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七 流浪人の殺し方

先刻黒鷹が息を引き取り、花喬影が奥座敷で嶺然と赤雲が悲しみに暮れていることなどつゆ知らず、小気味良い足取りで嵐町を歩くは、流れ者の巫覡詩雨である。

仲間を持たぬ彼は花喬影の衆の安否を案じることもなく、かといって敵から身を隠そうなどとも一切考えていなかった。ただこの巫覡の乱に勝利を治めること、そして敵が全て死に絶えるまで呪殺し続けること、彼の頭にあったことと言えばこれくらいである。

その極端なまでの快楽主義の性質はもはや花喬影というより月光殱の一匹狼であった。

では巫覡たる詩雨が何をしていたかというと、彼は嵐町の大通りを歩いていた。

しかしそれは黒鷹と蓮離れが相対した通りとは全くの別物。

彼は尾張国随一の神社、真清田神社へ続く参道を歩いていたのである。

鼻歌を歌いながらさも上機嫌な様子で歩く詩雨とは対照的に、人々はそんな彼を不審げに見たり、ある親などは子供の目をさりげなく隠し彼の姿を見えないようにしながら通り過ぎる。

それは彼の異様な雰囲気の所為に非ず。

無論呪詛を扱う彼の存在が神社に障るなどという荒唐無稽な理由にも非ず。

逢魔時に神社へ向かうなどという彼の行動自体が、ひどく常識はずれだったのである。

そもそも逢魔時とはその名の通り、魔物や鬼、魑魅魍魎に遭遇しやすいとされる時間であった。魔物たちが神の力を得るために、夜半神社へと侵入し、神社へ訪れる人に襲い掛かる、そんなまやかしの様な言い伝えを信じていた人々にとって、自ずから神社に向かう詩雨など狂人に他ならなかったのである。


「魑魅魍魎なんかより恐ろしい存在が、平気で町中を歩いてるっていうのにね」


詩雨は誰に言うでもなく呟いて、何の事も無しに大鳥居をくぐると、彼を出迎える狛犬などには目も向けないで拝殿の方へまっすぐ進んでいく。

境内には人っこ一人見当たらない。

音という音は、詩雨の雪駄が砂利を踏み締める音だけだ。


「だけどね、もしも妖なんて存在がいたとしたらそんな素敵なことはない。今すぐ喰い殺されるか、常世にでも連れていってもらいたいくらいだ。彼らにそんな事ができればだけど」


詩雨は拝殿の前までやってきて、拝殿の飾り付けやらしめ縄やらに目を向ける。

誰に話しているのだか、彼は闇夜の虚空に向けて歌うように独り言ちた。


「それにね、僕は神社なんて言葉を聞くと時々思うんだよ」


手水舎の水がちょろちょろと音を立て、どこかで虫が鳴いている。

詩雨はそんな自然の音にゆったり身を預けるかのように目を閉じて、


「神の前で人殺しをしたら、どんな罰を受けるんだろうってね」


闇を映した獣の両目が一気に開眼した。

獲物を前にして病的なまでに狂喜するその両目を一体誰が人のものだと言えただろう。

これまでののらりくらりした動きはどこへやら、詩雨は拝殿を背にすぐさま振り返り、己が背後で日本刀を振り上げる一人の刺客に、隠剣で応刀した。

金属と金属が擦れ合う甲高い音と共に、詩雨の鬼神の如き高笑いが響き渡る。

彼はその短い隠剣で刺客の体ごと払い飛ばす。


「ねえ、君も月光殱の一人なのかい? ずっと返事がないから寂しかったよ。そうだ、僕が君の身の上を当ててあげよう。君は月光殲の雇われ、花喬影を暗殺しようとしているんでしょ。さすが家康だ。別に巫術でなくたって、殺せればなんでもいいもんね」


