八 大切な家族
「……不安だ」
伏目がちの瞳で逢魔時の民衆を見つめるものがいた。
背は他の者より随分と高く、口元はきゅっと引き結ばれ、男は蒼黒の羽織についた埃を払って身なりを整える。
男の両腕には包帯が巻かれ、その少し解けたところからは痛々しいまでに赤黒い火傷の跡が見えた。すっと伸びたその首には数珠が下げられている。
神や仏を信じない巫覡であれば仏具など死んでも身につけなどしなかったろうが、その男にはそれをつける確かな理由があった。
男は花喬影の一人にして唯一巫術を持たぬ、禊祓の術に長けた澄川だったのである。
口数は少なく、滅多なことでは怒らず、詩雨以上に感情表現の乏しいまさに静寂閑雅を体現したようなこの男は、その殺風景な顔に反して仲間の身を心底案じていた。
澄川は花喬影の長である嶺然の次に年長である。
名籠めが姉のように慕う赤雲ですら、澄川より一回りも若い。
故に澄川は、名籠めはもちろん赤雲や黒鷹が幼い頃から彼らの姿を側で見、兄弟のように面倒を見てきた。
そんな澄川が、まだ年若い彼らが敵の巫覡と殺し合うことに胸を痛めないはずはなかった。
「感情に絆されるな。俺がしっかりしなければいけない」
澄川は自分に言い聞かせるように小さく囁く。
が、澄川にはもう一つ憂慮せずにはいられない所以があった。
嶺然が金で雇った流れ者の巫覡、詩雨の存在である。
巫覡として生きていると、どうにも飽きが来るくらい悪人やら罪人やらと関わることになる。呪詛をかけたがる相手もかけられる相手も、大抵碌な者ではない。
もう何年も花喬影としてそんな悪人を見てきたが、あれはその中でも別格だ、と澄川は心の内で思う。
とことん利益を追求する快楽主義者。
どんな悪人であれ多少は情に左右される脆い側面を持つ。
しかしあれには人間らしい側面が一切なかった。顔に張り付いた笑みも、饒舌に語る口も全て計算づくの仮面である。その上強力な巫術を持つというのだから質が悪い。
三河一国の家康に都合の良い条件でも提示されれば、詩雨は間違いなく寝返る。
澄川は確信していた。
だからこそ自然に彼の憤りが向くのは彼の実の父親、嶺然であった。
嶺然がそんなことを知らないはずはない。彼が流れ者のあの巫覡を心から信頼しているはずもない。
ではなぜ彼が詩雨を引き入れたか。
澄川は理解していた。
単純なことだ。
父はそんなリスクを背負ってまで花喬影の勝利を、その栄達を望んでいるのだ。
全てを投げ打つ覚悟で、彼は巫覡達に幸せを与えようとしている。
彼は軽く頭を振ると軽く邪念を振り払った。
こんな気持ちになるのは初めてではない。何度も経験してきたことだ。
そのために俺は巫覡の道を選んだのだから、と澄川は数珠に触れて念じ、再び自らを奮い立たせる。
が、そんな折、突如として人の叫び声が嵐町に響き渡った。
尋常の叫び声ではなかった。
それも一人ではない。幾人もの人間が同時に絶叫に近い叫びを上げたのだ。
澄川はすぐに声のする方へ走った。
気味の悪いことに声は連鎖するようにその大きさを増していく。
事はそれに留まらない。声のした方、曲がり角の向こう側から、何人もの人々がこちらへ走ってきたのだ。
ある者は足をもつれさせながら、ある者らは強く互いの手を握りしめ身を寄せ合いながら。皆青白い顔をして悍ましいものでも見たというような顔をしている。
「おい、何があった」
澄川はその内の一人を呼び止め事情を聞こうとしたが、その者は澄川の手を振り解くと焦点の定まらぬ目を向けて勢いよく首を振った。
その目にはもはや澄川ですらぞっとする妖か何かに見えているようで、彼は絶叫した。
