三 花喬影
「よくぞ集まってくれた」
花喬影の隠された奥座敷で、嶺然が口を開く。
彼は呪詛繁栄という並の武家屋敷では到底飾らぬ掛け軸を背に、自身の侍従を一様に見やった。
奥座敷には嶺然と詩雨の他に四人おり、皆一様に歳若く見える。
例えば朱やら山吹やらの布で織られた鞠をつくのは齢六つとも満たぬような幼子であるし、腰まで伸びた艶やかな黒髪を垂らして淑やかに両目を閉じる女は十五ばかりの乙女に見える。
彼らこそがまさに花喬影に席を置く巫覡であった。
主君の命を受けてあらゆる呪殺をこなし、時には戦況を占い、裏から謀に干渉する。
下賎な身分に反し武将の精鋭でさえその姿を拝めるのは数えるほどで、実の所その身分の低さは、嶺然がそうした捨て子を集めた事に由来するのだが、彼がそうしなければならなかった所以は、巫覡の悲しき背景に在った。
この時代、自ら望んで巫覡になる者などいなかったのである。
いつの世も、人を呪う訳など高が知れている。
どれだけ武将から重宝されようと、巫覡となればただでさえ陰湿な呪術を扱う上、他者から忌避され憎まれる。嫉妬、憎悪、殺意、どれを取り上げても碌な感情ではない。
故に命を狙われる巫覡も少なくなかったのだ。それでも巫術を磨く者が在るのは何故か。
なぜ彼らは巫覡であり続けるのか。
それは一重に、彼らにはそれしか生きる術がなかったからである。
「逢魔時に敵が巫覡を呪い殺す、か。流石は信長どの。巫覡を利用し敵の注意を逸らすとは、これはまた酔狂な案を考えなさる」
人知れず闇夜を滑空する鴉の如く落ち着き払った声で嶺然を見やるは、花喬影の衆にして他の者とは異なる禊祓の術を持つ澄川だ。
有体に言えば澄川は花喬影の一員でありながら、巫覡ではない。
その精悍な顔つきは、今し方花喬影を集める頭領嶺然に通ずる所がある。
詰まるところ、澄川は嶺然の長子であった。
彼の中には巫蠱の術を使う才などは一切なかったが、それを帳消しにできるほど有用な祓いごとができたのである。
「ああ。然れども信長公は我らに褒美を与うる所存である。勝利を捧げれば、必ずや巫覡の位も上るじゃろう。その上これは天下分け目の戦い、乱鷹の戦の命運を握る重要な戦いじゃ。その褒章は、おそらく並のものに非ず。お前たちが日の目を見れる時がようやくやってくる。これは逃し難い好機なのだ」
嶺然は勤めて厳かな面をしているが、その顔にはうっすらと万感胸に迫る彼の歓喜の情が発露していた。
彼は常々、巫覡の栄達を夢見ていた。巫覡の活躍が正当に認められる日を、何年も何年も待ち続けた。
そんな彼にしてみれば花喬影の巫覡たちが、尾張国の命運を握る戦を一任されることは、それはもう千載一遇の機会であったのである。
「嶺然どのはそうお言いなさるが、差し詰め戦に勝とうとも、信長公の勝利に貢献するのみ。 捨て子に与うる褒章なんて高が知れているからな。ああ口惜しきこと限りなし! 俺たちはいつ何時もそんな星回りだ!」
柳緑の浴衣を纏う黒鷹と呼ばれたその巫覡は、大きく開いた襟元から小麦色の肌を覗かせ面白くないとばかりに胡座をかいた。
捨て子ゆえ実際のところは分からぬが、その歳は十三ほどであろうと言われている。
「そのような物言いをするでない黒鷹。また適当事を言っておるのであろう?」
子供をあやすように黒鷹を嗜めるのは赤雲だ。
赤雲は赤い着物が華やかなのに負けぬ壮麗さを持ち、人々の目をあっと奪うような顔をしている。
その立ち振舞いは手本のようで、しかし赤雲は彼女の着物の裾を握りながら純然なる問いをかける幼子名籠め(なごめ)に見つめられ、何も言えなくなった。
