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一日だけの晴れ、一生分の雨

作者: 久遠 睦

第一部 日々の静かな重み


午前四時半。キッチンに立つ由美ゆみの足元に、ひんやりとした空気がまとわりつく。四十二歳の彼女の一日は、いつもこの静寂と薄闇の中から始まる。カレンダーの染みのように繰り返される毎日。夫と高校生の息子がまだ寝息を立てている間に、弁当の準備と朝食の下ごしらえを済ませてしまうのが、いつからか体に染みついた習慣だった。


冷蔵庫のモーター音が、唯一の物音だ。卵焼き器に油をひき、溶き卵を流し込む。ジュッという音が、一日の始まりを告げる合図のようだった。彼女の動きに無駄はない。それは長年の反復がもたらした効率性であり、思考を挟む余地のない自動化された営みだった。パート先のスーパーの惣菜部で天ぷらを揚げる時も、家で夕飯の支度をする時も、彼女の手は同じように正確に、そして感情を伴わずに動く。


夫の健司けんじとは、仲が良いわけでも悪いわけでもない。ただ、会話はほとんどが連絡事項で埋め尽くされている。「明日の朝、早いから」「息子の塾の月謝、払っておいて」。彼もまた、中間管理職という立場で仕事のストレスに疲弊し、年々口数が少なくなっていった 。鏡に映る自分たちの姿には、かつての面影はなく、ただ生活を維持するための同盟者のような空気が漂っていた。情熱はおろか、かつてあったはずの穏やかな愛情さえ、日々の摩耗の中でどこかへ消え去ってしまった。


息子の拓也たくやは、反抗期真っ盛りで、母親を「母親」という記号としてしか見ていないようだった。彼の関心はスマホの画面の向こう側にあり、由美の言葉はBGMのように彼の耳を通り過ぎていく 。それでも彼女は、母親という役割を演じ続ける。栄養バランスを考えた食事を作り、汚れた制服を洗い、彼の将来を案じる。それが彼女の務めだからだ。


パートの仕事は、家計の足しという現実的な理由で選んだものだった。十数年のブランクを経て社会に戻った時、由美は自分が浦島太郎になったような気分を味わった 。若い同僚たちの会話についていけず、体力的な衰えも隠せない 。立ち仕事の後は足が鉛のように重く、家に帰ってもソファに倒れ込む時間が増えた 。睡眠時間は短く、眠りも浅い。朝、目覚めた瞬間から疲労感が全身を覆っている 。


「私、何のために生きてるんだろう」。


ふと、そんな問いが胸をよぎることがあった。妻、母、パートタイマー。いくつもの役割をこなすうちに、「由美」という個人の輪郭はどんどんぼやけていく。自分のための時間も、心から笑うことも、何かを渇望することさえ忘れてしまったようだ 。ただ、一日という決められた時間を、決められたタスクで埋めていくだけ。そんな灰色の日常に、一通の封筒が届いた。


高校の同窓会の案内状だった。


卒業二十五年。その数字の重みに、由美は眩暈めまいがするような感覚に襲われた。最初は行く気などなかった。昔の友人に会ったところで、今の自分をどう説明すればいいのか。パートと子育てに追われるだけの、何の変哲もない主婦。そんな自分を見られるのが、少しだけ怖かった。


しかし、案内状は捨てられずに、リビングのチェストの上に置かれたままになっていた。埃をかぶった日常に投じられた、小さな石。その波紋は、由美の心の澱んだ水面を、静かに、しかし確実に揺らし始めていた。


第二部 人混みの中の顔


同窓会の会場である福岡・天神のホテルは、期待と不安が入り混じった独特の熱気に包まれていた。由美は、クローゼットの奥から引っ張り出した、数年前に一度だけ着たワンピースに身を包んでいた。派手すぎず、地味すぎない。それは、今の彼女の生き方を象徴しているような服装だった 。