その反応は、初めから刺客の存在を認識していなければ到底できぬ身のこなしであった。

彼は参道を歩いていたその時から、己が後を付け狙う刺客の存在に気づいていたのである。

それでいて敢えて人目につかぬ神社に入ったは彼の純然なる悪戯心であろうか。


「某は多くを語らぬ故、その問いには答えられぬ」


濃紺色の着物に身を包んだ刺客は言葉少なにそう告げ、再び刀を構える。


「ふうん。何も言わないならそれでいいよ。それだけで十分だから」


詩雨も刺客に合わせて再び隠刀を握った。


「僕、剣術が得意じゃないんだ。だから、お手柔らかにね」


闇夜の中で刺客は地面を蹴り上げ、風をも味方につける身のこなしで刀を振る。

それに合わせて詩雨も足を踏みしめ、刺客に刀を差し向けるかと思いきや、突如として刀からパッと手を離した。

刺客は瞬間それに動揺したが、さすがは鍛えられた剣士と言うべきか。

それを好機と見て更に近づいてゆく。

そして刺客が目と鼻の先まで来た瞬間、彼は再び大きく目を見開いた。

それは争いに飢えた餓鬼の如く。

闇夜よりももっと濃く陰湿で、陰鬱で暗然たる地獄を映した目が刺客を捉え、刺客は詩雨に斬りかかろうとした態勢そのままで動きを止める。

その体がたちまち膨らんでは爆散した。

勝敗は一瞬にして決したのだ。無惨にも主を失った剣が地面に転がり、無機質な金属音を響かせる。剣士の体はもはやただの肉片と化していた。

どんな巫覡も驚かざるを得ない、見事なまでの呪殺である。

彼は足元の死体とも呼べぬ残骸を見、次いでぼうっと拝殿を見つめては間の抜けたため息をついた。

先ほどまでの鬼気迫る相貌とはまるで別人である。


「なんだ、つまらないの。やっぱり神なんていやしない」


彼は非情な捨て台詞を吐くと、ついに肉を裂くことのなかった隠剣を再び懐に仕舞い込んだ。

そのまま踵を返して帰路に着こうとした時、それは起こった。


「詩雨という巫覡はあなたですか」


何者かが突如として詩雨の背後に現れ、彼が振り向く間もないままにその両目を、真っ白い布で覆ってしまったのである。

彼は抵抗が叶わないことを理解する。

奪われたのは視覚だけではない。

彼の手足には、ぴんと張り詰めた蜘蛛糸のような糸が巻きついていた。とても細く脆く見えるのに、それは金属のごとき頑強さを誇り彼に一切の抵抗を許さない。

なぜならそれこそが、詩雨を拘束する巫覡—勿忘の巫術であったからだ。

呪詛を絡めた糸を自在に操る、それが彼女の巫術。

伸縮自在な糸は遠方でも一息の内に首を絞め呪殺することができる。

暗殺者の存在をを察する者が居れど、糸が近づくことを誰が予期できようか。

稀代の忍者も恐れるほどの、まこと暗殺に長けた強力な巫術であった。


「如何にも僕のことだ。君は月光殱の巫覡かな」

「ええ、まさにその通りです」

「今度の敵は素直らしい」


目隠しをされ、動きを封じられ、挙句の果てにそれが殺し合うべき月光殱であることを知っていても尚、詩雨はまったく動揺を見せなかった。

その異様な様子に月光殱が一人、勿忘はどこか身体の奥が冷えるような心地がする。

巫覡である勿忘は、死を間近にした者の姿を幾度となく見てきた。

大抵は叫び声を上げ人間性を失う。

次に茫然自失とする者だ。彼らは抜け殻のようになる。

そしてごく稀に、何も起こっていないかのように平静を装う者がいる。

けれどそれも大抵息や汗、声色まではごまかせない。

この男はその内のどれでもなかった。

安心している訳でも諦めている訳でもない。男の中には感情と呼べる一切のものが、まるで存在していないように思えた。勿忘はすぐに男の内を探るのをやめる。

この男を視ようとするとどうにもこちらの方が飲み込まれるような気がしてならない。果てのない常世の闇が、この男自身の中に備わっているようだ。

これ以上見ようとすれば、この男に絡め取られる。

が、彼女はその落ち着いた声色の奥で愉悦の笑みを浮かべた。

なぜなら勿忘は、今し方この流浪の巫覡が隠す能力を知ったのだ。目を隠され、危機に瀕した状態でもこの男は己が巫術を使わない。

しかし使わないのではない。

彼はその巫術を使えないのである。

彼が抵抗しない理由、それは彼の巫術がその目にあったのだから。



「随分と姑息な真似をするじゃないか。僕の巫術を見抜くために、あの剣士を雇ったんだね」

「噂は聞いていましたから。あなたは何人の敵が斬りかかっても一瞬で全員を呪殺したという。ですが巫術は魔法ではありません。必ず絡繰がある。故に、少しばかり謀らせて頂きました」

