった彼女に釣られて自分もその表情にならないよう、驚くのは心の中だけにしておく。見開かれた目がきらきらと光を宿している。

「――ば、」

 かじゃないの、と途切れ途切れに続けられた言葉の端から笑い声が照れた色をして覗く、彼女はどうしていいのか分からないのだろう、嬉しいような怒っているような複雑な顔をした。

「馬鹿かな、そうかな、」

 口にしたらそれはずっと言おうと決めていたことなのだと思えるくらい、心から彼女と結婚したい気になってきた。プロポーズになるのだろう、ストレートすぎたかな、もうちょっとムードを作っていった方が良かったかな、と正直思わないでもなかったけど。

「結婚しようよ」

 多分これからもケーキのことでケンカしたり意味の分からないところで機嫌を損ねる彼女に四苦八苦させられるのだろうけど、そういうのも素敵に思えた。きっと、素敵なのだと、思う。

 フルーツタルト一口ならあげてもいい、と照れくさそうに言った彼女の、それが返事なのだと信じて僕は笑顔を向ける。抱き付いてキスしたかったけど、それは後のお楽しみにとっておいて、風邪引いちゃうといけないからさ、と彼女に着替えを促した。

人様の結婚記念に、勝手に書きました。

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