会場を見渡すと、見覚えのある顔と、記憶の片隅にも引っかからない顔が入り乱れていた 。皆、名札をつけ、少しぎこちない笑顔で近況を報告し合っている。「部長になったんだ」「子供が来年受験でね」。聞こえてくる会話は、住宅ローンや親の介護、子供の進学といった、由美が今まさに直面している現実そのものだった 。ほんの少し、日常から逃避できるかもしれないと期待していた自分が馬鹿みたいに思えた。


グラスを片手に壁際に佇んでいた、その時だった。人混みの向こうに、懐かしい面影を見つけた。


斎藤海斗かいと


高校時代、クラスは違ったが、いつも数人のグループで一緒にいた、一番気の置けない友人だった。当時から少し大人びていて、皆の話を静かに聞いているような男の子。由美は、なぜか彼にだけは、誰にも言えないような悩みも打ち明けられた。


二十五年という歳月は、彼の顔にも確かな痕跡を残していた。目尻には深い皺が刻まれ、少し疲れたような影が落ちている。だが、穏やかな眼差しは昔のままだった。目が合うと、彼は少し驚いたように目を見開き、そしてふっと柔らかく微笑んだ。


「由美? 久しぶり」


彼の声を聞いた瞬間、由美の中で止まっていた時間が、ゆっくりと動き出すような感覚があった。


「海斗君こそ。元気だった?」


ありきたりな挨拶から始まった会話は、しかし、すぐに他の誰とも違う深さへと沈んでいった。彼は市内の設計事務所で働いていること、仕事は安定しているが、どこかに行き詰まりを感じていることをぽつりぽつりと語った 。「このままでいいのかって、最近よく思うんだ」。その言葉は、由美が心の奥底で抱え続けていた問いと、不思議なほど共鳴した。


由美もまた、自分の日常を正直に話した。見栄を張ることも、卑下することもなく、ただ淡々と、繰り返される毎日と、その中で少しずつ失われていく自分自身について。彼は、黙って頷きながら聞いてくれた。その眼差しには、同情ではなく、深い共感が宿っていた。


二人の間には、心地よい沈黙が流れた。周りの喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように感じられる。彼らは、同窓会という非日常の空間の中で、互いの孤独を見つけ、静かに寄り添っていた。それは恋心というにはあまりにも穏やかで、しかし友情というにはあまりにも切実な、魂の再会だった。


この出会いは、単なる偶然ではなかったのかもしれない。人生の折り返し地点で、同じように道に迷い、立ち尽くしていた二人が、互いを道標のように見出した。この夜、由美は久しぶりに、自分が「誰かの妻」でも「誰かの母」でもなく、ただの「由美」でいられる時間を取り戻していた。


第三部 禁じられた周波数


同窓会の翌日、世界は昨日と何も変わらないはずなのに、由美にはすべてが違って見えた。朝の光はより鮮やかに、空気はより澄んでいるように感じられた。海斗との会話の記憶が、心の中で温かい光を放っていた。


その日の午後、スマートフォンの画面に彼の名前が表示された時、心臓が大きく跳ねた。『昨日はありがとう。話せてよかった』。短いメッセージが、乾いた心に染み渡るようだった。


それをきっかけに、二人の間でメッセージのやり取りが始まった。最初は、同窓会の思い出話や、共通の友人の噂話。しかし、すぐにそれは、互いの日常を分かち合うための、秘密の通信手段へと変わっていった。


『今日のパート、理不尽なことで怒られて最悪だった』

『わかるよ。俺もクライアントに振り回されてヘトヘトだ』

『夕焼けが綺麗だったよ』

『こっちも。同じ空を見てるんだな』


他愛もない言葉の断片が、二人だけの世界を築いていく。夫にも言えない仕事の愚痴、子供には見せられない弱音、誰にも理解されない漠然とした不安。それらを、海斗はただ受け止め、共感してくれた。彼とのやり取りは、息苦しい日常の中で唯一、呼吸ができる場所だった。