「姉様。そのほうしょうというのを頂戴したら、私たちはもう巫覡をせずとも良くなりまするか?」
幼子は口にするのを憚るように瞳を伏せながらも、消え入りそうなほど微かな声で言った。
「私たちは、自由になれるのですか」
「それは……」
赤雲は口ごもる。
名籠めは幼少の頃より卓越した巫覡の才を持った娘である。
故に、尋常の子のように遊ぶことも叶わぬ不憫な童であった。
花喬影の者ならば他の童が陽気に戯れ遊ぶのに羨望の眼差しを向ける名籠めの姿を知る。
それを知っている彼らに、どうして軽々しい慰めがかけられよう。
赤雲は慈しむような手つきで名籠めの頭を撫でた。
血は繋がっておらずとも赤雲にとって名籠めは妹のように愛しい存在であり、名籠めもまた赤雲のことを姉様と呼んで慕っていた。
「名籠め」
普通を願う名籠めの純朴な望みを、彼女は痛いほど理解できる。かつては彼女自身もそうであったからだ。
だが、今となってはそんな風に思うことも少なくなったと彼女はわずかに目を伏せる。巫覡という身の上に、人を呪い殺すというその痛みに、慣れてしまったのかもしれない。
まだ幼い名籠めには、自分のようになってほしくなかった。
この戦に勝てば夢にまで見た夢を実現することができるのだろうか。自由になれるのだろうか。そうであるとしたら、それはとても素晴らしいことのように思える。
名籠めが、普通の子のように生きられるのなら。
けれど赤雲は知っているのだ。自由を手にすることの難しさを。
たとえこの戦に勝利しようとも、褒賞を貰おうとも、巫覡という身の上から解放されるわけではない。本当の自由を手にするまで、きっとさらなる時間を要する。
そして何より赤雲の心を痛めるのは、巫覡と巫覡が相見えるということ、その重さ。
巫覡の求める普通の幸せは、血の流れる呪いの戦いを制さなくては得られない。
もし、この戦で命を落として仕舞えば。
たとえ、夢見草の盟約を交わしたとしても。
「名籠め。あまりそのような言い方をしては嶺然どのを困らせてしまう。嶺然どのは我らのような棄児を拾ってくださったのだから」
だから彼女はその身を思い切り抱きしめてやりたいのを堪えて、名籠めをたしなめた。
「……そうでござりました。お許しください、嶺然どの」
「……良いのだ、名籠めよ」
花喬影が奥座敷に如何ともし難い憂いに満ちた空気が流れた途端、一同の会話を観察するように閉口していた詩雨が嘲笑した。
一同は、座敷の隅で漆喰の壁に背を預ける彼に一斉に目を向ける。
「巫覡で在ることを不憫に思うなんて、やっぱり雇われ者とは反りが合わないな。僕は巫術を愛しているよ。これほど咎められない殺しは他にない。信長も認めた戦となれば人前でだって堂々と殺しができる。それよりも、それほど悠長なのには理由があるのかい。逢魔時までそんなに時間がないけど」
先刻嶺然から個人で巫覡をやっているとの引き合わせがあったが、あまり多くを語らないことや、雲を掴むように飄々としたその態度に、皆この男のことを訝しんでいた。
詩雨の言葉に真っ先に噛みついたのは黒鷹だ。彼は喧嘩でも吹っ掛けるかのように詩雨を睨みつける。
「俺はあんたを怪しいと思ってる。聞けば金だけで雇われた男というじゃないか。そんな奴なんざすぐ裏切るに決まってる。あんた、三河一国の回し者じゃないだろうな」
「誓って違うよ。僕が個人で巫覡をやっているのは、どこの組織にも足をつけないためだから」
「その言い回しでは裏切る可能性が十分にある、という事を暗示しているように思われるが」
片目を閉じたまま冷静に言ってのけたのは澄川だ。