「蟲がっ! 蟲があぁっ!」
「蟲がどうした!」
「人を、喰ってる! そんで人に、人に乗り移って……もう、ここにゃいられねえんだ!」
男はそれ以上を語らず、逃げ惑う群衆の中に消えていく。
澄川はその様子に激しい違和感を覚えた。
巫覡は呪詛を扱う者だ。秘密裏に依頼を受領し敵を呪い殺す。故に身を隠して相手を呪い殺すは巫覡の定石。
そんな巫覡がこれだけの騒ぎを引き起こすとは、およそ信じられぬ事だった。
なぜ敵はそんな大々的な犯行を起こす。それも、巻き込む必要のない一般人の命を危険に晒してまで。
まるで敵に見つけて欲しいと言っているようなものじゃないか。
雪崩の様に押し寄せる人の波を掻き分け、澄川はついに角までやって来る。
そして左を見、絶句した。
その通り全体に、何人もの「人でなくなった何か」が蠢いていた。
青紫に変色した肌、白目になった目は顔から飛び出し、目的もなく四方に彷徨う姿はもはや意志や理性を完全に失った獣である。
彼はその獣たちのぽっかり開けた口に、何かが突き刺さっているのを見た。
いいや、物ではない。
人々の口から半身を突き出し、無数の足を蠢かせ身をくねらせるそれは紛れもなく、生き物。
それこそが、あの民が発した蟲であった。
それも自然界に存在するただの羽虫やら昆虫やらではない。
それは巫術の一種であった。
己の呪力を蟲に込め、傀儡として自在に操り人を呪う巫術。
全身を巡る神経も、身体の機能も全て失った人間は、巫覡の思い通りに操られる。
その者自身の手で他者を殺害することもできれば、凶器を用いて自害させることもできる。
これぞ巫覡といった、実に陰湿でむごたらしい巫術であった。
「あ、見つけた」
そんな澄川の姿を満面の笑みで迎える少年の姿があった。
毒々しいまでの紫一色に染められた着物に、分厚い長羽織を纏う少年の目は、白目を認識できぬほどに真っ青な色で満たされている。
鈴の音の様に軽やかで純朴な声色とは対照的に、彼は大事そうに抱き抱える甕に頬を擦り付けた。その様はまさに、狂気の如し。
「やっぱり! こうしていたら会えると思ったんだ!」
「よもや自ら姿を現す巫覡が居ようとは」
「こそこそしたり、じっと機会を待つっていうのは苦手なんだよね。敵を探すとか見つけるとか面倒くさいだろう? 早く決着をつけたくなっちゃうよ」
これは心底殺しを楽しむ者の目だ。
澄川は、冷徹な瞳の奥で少年を睨む。
「お前はもう、他の巫覡を殺したのか」
「言うと思う?」
「さあ、それはお前次第だろう」
少年は数秒澄川と目を合わせた後、大袈裟に肩を竦めた。
「なあんてね。先に殺したら言ってるよ。君の絶望する顔が見たいんだもん。君は仲間が心配なんでしょ? 誰かを信頼するなんて気味が悪いよ。だって人間は裏切るじゃないか」
「気味が悪いと言えば、人を操り呪殺することを楽しむお前の方だが」
「そんなことないよ。蟲は裏切らない。絶対僕の命に背かない。絶対に、僕のことを悲しませないでいてくれる」
月光殲の巫覡、死華はうっとりしたような顔で甕の中の蟲を見、思い出したように顔を上げた。
「そうそう。僕にも聞きたいことがあったんだ」
己の一言一言に眉ひとつ動かさず佇んだままの澄川に、死華は不思議そうに首を傾げる。
「君が花喬影なのは明らかだけど、君は少しおかしいみたい。君の中には少しの呪力も流れていないよね。おかげで探知もできなかったよ。ねえ、君はどんな巫術で僕と戦うの?」
「それこそ、進んで明かす者などいないように思えるが」
