一 信長
「巫覡の乱を起こすのじゃ!」
尾張の中心にて。
天を頂く安土城の座敷で織田信長が発したその命に、大名や大夫は戦慄した。
彼らはそれが、信長の吐いた戯言ではないかと一縷の望みを抱いたが、尾張の大事を前にしてかの将軍が虚言を吹くはずがないと、十分に理解していた。
故に彼らの腕は小刻みに震え、頭を垂れた額からは一筋の汗が流れている。
誰もが考えていたのだ。
国の天命を、巫覡に任せるなど正気の沙汰ではない、と。
家臣がそう思うのも無理はなかっただろう。
尾張国はかつて経験したことがないほどの大事を抱えていたのである。
うつけ者と呼ばれながら天賦の才を持つ大将軍織田信長の率いる大国は、数々の戦場を乗り越え天下統一に最も近い位置にいた。
三河一国、蝶国、尾張国。
来たる乱鷹の合戦にて三国がぶつかり、ようやく天下一が決まろうという所で、三河一国に潜伏していた間者から衝撃の一報が入ったのだ。
三国で争うはずの乱鷹の合戦にて、三河一国と蝶国が共に手を組み、尾張国を倒すことを画策していると。
尾張国は強大だ。
だが、二国に攻められては勝機がない。
ではどうするか。いいや臣下の誰に戦況をひっくり返す妙案を提示できよう。
彼らの頭に浮かぶのは凡庸な案ばかり、これを言っては殺される。
ふと思いついた風変わりな奇策を進言して見せようか、否。それも殺される。
では黙っているが得策かというと、うつけ者の信長に限ってそれが最も悪手であることは万人の知るところ。いよいよ打つ手がなくなったと、そうしてえも言えぬ沈黙が流れた後、遂に信長自身が声を上げたのである。
呪詛を操る信長お抱えの巫覡たちに、三河一国の巫覡「月光殲」と鋒を交えろと。
「巫覡に任せるなど、正気でございますか」
一人の大名が声をあげた。勇気があるのだかないのだか、この場においては実に愚かな蛮勇であったと言って良いだろう。
紺青の羽織を纏う様子はこれまた相当に位の高い者であるが、主君たる信長を前にそんな位などなんの意味も為さない。
「うぬは巫覡の力を信じられぬと申すか」
「無論才力は存じております。巫覡なくして国力なし。戦の星を変えるのは常に巫覡でおりました。しかし、彼らはあくまで戦の補佐に過ぎませぬ。巫覡同士が戦うなど例もなし。その上かの月光殲と相見えるなど……!」
その時、信長の切長の瞳に野獣のような鋭い眼光が宿った。
野心と欲に溢れた獣ながら、利発な彼の頭にはしたたかな調略があった。
絶体絶命のこの状況を覆す、欺瞞に満ちた戦略が。
「儂の巫覡を『月光殲』と戦わせ、その隙に儂が蝶国を落とす。三国の合戦たる乱鷹の合戦を、尾張国と三河一国、二国の争いにするのじゃ。あやつは気付かぬうちに同盟国を失い、巫覡の乱にて月光殲をも失う。あやつの手足すべてを奪うのじゃ」
そのおどろおどろしい声色と、狂気を携えた獣の笑みに、誰もが戦慄した。
つまるところ尾張国は、蝶国と三河一国の協定に気付かぬ愚か者を演じながら、巫覡の乱に乗じて蝶国を落とし、協定自体を壊滅すべきと、そういうことである。
何の案も浮かばぬ家臣たちにとって、それはまこと素晴らしい策に思えた。むしろ、そうするしか尾張国が生き残る道はないだろう。
が、考えれば考えるほど彼らは懸念する。やはり巫覡の果たす責が多過ぎはしないかと。今やどの国もお抱えの巫覡を持つ。彼らは主君の邪魔者や敵国の間者を呪殺し、戦事を占う。
尾張国も蝶国も、その巫覡の衆を所持する。そして蝶国程度であれば、信長が国を滅ぼせば簡単にものにできるだろう。
が、三河一国は違うのだ。
三河一国の巫覡はもはや最恐と謳われ、かの者たちの呪詛は極めて強力で異質なほどに面妖。
そんな彼らと相見えるなど考えるだけで身も震える心地がする。
もしも巫覡の乱に負ければ、信長の調略は一瞬にして灰燼と化す。
そうなれば終焉を迎えるのは尾張だけではない。負ければ信長の首が飛ぶ。家臣たる彼らも、自害に追い込まれるやもしれぬのだ。
「しかし……!」
煮え切らぬ様子の大名やら大夫やらに、じっと座布団に座していた信長は声を荒げた。
首元から額にかけて徐々に血の赤いのが上っていき、彼は大夫の頭部を蹴り飛ばす。
