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二 詩雨

尾張国の誇る最大の町牢屋敷。

巨大な岩で組み上げられた不動の堅牢で、三人の牢屋奉行が、一人の罪人を取り囲んでいた。


「さあ、どんな風に痛めつけてやろうかい」


一人の奉行が舌なめずりをする。


「板叩きはどうだい」

「いいや股を裂いてやろう」

「それでは彼奴が死んでしまうぞ」

「はっ、戯言を言うな。ここは町牢屋敷だぞ。あっしらが殺しても誰も文句など言わんのさぁ」

「むしろ、殺してやる方が面白い。そうだろう?」

「違いない!」


奉行たちの愉しげな笑い声が響く。

ただの道楽で人を殺してしまうなど、常人には信じられぬことであったろう。

しかしここ、尾張の町牢屋敷では何ら珍しいことではなかった。

町牢屋敷と言えば、罪人同士で徒党を組み、新人に対しては目も当てられぬような暴力を働く大変恐ろしい場所である。

しかし恐ろしいのはそれだけでない。

罪人の管理をせねばならぬ牢屋奉行などは、日々の憂さ晴らしとして、罪人への折檻を繰り返していたのである。

それも命あればこれ幸い、むごたらしい折檻によって命を落とす者も少なくなかった。処刑で死ぬ罪人よりも、奉行や罪人による折檻で死ぬ者の方が多かったというほどなのだから当然のことである。

しかし。

そんな現状を知ってか知らずか、渦中の罪人は奉行たちの会話にも微動だにしなかった。それどころか飄々と口笛を吹いて、その顔には満面の笑みまでたたえている。

弛んだ濃藍の小袖を装うその姿は一見少しばかり長身の至って普通の男だが、癖のある濡れ羽色の髪を結いもせずそのままにしている様子などはまるで尋常とは言えぬ風情である。


「おめえ、馬鹿にしてるんじゃねえだろうな!」


そんな罪人の様子を見て、一人の奉行が牢の鉄柵を蹴り上げた。


「あっしは虚言を吹いてるんじゃねえ! おめえを痛めつけるも殺すもあっしの自由! 決めたぞ! おめえを散々痛めつけた上で殺してやる」

「あぁあ、ただの折檻で終わったかもしれねぇのになあ」


怒り狂う奉行の横で、もう一人の奉行が罪人をせせら笑った。


「強がっちまったのが運の尽きさぁ」


小柄な奉行がそれに同調する。ここでは奉行がすべて。奉行の気に少しでも触れば折檻を受ける。奉行を怒らせればもう、命はない。

罪人の命運は決まったのだ。


「全身が青くなるまで叩いてやらあ!」


先刻鉄柵を蹴り上げた頑強な奉行が、平たく長い板を叩いてみせる。

したたかで卑しい笑みを浮かべながら奉行が罪人の牢に入ろうとした、その時であった。

奉行の手から、板がこぼれ落ちた。


「ぁ?」


奉行自身も、何が起きたのか分からないようだった。

しかし素っ頓狂なその声が直後、絶叫へと変わる。


「ああぁぁあぁぁああああ!」


見れば奉行の袖から覗く腕や脚やらの血管がみるみるうちに膨れ上がっていくではないか。

必死に抵抗しようとするが、そうして動かそうとした手足がもはや存在しないことに気づき奉行はさらに絶叫する。しかしそれも束の間。その頭まで一気に飲み込まれていったかと思うと、ぼこぼこと隆起した塊と化したそれは、すさまじい音を立てながら一気に四散した。

かつて奉行であったものの残骸、そのぐちゃぐちゃとした液体を顔に浴びながら、後に残された二人の奉行は自分でも抑えが効かないくらいに激しく震え出す。

声を出すことも、逃げることもできなかった。

二人はただじっと棒立ちになったまま、これはこの罪人がしたことなのか、はたまた九尾の狐やら妖やらがやったことなのかと呆けた面で考えるのみである。


「二日前くらいかな、依頼を受けてお偉方を呪い殺したんだ。そしたら向こう方に殺人だって罪をでっち上げられちゃってね。巫術で呪い殺したってんなら罪もないんだが、刀やら何やらと証拠が揃えられちゃ仕方ない。流浪の巫覡ってのも面倒なものだよね」


