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四 月光殱

三河一国の隠された奥座敷。そこに、したたかな笑みを浮かべる二人の男女がいた。

日も落ちていないのに全ての襖が閉め切られ、ただ一筋の陽光も差さない真っ暗の部屋に行燈ひとつがぼうと灯っているのは極めて奇怪である。

行燈の光は朧げな明滅と共に二人の異様な面を照らす。

二人は、ただ向かい合って座していた。

男の方は、漆黒の束帯を身につけており、男の相当に高貴な身分を思わせる。対して女の方は戸外でもないのに笠を被っており、その全身は奇妙な垂れ衣によって覆われていた。


「して家康どの。なにゆえ吾を御呼び為された」


女の声は低く感情を読むことが難しい。然して聴く者の精神を歪ませるような、身の毛もよだつような声をしていた。

家康と呼ばれたその男、三河一国の主はそんな女の並々ならぬ風情に圧倒されることなく、悠然と笑って見せる。


「如何様な件であると思う姉女あねめよ。ぬしはすでに知っているのではないか?」

「戯れを」


姉女と呼ばれた女は一蹴して見せる。が、次に発されたその声はさらに低く、どんな闇夜よりも濃い暗鬱な霊妙な雰囲気を醸し出していた。


「呪殺を命じたいのであろう? けれど常のものとはわずかばかり異なるようじゃ」

「はっはっ! いかにも。さすがは月光殲の主よ。そう。儂は再び呪殺を願いたい。然して、依頼するのは主だけに非ず」

「月光殲の巫覡皆の手が必要、と」

「然り」


家康が厳かに差し出した巻物を、姉女は死人のように細い手で受け取ると粛々と広げていく。


「第六天魔王 信長、と。悪魔の名を使うはいかにもうつけ者の道化」


そこには信長擁する花喬影の巫覡たちと、家康擁する月光殲の巫覡を戦わせるとの信長らしい荒唐無稽な布告が記されていた。


「愚か者も、ここまで来れば笑い物じゃ!」


しかし家康は、そんな信長の布告など意にも介さず、闇の中で彼を嘲笑した。


「我が国が蝶国と手を組んだことなどつゆ知らず、己が巫覡を危険に晒そうとは。さしずめ合戦前に我が国の兵力を弱めようと企んだろうが笑止! 月光殲には勝てぬ。そうじゃな姉女よ」

「ああ」


家康は信長の様をさもあわれとばかりに笑う。

家康からすれば当然のことだ。

これほど愉しい甚振りが他にあるだろうか。

家康は手元の酒をぐびぐびと飲み干してしまう。


「兵を損なわずして信長の巫覡を殺せるなど、千載一遇の好機じゃ。信長の兵が強いばかりに蝶国と手を組んだが、これであればそんな協定など要らなかったかもしれぬなあ!」


彼は昇天してしまうかと思われるほど悦びに浸っていた。

巫覡のみが戦う。それすなわち、一切の兵力を損なわずに済むということ。相見えるのはあくまで巫覡。これであれば蝶国との協定に何の支障もきたさない。

それに、月光殲は他の巫覡になど負けぬのだ。

家康は、姉女率いる月光殲の巫覡たちに絶大な信頼を置いていた。しかしそれは家康だけではない。あらゆる武将が月光殲の力を認め、恐れ慄いた。

うつけ者信長は、まさに負け戦に負け戦を重ねようとしていたのである。

信長は乱鷹の合戦で負け、巫覡の乱でも敗北を喫す。

家康の弛んだ口元からは異様かつ不気味な笑声が漏れている。

然して向かい合う姉女も、家康と同じ所存であった。

花喬影を呪い、信長を呪う己の姿を夢想し、姉女は舌なめずりをする。絶望に悶え苦しむその様は、一体どれだけ美しいだろう、と。


「月光殲の主として、しかと受けてくれるな?」

「無論」


彼女は笠の下で、ヌッと歯を見せて笑った。

女は太陽の光を拒絶する陰湿な部屋に閉じこもることを至極好み、日を跨がず呪詛の依頼を引き受けては病的なまでに呪殺に明け暮れる三河一国擁する巫覡の衆、月光殱が頭領である。