「それで、ここはどこ?」

「心配せずとも、そこまで遠くには移動していませんよ。ここは真清田神社の本殿の中です」


神の存在を誇示するように張られた紙垂、その奥には仰々しいまでの供物に飾られた御神体がひとつ。

ぼうと橙に灯る行燈が左右に置かれ、檜の香が焚きしめられた手狭ながらおどろおどろしい雰囲気を醸し出すその部屋の中心で、後ろ手を縛られ視界を奪われた流浪の巫覡がその場に座すことを余儀なくされていた。


「本殿の中、ねえ。まさか君も神を信じている質なのかい。神の御前なら僕が不敬を犯さないとでも?」


半ば挑発するように揶揄ってみせた詩雨を、勿忘は一蹴する。


「まさか。巫覡の誰が神を信じると言うのですか。神などがいれば我々の様な汚れた存在は生まれない。私がそんな阿呆であれば、まず逢魔時にこんな場所にはいないでしょう。そんなこと、初めから分かっているでしょうに」

「ははっ! 君は僕とまるっきり違うけど、少しだけ同じ匂いがする。花喬影はどうも辛気臭くてね、お互いを信頼したり案じたり、情に溢れすぎている。やっぱり巫覡とは非情にあるべきだよ」


勿忘はこの男のふざけた言い回しに少しばかり腹が立っていた。

大人しくこの部屋に連れてこられ、こうして言葉を交わしている時点でこの男の巫術が目にあったのは明らかだ。

それであれば瞬間で人を呪い殺せる理由も、一人で流浪の呪い屋をやっているのも至極納得の話。

姿を目に入れるだけで良い巫術なんて、向かう所敵なしである。

が、だからこそその絡繰を見破られた時点でこの男の負けは決したのだ。

なのに焦りもせず飄々としているその態度がどうも気に食わない。

彼が命乞いでもすれば、勿忘の快楽を満たすには十分であったのに。

彼女が舌を打とうとした所で、詩雨は目も見えぬのにこちらの方へ顔を向けてニヤと笑って見せる。


「でももしも、君がその非情を誰かに捧げたいと思っているとしたら。君も結局、花喬影と一緒なのかもね」

「知ったように語るな」


声を低く押し殺しつつ凄みを利かせ、勿忘は目隠しをしたままの男に向かい合った。

勝利を捧げるために生きるという己が性質を見破られた事よりも、自分が姉女に向ける畏敬の念をなじられたことが、勿忘の怒気を突いた。


「あなたは少々、自分が置かれている状況に対して無頓着と見える」

「僕なりには理解しているつもりだよ。君は僕の巫術を封じて、交渉事を持ちかけるつもりなんだろう」


勿忘の怒りがそこでふっと抜けた。


「ご明察です」

「明察とは言い難いだろうさ。君が僕のことを殺さない時点でそれははっきりしているんだから。それで交渉っていうのは?」

「端的に言えば、あなたを月光殲に引き入れたいのです」


勿忘は袂から包みを取り出した。


「あなたは花喬影の一員として行動していますが、それはあくまで雇われの身。あなたの言う情に絆される花喬影らとは異なり、所詮金で動く孤狼に過ぎない。あなたとしてはどちらについても問題ないはずです。もちろん、あなたは裏切りに心を痛めるほど、人間ではないでしょう?」