「うん、そうだよね。君は理性的で冷静な人。僕とは真反対の人間だもんね! だから、実際に目で見て確かめることにするよ」
子供の様に無邪気な声の後に、極悪非道を楽しむ快楽殺人者のような殺意と悦びを滾らせた死華は、薄ら笑いを浮かべて甕の中から一気に蟲を掴んだ。
一匹ではない。ざっと数えて十匹と言ったところだろうか。
死華の手の中で無数の節足を持った蟲らはキチキチと奇怪な音を鳴らし、粘液を吐き出しては光沢のある羽を激しく震わせる。
「さあ、殺してしまえ」
彼が手を離した瞬間、無数の蟲が澄川の方へ一直線に飛びかかる。
常人ならば一切の抵抗ないままに蟲に喰われ、死華の傀儡となっていただろう。
いやそれどころか巫覡であったとしても、真正面からこの蟲使いに立ち向かうことは困難であったと言える。
しかし死華にとって、澄川を相手にしたのが悪かった。
本来なら彼は澄川に呪力がない理由、それを即座に悟り退避せねばならなかったのに。
澄川は瞑目し、両の中指薬指を合わせ、人差し指を交錯させる。
洗練された、禊祓の術。
静寂の中、まるで夜風に凪ぐような声が一瞬にしてあたり一帯を制した。
「天切る、土切る、八方切る、ふっ切って放つ、さんぴらり」
一見するとそこには何の変化もなかった。
ただ澄川が指を組み、祓詞を唱えただけ。
が、そのたったそれだけが場の形勢を一瞬にして逆転させた。
死華は、凄まじいまでの気迫が澄川の中から外へ、一気に吐き出されていくのを感じ取る。
澄川の放った気は無数の蟲たちを、死華を圧倒していく。
神威を携えた、まさに神がかりの力。
呪い事を扱う巫覡には到底到達し得ぬ清麗の域。
澄川の目の前で、おどろおどろしい蟲たちが瞬く間に灰燼と化した。
そうなることを初めから分かっていたかのように、彼は一拍置いて瞼を持ち上げる。
深藍の睫毛が扇状に広がった。
彼は無慈悲にも命を散らした蟲たちの残骸を見下ろし、次いで死華を見る。
その時の死華の目には、澄川の泰然自若な様相がどんなにか恐ろしく見えたことだろう。
「お前巫覡じゃないな! 神仏に力を借りる、僕が大っ嫌いな人種だ」
甲高い声が濁り、彼は強く歯噛みする。
「俺は巫覡だ。例え巫術がなくとも、この身は巫覡と共にある」
「そんなこと関係ない!」
死華は我を忘れて再び甕の中から蟲を引っ掴む。
勿体ぶることなどしない。言葉で甚振りなどしない。
早く、目の前のこの男を殺したくて堪らない。
早く蟲を体内に入れて、制御を失い人畜と化したその体を刀で滅多刺しにしてやりたい。
そしてその体を操って、この男が大切に思う仲間達を一人残らず殺してやる。
先ほどとは比べ物にならないほど多くの蟲を、彼は澄川に向けて放った。
無論それだけで終わらせてやるつもりなどない。もはやこの争いを楽しむ気など失せた。一息の内に殺してやる。
大量の蟲と共に、死華は先刻彼の傀儡となった民衆たちに命を下した。
「この男を、殺せ」
蟲は澄川の方へ飛んでいき、周囲の人々が奇声を上げながら彼を取り囲む。
澄川はそんな死華を見、周囲を一瞥した。
彼の間近に敵が迫ったその瞬間—
「ツクヨミ大神、生死を告げ給え、急急如律令」
彼は神言を唱えた。
その瞬間、死華は息をするのが難しくなった。
彼は激しい耳鳴りに悶える。踏みしめている大地が唸りをあげている心地がして、彼は二、三歩ふらついた。
突如として全てが幻だったかのようにしんと静まり返った時、死華は朧げに目を開ける。
「あ、あ、あああぁぁ」
死華の放った蟲は一匹として姿形を残さず塵芥と化していた。無論彼の傀儡達も同じである。民衆の口にあったはずの蟲は消え去り、人々は皆倒れ込んでいる。