然して詩雨は怪異の如き陰惨な笑みを伴ったまま鉄柵に背を預けた。


「あれ、まさか君。あの奉行が死んだのは妖の仕業だなんて、ばかげた夢想を抱いてはいないよね」


罪人は柵の奥からずいっと顔を近づけてくる。

それはもう、二人が見た中で最も恐ろしい人相であった。

彼らは罪人の顔に、まるで人を喰らう悪鬼のような人相が這い上がってくるのを見た。


「巫覡、巫覡と言ったか……?」

「あ、あっしは噂でしか聞いたことがねえ。そんなのが、現実にいるってのかぃ……?」


彼らは幽霊や妖などまったく信じていない質だった。ましてや呪い事を操る巫覡などもってのほかである。が、これが妖の仕業でないとしたら。全て、この男の為した事だとしたら。

男が巫覡であること以外に、どうやって説明がつくだろうか。


「さっき見たでしょ? それが答えさ」


罪人は淡々と答えて見せる。


「悲しいかなこんなことしょっちゅうだ。巫覡を続けてれば数回はこういうのに当たる。さっさと逃げてしまえばそれで済むんだけど、ただ尻尾巻いて逃げるってのもなんだかみっともないだろう? だからちょっとばかし、牢で暴れてやるのも良いと思ってさ」


男を常人だと思ったのが、すべての間違いであった。

彼らはこの罪人に干渉することなく、淡々と奉行の仕事をしていればよかったのだ。憂さ晴らしなど他で済ませるべきだった。

何を持ってしても、この男に関わってはならなかったのだ。

この男は、常人に非ず。

この男は、一撃必殺の呪いで確実に相手を仕留める流浪の巫覡。

歴とした呪詛の使い手であった。

そんな彼の巫術を持ってすれば追っ手など一人残らず絶命できただろうにそうしなかったのは、詰まるところこの男は単なる快楽を求めるために町牢屋敷へ入ったのだ。

常人からすれば狂気の沙汰ではないが、もはや遊郭や酒楼などでは彼の欲を満たせまい。


「あ、あっしの声が証文になる……! お前様が人殺しをしたと、お頭に言いさえすれば!」

「そうとも! ま、それは殺人に限った話だけどね。君たちはこの国の主、信長が巫覡を黙認してるのは知らないのかな? この国ではさ、刀や銃を使った殺しならともかく巫術を用いた殺しっていうのは立件されないんだ。多分どこの国も同じようなものだよ。何でか分かるかい? 証拠がないからだよ」


ややっ、と声が漏れる前に、二人の奉行は声を出すことが不能となった。

何やら喉が熱く焼け爛れるような心地がして必死に掻きむしろうとした所で、彼らはそれをするはずの手の先がどろどろと溶けていくのに気づく。見れば手も足も、先刻死んでいった奉行と同じように、腐乱死体のような色をしているではないか。