「よく分かってるね。それはもちろんだ」

「ならば」


勿忘は包みを開いて逆さにすると、眩いばかりに輝く金貨を床に落とした。甲高い金属音はすぐには鳴り止まず、その交渉金の額の大きさを詩雨に知らしめる。


「家康公から預かった金貨です。ざっと二千ばかり。あなたの働きようによっては更なる額を支払ってくださるでしょう」

「ほう。悪くない」


彼は感嘆の息を漏らすと、金の鳴らす音に悦楽の笑みを浮かべた。


「寝返っていただけますね?」


勿忘が念押しする様に息つく間もなく詰め寄ると、詩雨は口角を上げたまま勿忘に問うた。


「そう言えばさ、戦ってどうなったか知ってる?」

「戦?」


突如交渉に関係のない質問を投げかけられ、勿忘は動揺する。乱鷹の戦のことを言っているのか。だとしたらそれは先の話だ。今ではない。

なら今の話をしているのか。まさに今行われている巫覡の乱のことを?


「関係のない話ですね」


勿忘は払いのけるようにせせら笑った。まあ良い。言わせておけば良いのだ。


「いいや、関係は大いにあるよ。たとえば巫覡の戦いに勝ったとしよう。そして後援国の戦も勝利をおさめたとする。そうなれば更なる報酬が期待できるね。新たな依頼も貰えるかもしれない。でも負けたら? もちろん、すべてゼロだ。敗戦国は血の一滴まで搾取される。加えて敵国に粛清対象として追われるリスクまで背負うかもしれない。これはとっても面倒だ」


この男は、差し詰め話をそらそうとでもしているのだろうと、勿忘は思った。

表向きは普通のように振る舞ってはいたが、巫術を封じられ、手足を拘束され動揺したか。

だがいずれにしても、詩雨がこちらにつくことは明らかだ。

なぜならこちらには切り札がある。


「やはり関係のない話です」


彼がこちらに寝返ざるを得ない情報が。


「信長はすでに負けているのですから」


勿忘は笑った。


「蝶国と三河一国は乱鷹の合戦に向けて手を組んだ。これが意味するところを理解できますか? ええ。合戦が始まった瞬間、三国の争いは二対一の争いへと様変わりする。いくら屈強な軍を所持していようと、信長に勝ち目はないのです」


詩雨を納得させるにはそれで十分であった。

信長以上の褒賞を払い、家康どのが天下を獲ることはもはや約束されている。

迷う余地など、あるはずが。


「知ってるよ」

「え」


その時、勿忘は自分が素っ頓狂な声を出したことすら気づかなかった。

受け入れるか、受け入れないか。ただその返答でしかないと思っていたのに。

知っている、だと?


「あれ、君たちの方こそ知らないのかい」


詩雨の口元が、にんまりと笑う。


「この巫覡の乱にはね、目的がふたつある。一つ、家康の巫覡月光殲を殺すこと。二つ」


ひどく、不気味に。


「蝶国に仕掛ける急襲を隠すため、だ」


血の気が引いていくようだった。

これはもはや勿忘だけの問題ではない。

信長は家康と蝶国の計略に気づいている。

それがどれほど恐ろしいことか。

冷静になろうとすればするほど、鼓動が早まっていく。

その声は今までのからかう様な声色とは全く異なるものだった。


「信長軍はすでに鷲羽町を越えたらしい。これが意味するところは分かるね? 鷲羽と言えば蝶国の中心地だよ。蝶国を落とす時はもうそこまで来てるのさ」

「だから何だと言うのです!」


勿忘は声を荒げた。彼女は詩雨を納得させることよりも、自分を納得させることに必死だった。


「蝶国は我々三河一国と手を組んだ! いくら蝶国の中心地まで攻め入れようと国を落とすことは難しい。それにあなた方はこの巫覡の乱に負けるのです! この戦に負ければ信長も負ける。あなたの物分かりが悪い様だからはっきり申し上げましょう。花喬影の巫覡よりも月光殲の方が強い! 姉女様がいるのだから当然です! 故に利己的で合理的なあなたはこちらについた方が……!」


そうだ。そう。たとえ蝶国が落とされようとなんだ。家康が存命なのは変わらない。

それに、月光殲は強い。決して負けない。

やはり詩雨は寝返るべきなのだ。

しかし彼の返答は、勿忘の理想とは程遠かった。さらに、彼女を絶望させたのだ。


「物分かりが悪いのはそっちだろうに」

「え?」

「そもそも僕がいれば花喬影は負けない。僕は自分の力で勝つことができるから。確かに花喬影にいても月光殱にいても変わらないのかもしれないね。でもだからこそ、信長の戦の結果が重要なんだ。さっきも言ったでしょ? 後援の国が勝てば、更なる利益を見込めるんだから」