しかし死んだのではない。澄川は蟲と宿主をきっちり分かち、器用にも蟲の方だけを祓ってみせたのだ。
「僕の家族……僕の家族……!」
死華の目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。彼は他の一切を顧みることなく、抱き抱えた甕に手を入れる。
「いない……いなくなっちゃった。みんな。みんな」
どんなに探っても、当たり前のようにそこにあった感触はどこにもない。
彼はぼろぼろと泣き崩れながら何度も甕を覗き込んだ。
幼き捨て子であった彼にとって、蟲は彼の唯一の家族だった。
死華の生きる術として、姉女が与えてくれた蟲使いという居場所。
自分が得た、初めての家族。
どんなに皆が蟲を嫌悪しようと、それを愛する死華を気味悪がろうと、死華のそばにいてくれたのは彼らだった。死華の話を聞いてくれたのは彼らだった。死華のために生きてくれたのは彼らだった。
彼らだけだったのだ。
泣き崩れる死華に近づく足音があった。それはもう死華を圧倒する様な音ではなく、とてもゆっくりと、穏やかな色をしたものだった。
「……すまない」
地面に座り込んで涙を流す死華に、澄川は静かな声でそう言った。
「なんで」
死華には分からなかった。なぜ澄川がそんなことを言うのか。なぜ彼が、自分に哀燐の情に満ちた目を向けるのか。
「俺は万能ではない。そして、器用でもないんだ」
彼はゆっくりと言葉を選んでいるようだった。慣れない言葉を頭の中で、必死に探し出しては紡いでいるようだった。
「俺に守れるものには、限度がある」
こういう時、澄川はいつも悔しくて堪らなくなる。
幼い捨て子が辿ってきた道を澄川は知っている。
愛情を知らない者が愛を見つけ出すことの困難さを。生きることに苦難し、ただの誰をも信じられなくなって、それでも生きていこうともがいてきた者の苦しみを、強さを知っている。
花喬影の衆がまさにそうだった。
黒鷹も、名籠めも今ではあれほど穏やかな赤雲でさえ己の宿命に病み、心を閉ざしていた時期があった。
特に黒鷹には難儀した。
澄川は回想しながらかすかに微笑む。
巫覡達の成長を側で見、共に生きてきた澄川だからこそ知っている。
死華も同じだったのだろう。
彼もきっと、ここまで必死に生きてきたのだろう。
救ってやりたい。
自分にそれほどの器量があればとどんなに思ったか知れない。
抱えたいものが手のひらからすり抜けてゆくたびに、いつも。
けれど澄川は神ではない。
所詮神仏の力を借りるだけの祓い屋に過ぎないのだ。
故に彼は、大切なものを選び取らなければならなかった。
「君と相違えない世界であればよかった」
澄川は思い定めたように瞳を閉じ、ゆっくりと開く。
そこには涙を流したまま目を閉じて、けれど穏やかに微笑んだ死華の顔があった。死華はただじっと澄川の声に耳を傾けているようだった。
死華はこれから起こることを、全て理解していた。そして起こりうる全てを受け止めていた。
「ぼくたち、もっとはやくに会えていればよかったね」
彼がそう言った瞬間、澄川は刀を取り出し、死華の頭を薙ぎ払った。
事が一瞬で済むように。彼が最期の瞬間、苦しむ事がないように介錯した。
花喬影の栄達を望むなら、月光殲に情をかけてはいられない。
彼は無惨にも地面に転がった死華の頭に歩み寄ると、うっすらと開いたその瞼を閉じてやる。
そうして立ち上がった、その時であった。
「その面差し、嶺然に似ておるの」
市女笠を被り、全身を垂れ衣で覆った女。
月光殲の頭領、姉女が澄川の前に姿を現した。