感情は、言葉を交わすたびに深まっていった。それはもはや、単なる友情ではなかった。互いの魂が求め合うような、抗いがたい引力。だが二人とも、その先に何があるのかを痛いほど理解していた。彼らにはそれぞれ、守るべき家庭があり、裏切ることのでこない人たちがいる。


ある夜、健司が寝た後、由美は海斗と電話で話していた。彼の低い声が耳元で響く。その親密さに、罪悪感と幸福感が入り混じった感情が胸を締め付けた。その時、寝室のドアが軋み、拓也がトイレに起きてきた気配がした。由美は慌てて電話を切った。


心臓が早鐘のように鳴っていた。拓也に聞かれたわけではない。それでも、この秘密の関係が、いかに脆く、危険なものであるかを突きつけられた瞬間だった。


翌日、由美は海斗にメッセージを送った。『もう、やめよう』。


返信はすぐには来なかった。数時間後、彼の了承のメッセージが届いた。二人とも、わかっていたのだ。このままでは、美しい思い出が、醜い現実へと変わってしまうことを。互いの家族を、そして互い自身を傷つける前に、終わらせなければならない。それは、互いを深く想い合うからこその、苦渋の決断だった。


沈黙が訪れる前夜、海斗から最後の電話がかかってきた。


「最後に、一日だけ。一日だけでいいから、二人で会えないか」


それは、関係を続けたいという懇願ではなかった。このまま曖昧に終わらせるのではなく、自分たちのこの感情に、一つのけじめとして、たった一つだけの、誰にも汚されない完璧な思い出を作りたいという、切実な願いだった。


「思い出を作って、それを心の支えにして、明日からまた、それぞれの場所で生きていこう」


受話器の向こうで、彼の声が微かに震えていた。由美は、涙が溢れそうになるのを必死でこらえながら、静かに頷いた。


「うん。一日だけ」


それは、未来を約束しない、最も切ない約束だった。


第四部 二十四時間の永遠


約束の日、二人は福岡の中心地、天神の路地裏にあるカフェ「カフェ・ソラノシズク」で待ち合わせた。古いビルを改装した店内は、静かな音楽が流れ、これから始まる特別な一日への序章にふさわしい、穏やかな空気に満ちていた。


テーブルを挟んで向かい合うと、少しだけ緊張が走る。だが、海斗が「なんだか、高校生の頃に戻ったみたいだな」と照れくさそうに笑うと、由美の心もふっと軽くなった。こだわりのコーヒーを飲みながら、他愛もない話をする。未来の話はしない、という暗黙のルールが、二人を目の前の時間だけに集中させた。


カフェを出て、大濠公園までゆっくりと歩いた 。都会のオアシスと呼ばれるその場所は、大きな池を囲むように緑豊かな遊歩道が続いている 。吹き抜ける風が心地よい。ここでは、日々の役割から解放され、ただの男と女として、肩を並べて歩くことができた。


「あの頃、俺たち、何になりたかったんだろうな」


海斗が遠くの水面を見つめながら呟いた。由美は、忘れていたはずの夢の断片を思い出す。もっと自由に、もっと輝ける未来を信じていた、あの頃の自分。二人は、選ばなかった人生の可能性について、静かに語り合った。それは後悔の言葉ではなく、今の自分たちを形作った道のりを確認し合うような、穏やかな時間だった。


「少し、遠出しようか」


海斗の提案で、二人は彼の車に乗り込んだ。目指すは、糸島半島 。車窓の景色が都会の喧騒から、のどかな田園風景、そして青い海へと移り変わっていくのを眺めていると、まるで罪深い逃避行をしているような、甘い背徳感が胸をよぎった。