「それは家康公も同じこと。月光殲が勝てば家康公が勝つ」

「それを言い切ることは信長が勝つと言うより難しい。だってそもそも、信長が強いから、家康と蝶国は手を組んだんでしょ」


体の奥底から嘲笑するかのように、彼はヌッと口角を吊り上げた。


「むしろ寝返った方がいいのは君の方なんじゃないの?」


勿忘は全身が震え上がっていくのを感じた。

無論これまで感じたことのない憤怒の所為である。

少しでも月光殲の勝利の確率を上げられればと思っていた。

いいや月光殲というよりも、ただ姉女様の助けになればと思っていた。

この巫覡の戦を姉女様が治め、家康公にその素晴らしい力を認めていただければ。

姉女様の幸せに貢献する、それ以上の幸せはない。

それならば勝利を捧げるだけでは足りない。

そう思ってこの流浪の巫覡を引き入れようとした。

その意向は変わらない。

だが、彼女は今、自分を侮辱するこの男を、打ち負かしたくてたまらなかった。

崇拝する姉女のためではない。

自分の矜持のためである。

彼女の中でとめどなく湧き上がる憎悪を鎮めるために。

彼女は詩雨の手足を拘束する捕縛の巫術を強めた。詩雨の手首やら足首から血が滲むほどに。

この男に現状を理解させるには、もはや言葉では足りない。呪詛という暴力を用いなければ、彼を支配する術はないのだ。

もっと、もっと、もっと!


「初めからお前に拒否権などないのだから、さっさと受け入れろ!」


もはや手首足首では足りぬ。息が出来ないほどに首まで締めてやる、と彼女は指の先から蜘蛛の糸の様に伸びたそれを彼の首にしゅるしゅると巻きつける。その糸をあっという間に手繰り寄せ、一気に締め上げようとしたその瞬間。


「月光殲がこんな愚か者の集まりなら、確かに僕の選択は間違っていなかったかもしれない」


落ち着き払った彼が口を開いたと同時に、勿忘は両腕を失った。

正しく言えば、彼女の両腕が膨れ上がっていくのだ。血管がはち切れて、肌を突き破った肉がぼこぼこと歪な形に隆起する。それはもはや人の腕に非ず。

そして目の前で自分の腕が生臭い匂いと共に泡を吹きながら溶けていく様子は、彼女が神社の境内で見た刺客の最期と同じだった。

勿忘の口から声にも満たない音が漏れた。

腕を失った痛みよりもなぜ自分がこんなことになってしまったのか、そもそも自分の身に何が起こったのかさえ把握することができなかった。

呆然とたちすくむ勿忘の前で、彼女の巫術が解けたことにより自由の身となった詩雨が縛られて鬱血した手をひらひらと振る。

そのまま器用な手つきで布の結び目をほどくと、ついに目隠しを解いた。

その目が笑っていないのが、心底恐ろしかった。

その瞳が勿忘のことをまるで人間と認識していないことに、ただの血肉を見るような闇の瞳がこちらへ向いているのに、彼女は耐え難い恐怖を抱く。


「な、ぜ……? お前の巫術は、目にあるはずじゃ」

「誰がそんな事を言ったんだ」


吐き捨てるような口調だった。


「君は何もかもが生ぬるすぎたんだ。僕の巫術を本気で見抜きたいのなら、刺客一人で足りると思うかい。きっと十人いても足りないよ。せめて巫覡を用意する必要がある。ああそうだね、一人では不十分かな。しかもその巫覡が決死の思いでかかってこなきゃだめだ。何人かの犠牲は覚悟しなきゃならない。人の巫術を見抜くとはそういうことだ。犠牲を払わずに巫覡を懐柔できると思っているのなら、君は巫覡を舐めすぎてる」