彼らの命もすでに、巫覡たる詩雨の手中にあったのだ。


「ああ! いやだぁ! やめてくれぇ!」


彼らは情けない声で命乞う。しかしそんな抵抗虚しくその口や頭が認識できぬほどに膨れ、爆散する。

彼らもあっという間に、その命を散らしていった。

もはや誰一人の声も聞こえなくなったその牢の中で、罪人は退屈そうにそれを見やる。

彼はべちゃべちゃと地面に這いつくばる残骸のまだ少し形が残っているところを踏んで、今し方奉行であったものの中から錆びた鉄鍵を取り出した。

それをくるくると風車のように回しては、器用にも内から牢獄の扉を開けてしまう。

晴れて自由の身となった彼はまた口笛を吹いて、颯爽と町牢屋敷の敷居をまたぐと、町へ出て行こうとする。


「いやはや、稀代の巫覡が町牢屋敷に囚われの身であるとは驚いた」


しかし罪人はそこで足を止めた。

無理もない。彼は脱獄への行手を一人の老人に立ち塞がれたのである。

短く結った灰褐の髪には白が混じり、その精悍な顔つきは老人の並々ならぬ風格を窺わせる。

が、彼は気づかぬのか気にかけぬのか、飄々とせせら笑った。


「僕のことをそんな風に呼んだのは君が初めてだ」

「それは不躾なうつけ者がいたと見える。先の小牧・長久手の戦いにも、貴殿が一枚噛んでいると耳に入れたが」

「へえ。これはなかなかの古強者と見た。それに、君は巫覡だね。察するに尾張直属の巫覡か何かかな。それも幾人かを取りまとめる、うん。下に見て次席か、いいや頭領だね」


老人、嶺然の身の上を即座に暴いて見せるこの卓越した洞察も、巫覡たる男の巫術であったか。否である。

この男―流浪の巫覡「詩雨」の厄介なのは、誰も絡繰を見破れぬ巫術を扱う上に、千里眼とも評するべき慧眼の持ち主だという所であった。


「牢から出る助けをしようと思うたが、どうやら下手に憂慮する必要はなかったようじゃな」


嶺然は詩雨の小袖やら雪駄やらに真新しい血飛沫が飛んでいるのを見て、小さく含み笑った。


「そんなもの不要だよ。僕が牢に入ったのは単なる遊びさ。少しばかり絶望の顔に飢えていてね。それで、何の用だい。ここまで僕の足を止めたからには、よっぽどの儲け話でもしてくれないと割に合わないけど」

「失敬。先に用を申し伝えるべきであったな」


嶺然は隙のない所作で詩雨の前に跪く。


「我が名は嶺然。貴殿に依頼を申し入れたく参った」

「ふうん」


が、詩雨は別段驚くでもなく袂に腕を組むと、病的なまでに白い肌にうっすらと面妖な笑みを浮かべた。


「で、いくら支払ってくれるんだい? 言っておくけど僕の依頼料は少し高いよ。何せ雇われの身じゃないからね。生きることに少しばかり難儀するんだ」


そこで嶺然は、ふっと含み笑った。その言葉を待っていたとばかりに。


「心得て候。此度の依頼、必ずや貴殿の満足に足るものと存ずる」


嶺然は厳かな所作で詩雨に紫黒の巾着を手渡した。

その膨らんだ様子から中に在る金子の額が尋常でないのは容易に察することができる。

詩雨はそれを受け取ってちらと中を覗き見ると、堪えきれぬとばかりに、にっと口角を吊り上げた。

常に金を求めている詩雨だったが、近頃の彼はいつも以上に金を必要としていた。

いつもの良からぬ癖で、先の依頼で得た金をすぐさま使い果たしてしまったのである。


「これは羽ぶりが良い。さすが傾奇者の主だな」


嶺然は、己が背後に在るのが信長であることを意図も容易く見破る詩雨に内心驚きさえすれど、そんな様子はおくびにも出さず言葉を続けた。


「信長どのが天下を取るため、貴殿には我が花喬影の巫覡と共に、嵐の町にて三河一国の巫覡『月光殲』と相対してもらう」

「いいよ」


そういった詩雨の目は、途端狐のように妖しく細められた。

その様は、さながら血に飢える獣のよう。彼はその笑みを絶やさぬまま、言葉を続けた。


「けど一つだけ約束事がある」

「何なりと申せ」

「僕の巫覡の絡繰はただの誰にも明かさない。例え君の率いる花喬影の巫覡であってもね。一人で呪い屋をやってる僕にとって、秘伝の術が漏れるのが一番困るんだ。術を話しておいて勝手に死なれちゃ、相手方に事が漏れてしまうだろう? そうなっては厄介だから」


嶺然は花喬影の巫覡を卑下するように言ってのける彼の弁舌が故意であるのを見抜いて、何とも形容し難い怒りの念を抱いた。

が、彼の立ててきた功績を思い返しすんでの所で耐え忍ぶ。


「心得た」


対して詩雨の方は、そんな嶺然の様子などついぞ気にせぬ様子で口笛を吹く。

彼は袂に巾着をしまいながら、その身体が震えるのを感じていた。

無論恐怖から来るのではない。

彼はこの依頼に、待ち受ける殺し合いに心底悦びを感じていた。

彼は血湧き肉躍る凄惨な依頼を、滅法好むのである。

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