糸島の海岸線を走る。潮風が髪を揺らし、頬を撫でる。車を停め、砂浜を歩いた。寄せては返す波の音が、二人の間の沈黙を優しく埋めていく。最後に向かったのは、桜井二見ヶ浦の夫婦岩だった 。海の中に寄り添うように立つ二つの岩は、太いしめ縄で結ばれている。まるで、自分たちのようだ、と由美は思った。決して一つにはなれないけれど、見えない絆で結ばれている。彼らは観光客に紛れ、ほんの数時間だけ、恋人たちのふりをした。一緒にジェラートを食べ、土産物屋を冷やかし、くだらないことで笑い合った。それは、もしも二人が違う人生を歩んでいたら、手に入れられたかもしれない幸福の、儚い幻影だった。


日が傾き始めた頃、二人は福岡市内に戻ってきた。最後に向かったのは、シーサイドももちにそびえ立つ「福岡タワー」だった 。


夕暮れの光が街をオレンジ色に染める中、エレベーターは静かに上昇していく。眼下には、家路を急ぐ車のライトが光の川となって流れ、遠くには自分たちが暮らす街の灯りが瞬き始めていた 。あの無数の光の一つ一つに、それぞれの生活がある。自分たちが帰るべき場所がある。


地上123メートルの展望室に着いた時、言葉はなかった 。ただ、隣にいる互いの存在を感じ、眼下に広がる世界の美しさと、自分たちの運命の切なさを、胸に刻みつけていた。上昇が希望だったとすれば、下降は紛れもない現実への帰還だった。


タワーを降り、駅へと向かう道は、来た時よりもずっと短く感じられた。改札の前で、二人は足を止める。


「ありがとう。今日一日のこと、絶対に忘れない」


由美が言うと、海斗は静かに頷いた。


「俺もだ。…元気でな」


それが、最後の言葉だった。握手も、抱擁もない。ただ、すべてを語り尽くした後のような、深い眼差しを交わしただけ。そして、二人は背を向け、それぞれのホームへと続く階段を上っていった。振り返ることは、しなかった。


第五部 記憶の形見


翌朝、由美はいつもと同じ時間にキッチンに立っていた。卵を割り、味噌汁の出汁をとる。昨日という一日が、まるで遠い夢だったかのように、日常は何も変わらずに続いていく。


健司が起きてきて、新聞を広げる。拓也が眠い目をこすりながら食卓につく。いつもと同じ光景。しかし、由美の中では、何かが決定的に変わっていた。


胸の中に、温かい小さな灯火が宿っている。それは、海斗と過ごした一日の記憶。大濠公園の穏やかな水面、糸島の潮風、タワーから見た夕暮れの街。そして、すべてを受け止めてくれた彼の穏やかな眼差し。


その記憶は、由美を苛むものではなかった。むしろ、不思議なほどの静けさと、強さを与えてくれていた。パート先で嫌なことがあっても、以前のように深く落ち込むことはない。拓也の無神経な言葉に、心のささくれが立つことも減った。健司の背中に、かつて彼も抱いていたであろう夢の残骸を見て、ほんの少しだけ優しい気持ちになれるようになった。


あの一日は、彼女の人生の軌道を変えはしなかった。しかし、その人生を歩んでいくための、見えない杖になった。誰にも知られることのない、自分だけの宝物。


ある雨の日の午後、由美は一人、リビングの窓から外を眺めていた。灰色の空から、絶え間なく降り注ぐ雨。それは、彼女がこれまで感じてきた日々の単調さや、心の渇きを象徴しているようだった。


だが、今の彼女には、この雨の向こう側にある晴れ間を、はっきりと心に思い描くことができた。


あの日、糸島の夫婦岩の前で、海斗と見上げた、抜けるような青空。


由美は、そっと微笑んだ。誰のためでもない、自分だけの、小さな、秘密の笑みだった。


一日だけの晴れ。その記憶があれば、この先続く一生分の雨の中だって、きっと歩いていける。彼女はそう、確信していた。


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