その時勿忘の中で全ての合点がいった。

この男は、勿忘が詩雨の巫術を見抜こうとしていることに初めから気づいていた。

気づいていて、敢えてその術が目にあるように振る舞ったのだ。


「なら、なぜわざわざそんなことをした……?」

「少しばかり君の能力を試したかったのと、君の交渉内容がどれほどのものか聞きたかった。僕は信長に勝ち目があると思っていたけど、もしかしたらそれを超える秘策が聞けたかもしれないでしょ。そうしたら家康についてもいいと思っていた。ま、結局聞き損だったけどね」

「そんなことのために……狂ってる! お前は!」


むごい音を立てて、言葉を続けようとした勿忘の足が破裂した。

立つことも叶わなくなった彼女は抵抗する術もなく頭から地面に倒れ込む。

痛みはすでに熱に変わっていた。


「もし、お前の目を隠した瞬間に私が、お前を殺していたら、どうするつもりだった……?」

「そうなっていれば死んでたかもね。半分は勘、もう半分は賭けだったから」

「ははっ、は、ははっ!」


勿忘は破顔した。全ての絶望感を弾き飛ばすかのように、彼女は笑った。

頭の中に広がるのは無力感ばかりだ。勿忘は初めから負けていた。この男の言う通り、何もかもが甘かったのだ。姉女さまに尽くそうとしながらその実少しの役にも立てなかった。

こんな無様醜態を晒して、姉女様の名声まで落としてしまった。

意図せずしてその瞳から涙がこぼれ落ちる。

もう涙を拭う手は存在しない。

再びこの男に復讐すべく立ち上がる足も、もうどこにもない。

全て液体の様に解けては霧散してしまった。


「仲間のことを話す気はないかい」


非情に告げるその声に、勿忘は必死で首を振った。

無様だろうがどうでも良かった。

どんな風に甚振られようと、これ以上醜態を晒すつもりはない。

月光殲のことも、無論姉女様のことも話すつもりはなかった。

どんな痛みにだって耐えてみせる。

しかし詩雨は勿忘がそう選択することさえ、分かっていたようだった。


「やっぱり僕に拷問は向いてないみたいだ」


彼はもう勿忘に目も向けないで、本殿の扉へ向けて歩き始める。


「熱心なお誘いをありがとう。調略は甘かったけれど、巫術を見抜こうとする心意気だけは素晴らしかったよ」


ああ。

扉が開く。

その声が遠ざかってゆく。

彼の姿が、闇夜に消えてゆく。

勿忘に終わりを告げるように、腕と足を失った身体が燃えるように熱くなって沸騰して、ぶくぶくと膨れていくのを感じる。

ごめんなさい姉女様。

ごめんなさい。

ごめんなさい。

ごめんなさい。

食べる物も寝るところもなく、売人に売られそうになっていた私を救ってくださった姉女様。口数が少なく、いつも素顔を隠しているから本心が分かりづらくて、初めは怖いと思っていた。けれど、あなたは優しかった。

私に生きる術を与えるために、尽力してくださった。

あなたがいるから、生きていてもいいと思えたのです。

生まれてきた理由なんて分からないけれど、あなたがいるならこの命にも価値があったのだと思えた。

だから姉女さま、どうか。

類まれなる巫術を持ち、人から遠く外れた存在でありながら、その心理や行動を読む慧眼を持つ詩雨に、唯一弱点があるとすれば。

誰かを心から愛した者の起こす奇跡のような力を知らなかったことだろう。

勿忘の、かつて腕だったものの集まりから、詩雨を拘束した時と同じ、細い糸が紡がれた。

そこに神経が通っていなくとも、彼女はその強い意志で、わずかな呪力を手繰り寄せたのだ。

その糸は複雑な形により集まって、一枚の呪符を形成した。

勿忘の巫術は決して強いとは言えなかったが、彼女は諜報に関わる特殊な呪術を持っていた。

それは己が巫術を応用する赤雲のものに似ていると言えただろう。

彼女は捕縛に使う糸をより集め、呪符として飛ばすことで、味方に情報を伝えることができたのである。

本来であれば詩雨を味方につけた、と伝えるはずだったその呪符に、彼女は最後の力を使って文字を紡いだ。

月光殲へ向けて。


「詩雨の能力は 耳にあり」と。

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