誰よりも呪殺を好む姉女に、断る理由などどこにあろう。

ここに、尾張国と三河一国の巫覡の戦いが締結されたのである。



逢魔時、花喬影の衆が出立したのと同じ刻。

嵐の町に尋常ならぬ雰囲気を纏って姿を現した者がいた。

ひとり、ふたり、数にして五人である。

これらを果たして人と評して良いものか。彼らは闇夜から溶け出た妖のようであった。

垂れ衣で全身を隠す者、甕を抱き抱えては子を愛するかのように頬擦りする者、人の世にいながら、人に成りきれぬ日陰者たちである。

怪しげな笑みを讃えて賑やかしい町を眺めている様子などは、まるで人を喰う鬼のような情調を漂わせている。

笠を被り虫の垂れ衣で全身を覆った女、姉女がぬっと歯を見せて引き笑いをした。

女の目や鼻などは笠に隠れてついぞ見えぬ。加えて垂れ衣から覗いた足などは異様なまでに青白く枝のように細い。


「信長の巫覡との戦い、心臆する者はいるかえ」


頭領の言葉に皆猟奇的なまでに狂った笑みを浮かべた。

一本に編んだ漆黒の髪を腰まで垂らした男が、鮮血に祝福を受けた真紅の瞳をかっと見開き、起伏に乏しい声調で返す。


「お戯れを。姉女様はお答えを存じ上げていらっしゃる癖に」

「月光殱の誰がこの争いを拒みましょう」


その場にいる者の平衡感覚を歪ませる妖花のような声でそれに同調した女は、男の体に身を寄せる。

女は蛇のように瞳を細めた。

その目には男と同じ朱の彩色が施されている。

この二人が漂わせる雰囲気は月光殲が巫覡の同胞という垣根をとうに超え、しかしそれは恋人に非ず。それもそのはず二人は同じ貧民窟の出、紛うことなく血を分けた兄妹であった。


「しかし面倒な事だ! 日陰で人を呪い殺す我らがかような戸外に赴き、果ては敵が巫覡と戦わねばならぬとは! ああ面倒! 面倒この上ない!」


陰湿な巫覡の性に合わぬ淡藤色の袴を身につけた男が、大袈裟に両手を振り上げては稀有な白茶の髪を掻きむしる。

赤目の女が、口元に手をやってはその男を揶揄った。


「蓮離れ(はすばなれ)、滑稽な嘘を吐きなさらないで下さい」

「蓮離れの饒舌さもついに極みまで至ったな。差し詰め、早く呪いたくて仕方ないのだろう」


赤目の男が苦笑しつつ男を小突くと、蓮離れと呼ばれた白茶の男は腕を捲る。

その腕には目を疑いたくなるほど悍ましい入れ墨が所狭しと刻まれていた。


「ああ、分かるかい。この腕やら足やらはもう、敵が巫覡を呪い殺したいとうずうずしておるわ」


男は、心底面白いというように歯を見せては声をあげて笑う。

するとそれまで黙って甕に頬擦りしていた少年がうっとりと溶けるような表情で口にした。


「なんでも花喬影の長は詩雨を雇ったらしい。向こうも本気って事だね。本気で三河一国を堕としたいんだ。ふふ、この戦いは天下統一の礎になるんだよ」

「なに! あの流浪人をか? 一体いくらで落としたって言うんだ」

「さすがに、そんなことまでは分からないよ」

「蓮離れ。ふざけたことを言って気を緩めるのはやめてください」


蓮離れを叱りつけたのは、髪を結え凛とした佇まいの女である。


「私たちが余計なことを考える必要はありません。私たちはただ姉女さまに尽くし、姉女様の勝利に貢献することだけを考えれば良い」


女は姉女に畏敬の念を込めた熱い眼差しを送る。

その目は恍惚の色に染まり、女が姉女のことを神にも等しい存在と認めているのは明らかだった。


「はっ! けったいなことだ! 無論俺も姉女さまに戦果を差し上げるつもりだ。だが、お前に言われることではないな勿忘わすれな? 俺にそこまで言うのなら、お前にも相当の奇策があると見える。なあ?そうであろう?」


試すようにせせら笑って見せる蓮離れに、勿忘と呼ばれた女はすぐに言葉を返そうとする。しかし蓮離れがそう言った直後、姉女はそんな血に飢えた獣達には目を向けぬまま微かに息を吐き、ついに物恐ろしい命を下した。


「下手を打てば吾が呪い殺す」


その言葉を合図として心得るは流石巫蠱に生きる巫覡達と言うべきか。

兄妹の二人を除き、家康の保有する月光殲らは自ずから散り散りになっていった。

命を賭すことを憂う者も、未だ佇んだままの頭領、県狗飼姉女あがたいぬかいのあねめを振り返る者もいない。

家族の様な結びつきを持つ花喬影に反し、こちらは言わば一匹狼の集まりであり、巫覡の戦い方如何に関係なく、彼らははなから協力事など望んでいなかった。

俗世を離れ、闇に生き、至極孤高を好む彼らは敵を呪殺するに留まらずあろう事か一人で花喬影全員を葬ろうとまで考えており、誰よりも手柄を立て己の地位上げを図るという強かな野望を志として生きていた。

こうして信長の花喬影、家康の月光殲、二国の巫覡が揃った。

信長が天下の座につけるか否かを決める巫覡の乱が、未だ人で溢れる逢魔時の嵐町でひっそりと開戦したのである。

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