「君たちが僕を疑うのは分かる。でもね、ひとつ言わせてもらうならそれは僕も同じなんだ。僕も君たちのことを信用していない。金で繋がった一時的な結託だしね、それに考えてもご覧。君達は固い絆で結ばれた仲間を持つが、僕にはいない。もしも君たち全員で襲いかかって来たら? そうなれば、いくら僕でもひとたまりもないよ」
「では、あなたは如何様な巫術を扱うのでござりますか」
澄んだ声色で問うたのは赤雲だ。彼女の問いかけに詩雨は肩を竦めてみせた。
「手の内は明かせない約束だ」
詩雨はちらと嶺然を見、嶺然は無言のままで頷く。それを見た一同は浅く息をついた。
「抜かせ。そんな奴がよく殺されるなどと言ったもんだ」
「そんなに警戒しなくていいよ。金は僕の全てなんだ。僕は義理堅いから、ちゃんと金に見合った働きをするつもり」
再び沈黙が流れた後、喉を唸らせて嶺然が口を開いた。
「詩雨の所見は正しい。開戦の刻が迫っておる。故に簡潔に戦法を述べるぞ。儂はこの地に結界を張る。赤雲はここに残れ。黒鷹、澄川、名籠め、詩雨は開戦と共に敵を討ちに行くのじゃ。決して伴って行動するな」
「御意」
衆を形成する花喬影に、伴って行動する事を禁ずる嶺然の指示は一見奇怪に映ったろうが、巫覡ならばそれに反論する者はいなかった。
巫術を扱う巫覡は武士にあらず。
剣を用いる侍や武士ならばどんな優秀な剣士とも数で抑え切る事ができる。
が、巫覡は呪詛を扱うのだ。
相手の身体に接触して呪詛を掛ける者もいれば、遠方から呪い殺す者もいる。
故に巫覡に複数人で立ち向かうは愚策中の愚策とされていた。相手の手の内すら分からぬまに、一人残らず呪殺されてしまう可能性があったからである。
一人が殺せずとももう一人が殺せ。
詰まるところ嶺然が伝えたのはそういうことで、巫覡たちもその意味は重々承知していた。
巫覡の命は安い。
だが、命を賭してゆかねば生きてゆくことなどできない。
巫覡の悲しき性である。
「敵が討てずとも、目や髪でも良い。身体の一部を持ち帰ることを忘れるな」
「御意」
次いで嶺然が述べた忠告に、詩雨はへえ、と顎に手をやると物珍しそうに赤雲を見た。
「なるほど、花喬影は類感呪術に優れているとは聞いていたが、君の能力はまさにその王道をいくものだ。そうだね。もし相手の指が手元にあれば、君はどれくらいまで呪殺できるんだい」
赤雲は当惑したように眉を歪ませたが、自分の能力が大方推察されているのに気づいて、澄ましたように居住まいを正してはつんと鼻を上に向けた。
類感呪術、すなわち遠方から間接的にかける呪いのことである。赤雲はこの類感呪術に滅法強かった。手元に相手の肉体の一部さえあれば、どんなに離れていても一息に呪い殺すことができたのである。
「千里まで。殺すことは不可能ですが、髪であっても構いませぬ。相当な痛手を負わせることは可能でござりますゆえ。その際はこの屋敷まで」
「多分会ったら呪い殺しちゃうだろうけど、分かった。留意しておくよ」
そうわざとらしく詩雨が返答した時。時の鐘が鳴った。
時の鐘、安土城の和時計に合わせて奉行が鐘を鳴らしたのである。
鐘は六度鳴った。六つの鐘は暮れどきを告げる。
すなわち、逢魔時がやってきたのである。
奥座敷で、花喬影は皆一様に覚悟を決めていた。
ある者は所在なげに頭をかき、ある者はじっと目を閉じ、ある者は鞠をついたまま。
ある者は、狂気的な笑みを携えて。
「征け!」
嶺然の鬼気迫る合図と共に、まず黒鷹と澄川が駆け足で屋敷を出、次いで詩雨がゆったりとした足取りで奥座敷から離れていく。
最後に名籠めが赤雲と抱擁を交わした後、一冊の帳を携えて出立した。