六 仲間の死
「嶺然どの。結界のご加護に感謝いたしまする。少しばかりお身体をお休みくださいませ」
赤雲はじっと奥座敷に座したまま、結界を張り終えたばかりの嶺然に礼を言う。
「ああ」
嶺然は赤雲の労いに短く言葉を返すと苦しそうに胸を押さえては、半ば倒れ込むように腰を下ろした。
彼の額にはうっすらと汗が滲み、精一杯平静を保とうとはしているもののその息は荒く、顔は尋常でないほどに青白く生気を失っている様子である。
嶺然は羽織を捲ると、凄まじい形相で己が左手首の血管を強く押さえた。
老人ならば少しばかり血管が浮き出ようと、その青紫の色が濃くなっていようと大した問題ではなかっただろう。
しかし嶺然の場合は違っていた。
指先から腕にかけて根を張った太く厚い血管が、彼の皮膚を張り裂くと言わんばかりに飛び出し、その色は毒でも回っているのかと思うほど醜怪な紅桔梗色をしていたのである。
嶺然は体の中に巣食う大蛇でも封じ込めるかのように血管を潰す。
急速の勢いで拍を打つ心臓の荒ぶりが徐々におさまってゆく音は、横に座る赤雲にまではっきりと聞こえるほどであった。
「……面目ない。心苦しいものを見せてしもうた。儂も、焼きが回ったな」
「いいえ、どうかその様なことをお言いになさらないでくださりませ」
嶺然の浮世離れした有り様やその苦しみは、病によるものではない。
では蓮離れのように己の巫術の所為であるかというとそうでもない。
嶺然のこれは全て、彼の巫術によるものではなかった。
彼の体を蝕む正体は、彼がこれまで使ってきた自分自身の呪詛、その代償であったのだ。
巫術は万能ではない。
故に巫術を扱う巫覡も万能ではない。
それは巫覡の持つもう一つの悲惨な運命である。
巫覡の最期は必ず一つと決まっている。
巫覡は呪詛に死ぬのである。
敵に呪い殺されず生き残ることができたとしてもそれは例外ではない。
敵の巫術に殺されることのなかった巫覡は、己の巫術に殺される。
—人を呪わば穴ふたつ—
人を呪えばその呪詛は相手を呪い殺すだけではなく、己が身体にも回っていく。
それは一度で死ぬものではない。
が、呪い殺す人数が多ければ多いほど、かけた呪詛の強ければ強いほどそれはゆっくりと体を侵していく。
花喬影の衆も皆、いずれは嶺然の様な最後を迎える。
嶺然はその痛みと苦しみの辛さを痛いほど分かっているのだ。
それこそが、余命いくばくもない彼が花喬影の栄達を強く望む理由だった。
若い花喬影の衆がいつか普通に生きられるようにと。巫覡としての身の上から解放されるようにと。こんな終わり方をしなくてすむように、と。
「この戦いに勝利すれば、信長様はきっと天下をお取りになられる。そうすれば、お前たちは今よりも良い暮らしができる。いいや、儂が必ずやそうさせるのじゃ」
親に捨てられ、温かい家族も飯もなく、常に飢えに苦しみされどその寂しさを慰むる者は他になく、そうして人を寄り付かせぬ巫術を武器に何とか生き抜いてきた彼らの最期が、こんな呪詛であると誰が望むのだろう。
彼らはただ当たり前を求めているに過ぎない。
それなのに、運命は彼らの死に様すら穢してゆくのだ。
「儂は、良い父親にはなれなんだ」
捨て子を拾い育てた嶺然は、彼らに巫術しか与えられなかった。
彼らに巫覡という修羅の道しか与えてやれなかった。
自分に地位や名誉があれば、この長い人生の中でどれほどそう思ったかしれない。
赤雲は、両目の視力のほとんどを失っていた。
今は微かに人の動きと、明暗を認識できるのみである。
故に彼女は今もこうして穏やかに両目を閉じ、結界の中で仲間の帰りを待っている。
赤雲はその歳の若さに反して、数々の呪殺の任務を請け負ってきた。