「たわけ! はなからうぬになど聞いておらぬわ! 嶺然! 儂はぬしの指答を所望する!」
「御意」
奥座敷の後方、半ば追いやられたような位置に座した一人の老人がすくと立ち上がる。
信長有する巫覡を集めた衆、花喬影が頭領である。彼は武将にいたく重宝されていたが、その面妖さゆえに家臣からは忌避されるという側面を伏せ持っており、どんなに戦果をおさめようと高い位は頂けなかった。
しかし流石は長と言うべきか。
そんな嫉妬や厭悪の念を容易く払いのけるかの如く、老人の所作は見事なものであった。
信長の御前に至るまでの彼の一挙手一投足には無駄がなく、見た目に反して老いを感じさせない。
次いで額に刻まれた皺の深いのや、時を経た面の奥に光る眼光など並のものではなく、その精悍な風貌は、喩えるなら人の皮を被った日熊の類であった。
「花喬影が主、嶺然の名に置いて信長どのの命、謹んでお受け致す」
ややっ、といくらかの家臣が声を上げたが、彼らは先刻蹴り飛ばされた大夫の末路を思いすぐさま閉口する。
「嶺然よ。必ずや月光殲を倒せるな?」
「無論。早々に敵を打ち倒し、必ずや成果を献上いたすことができると存じまする」
「ほう。しからば嶺然、申して見せよ。早々とは如何ほどじゃ」
扇動するような信長の問いに嶺然の目が鋭利に細められる。
「僭越ながら、一夜にて」
「一夜と来たか! これは愉快!」
その信長の高笑いで、尾張の行く末が決定した。皆喜ぶとも憂うとも取れぬ表情で信長を見やる。が、嶺然だけは違っていた。彼は落ち着き払った様子で言葉を続ける。
「然れども、拙者ひとつばかり頼みがあり申し上げたく候」
「申してみよ。何、憚らずとも良いぞ」
「御意。僭越ながら、金貨を賜りたく存じまする」
「如何程か」
「ざっと一千ばかり」
悦に入っていた信長の顔に、狐疑の相が浮かんだ。
「嶺然、汝自ずからそれを申すは愚弄と心得るぞ。汝が欲せずとも戦に勝てば金子など与えるつもりであった。金子のみに非ず土地もじゃ。答えてみよ嶺然。汝の目に、儂は家臣の褒美をも惜しむ小物に映っておるのか?」
並の臣下であれば信長の唸るような恫喝に一秒と耐えられず動揺を露わにして、先刻の大夫のように蹴られるか、果ては打首に処されていたであろう。
しかし嶺然は尋常の者ではなかった。
彼はその顔に悠然と笑みをたたえて、信長の糾弾を丁重に否定してみせる。
「恐れながら申し上げますれば、金貨を所望するは拙者ではござりませぬ」
「ほう。では金貨を欲するは誰と心得る」
「流れ者の巫覡、詩雨にございまする。草莽者ゆえ少々値の張る男にて、どの大名にも武将にも属さぬ曲者ではございまするが、呪詛の腕は確かと聞いておりまする。勝利を確実のものとするため、彼の者にも助力を願いたく候」
信長は暫し閉口していたが、盃に口をつけると一気に酒を飲み干してしまう。
沙汰を言い渡す前に酒を口にするのは信長の習癖であり、またそれは、同時に進言を受け入れる意向の表れでもあった。
「うむ。心得たり! 紫縁! 金貨を持ってくるがよい!」
信長が呼ぶと、彼の侍従が巻物と硯、筆を携えて摺り足でやってくる。
信長はその巻物に「三河一国 巫覡の乱に備えよ」との旨を書き記し、嶺然に花押を記させた。終わりに「第六天魔王 信長」とおよそ仏道に反した名を書くはさすが尾張の傾奇者と言うべきか。
信長は巻物を満悦の顔で掲げると首を垂れたままの家臣に告げる。
「二日後の逢魔時を持って巫覡の乱の開戦とする! 場所は尾張と三河一国が中央、嵐の町じゃ! さあ征け嶺然! 尾張の巫覡の力、とくと示して帰ってくるが良い!」
最早絶叫と化した信長の熱狂覚めやらぬ命を聞き入れ、嶺然は短く応えては忍者の如き俊敏さで安土城から下城した。
次いで嶺然の姿を呆けた面で眺めていた大名やら大夫やらが思い出したように面を上げては、命助かったとばかりにわらわらと退散してゆく。
ただ一人座敷に残り、座したままである信長は注がれたばかりの酒をすぐに飲み干し、血に飢えた餓狼の如き切長の目を細めた。
さて、両国の巫覡が相見える時は近い。
その勝利を手にするは尾張か、三河一国か。
嵐町で執り行われる巫覡の乱が、天下分け目の戦い乱鷹の合戦、その命運を握ることになったのであった。