はるか遠方から人を呪い殺すことのできる彼女の巫術は暗殺にうってつけであり、尾張国のあらゆるお偉方が、彼女に敵の呪殺を望んだ。
かの信長ですら、赤雲に呪殺を依頼したことがある。
が、その依頼の数が、あまりに早い呪詛の流転を招いたのだ。
巫覡としての依頼をこなすにつれて、その視力は次第に弱くなっていった。
嶺然と同じである。赤雲も、赤雲自身の呪詛に蝕まれていったのだ。
嶺然はゆっくりと首を動かして、縁側へと目を向ける。
そこには一本の大樹が花喬影を守るように力強く佇んでいた。
その枝の先には幾つもの蕾がなっている。
かつて嶺然が植た桜の木であった。
澄川が生まれた日に、その記念樹として植えたものだ。
春が訪れ、この桜がその桃色の美しい花を咲かせる頃、花喬影の衆は皆この縁側に集まっては心ゆくまで未来を語り合った。
呪い事をせずに、平穏に暮らせる未来を夢見たのだ。
この桜が散るまでは、皆そうして儚い夢を見た。その一時だけ、彼らは彼らが巫覡たることを忘れられた。
だが、いつかはその時が来る。
いつか赤雲は春の泡沫の中、桜を見ている間ですらも巫覡としての運命を忘れられなくなる。失われてゆく彼女の視力が、彼女に巫覡という身の上を嫌でも思い起こさせるから。
桜の花弁に触れることはできようと、必ずその桃色の花がいっぱいに咲き誇る姿すら見られなくなる。その日はきっとやってきてしまうのだ。
それを思うと、嶺然はいつも息が詰まるような心地になる。
けれど赤雲はひだまりの様な、柔らかに包み込むような声で言った。
それは嶺然に、春の訪れの中、桜の花びらがひらひらと舞い落ちる様を思い起こさせた。
それほど、彼女の声は優しいものだったのだ。
「私はしかと心得ておりまする。皆が異を唱えると知っていても尚、嶺然どのが詩雨という巫覡を雇われた所以。あなたは危険を冒してでも我らに確実なる勝利を与えようとしてくださった。それを親心と言わずして、他に何と申せば良いのでしょう」
人に疎まれ、憎まれ、傷つけられてきたはずの彼女は、人を憎んではいなかった。
巫覡という身の上のせいで、すでに体を蝕まれているのにも関わらず、である。
赤雲は今ある生を精一杯生きようと心に決めており、そう思えるのは嶺然のおかげであったと自信を持って言うことができた。
「ありがとう。赤雲や」
嶺然はそんな彼女を見て、穏やかに口角を上げる。
「皆の様子を確認してまいります」
彼女はそんな嶺然に笑いかけると立ち上がり、部屋の隅に置かれた小机に向かう。
そこには濡れ羽色の織物が敷かれており、さらにその上に、二、三本ばかり束ねられた色の異なる髪が四束並べられていた。
赤雲は丁寧な手つきでそのひと束ひと束に触れていき、命の音を聞くように耳を寄せる。
そして最後のひと束に触れた時、彼女は息を呑んだ。
彼女の目から、涙が一筋こぼれ落ちてゆく。
その異様な雰囲気を察し、すぐに嶺然が声をかけた。
「赤雲、何があった」
「嶺然どの……! 嶺然どの……!」
感情を乱すことのなかった赤雲がまるで幼子のように声をしゃくりあげる。
「黒鷹が、亡くなり申した」
嶺然は赤雲の肩に触れる。その様子から、どんな言葉が出てくるかは察しがついていた。
赤雲は遠方の敵を呪い殺す巫術を応用して、髪に触れるだけで味方の安否を知ることができる。
その巫術の正確性を、嶺然は知っている。
だが実際に耳にすると、それは想像の何倍も受け入れ難く、辛いものだった。
赤雲も、嶺然も言葉を発しない。
どんなに嶺然が、彼らの自由を望んでも。
巫覡が地位を得るためには、巫覡自身が身を挺す必要がある。
嶺然ひとりではその運命を変えることはできない。
その矛盾は、いつまでも嶺然の心を痛めるのだった。




