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十二 花喬影と月光殲

夜の帳が嵐町を覆い尽くした頃。ただ一人の姿もなく、町を照らしていたかがり火の炎すら消えて、朧げな月明かりだけが頼りとなったその町を、悠々と歩く者がいる。

花喬影の巫覡、詩雨である。

そしてもう一人。

まるで彼の訪れを予期していたかのように、こちらへ粛然と向かってくる者がいる。

笠を被り虫の垂れ衣で全身を覆った、県狗飼姉女である。

そこには音という音がまるで夜の暗闇の中に吸い込まれたかのように存在せず、息がつまるほどの静寂があたりを支配する。

もしこの二人の姿を目にした巫覡がいたとしたら、その者はきっと巫覡としての矜持を掻き捨て、脇目も振らずに逃げ出していただろう。いや、たとえ巫覡でなくともそのあまりに酷烈な気迫の前には、皆その場に立ってなどいられなかったはずだ。

ただ黙したままであるのに、二人の周囲には、まともに正視できぬほどの禍々しい呪力が渦巻いていた。

彼らはそれぞれの顔にそれぞれの笑みをたたえる。

詩雨は愉しげな、県狗飼姉女は妖艶な笑みを。

「楽しかった戦いももうお終いだ。ついに僕たち二人だけになっちゃったね」

演技めいたように肩をすくめて、詩雨は苦笑する。

県狗飼姉女はそれには反応せず、じっと周囲に耳を澄ませた。それだけではない。彼女は水面に触れるように指を伸ばし、嗅覚、触覚、あらゆる感覚を用いて呪力を探る。

この男はどうやら虚言を吹いてはいないらしい。

姉女はふっと空気を漏らした。

姉女に干渉できる距離の全てを見通したが、一切の呪力を知覚しない。

おそらく花喬影の衆はこの男を残して他にいないのだろう。

彼女はそのまま足を進めた。詩雨も見計らったかのように一歩ずつ近づいてくる。

「月光殲の衆は君を残して死に絶えちゃったみたいだけど、君はそれをどう思ってるんだい。やっぱり一族を呪い殺すまでした巫覡なら、悲しみの涙ひとつ出ない? それとも。そんな鬼婆でもちっぽけな情くらいはあるのかい」

心から嘲笑したような目。

反吐が出る、と姉女は心の中で悪態をついた。姉女が言葉を発さぬのに、詩雨は息つく間もなく話しかけてこようとする。

まるで姉女が言葉を発するのを待っているかのように。

吾はお前の内をすべて知っているぞ。

姉女は薄青い唇の裏でほくそ笑んだ。

お前は気丈に振る舞おうとしているが、内心では恐れているのだろう、と。

耳に根源を持つ巫術。おそらくは人の声を聞くことで対象と呪詛を結びつける。

巧妙な術を使う奴だ。

確かに詩雨の巫術は強力だ。

流浪の巫覡として今日まで生きながらえてきたのも道理にかなう。

だが、その絡繰さえ理解してしまえばこれほど楽に策を講じられる術もない。

強いが故に、弱いのだ。

姉女は自身の持ちうる呪力を一点に集めた。それを縦横無尽に広がる膜のように構成してみせる。

彼女は心の中で、強く念ずる。

—夢現交錯、心眼開け

—虚像実像、幻夢現れ

さあ飲まれるがいい。

針一本も通さぬように、一片の隙もなく。

—五感惑い、迷宮彷徨い

—吾意のまま、幻覚見せよ

その呪詛が、姉女の指先から凄まじい速度で詩雨へ向かっていった。

かつて澄川を殺した呪いだ。かけられた者は虚と現の境を彷徨い、彷徨うが故に痛みも苦しみもまるで現実のように経験する。逃れる術は、二つだけ。

そもそも姉女に術を発動させぬか、姉女を殺すか。

その内のひとつを実行することはもう、詩雨には不可能である。そして残るひとつも、今の彼には無意味と化した。

姉女はそこでわずかに笠を持ち上げた。瞳を囲むように張り巡らされた青紫色の血管がどくどくと脈打っている。

流浪の巫覡よ。吾に愚かな死に様を見せてくれ。

彼女が、幻覚の術を、詩雨に打ち付けた途端。

詩雨の瞳に映る暮夜の景色が一転した。

「ほう。これはすごい」

詩雨の間近に迫るのは、彼の育ての顔。

そしてそこは、かつて彼が幼少時代を過ごした部屋の中だった。

牢獄よりも質素なその部屋で、愛情も慈悲のかけらもない非情の男が、詩雨を殴る。蹴る。切り付ける。

涙を流せば目を殴られる。声を出せば喉を蹴られる。

『なぜそれができない! 巫覡になれぬお前に価値などない!』

『ごめんなさい』

『ごめんなさい』

『ごめんなさい』

呪詛を起こすことができねば罰を与えられる。呪いのような罵詈雑言を浴びせられると共に、耐え難い痛みで思い知らされる。

自分は巫覡にならなくてはいけない。強い巫術を手にしなければならない。たくさんの人を呪い殺さなければならない。

『僕、強くなるから』

愛情が欲しいなどと、思ってはいけない。

それは彼が実際に浴びた言葉、受けた痛み。

姉女は詩雨の過去を写した幻覚をもたらして見せたのだ。

姉女が詩雨へ近づいていく。

幻覚に囚われ抜け出す術を持たぬ哀れな巫覡を、終わらせるために。

「こんな幻覚、見たところで悲しくもなんともならないな」

が、そこで詩雨が笑った。

それは単なる虚勢には見えない。最後の足掻きとして、姉女を嘲笑しているのでもない。

彼が今までずっとそうであったように、悠々と、飄々と、心底楽しそうに笑う。

そして彼は、そんな狂気じみた笑顔を浮かべたまま、彼自身の心臓の動きを停止した。

瞬間彼の血の巡りも、呪力の流れもそれに伴って一気に停止する。

彼の体が頭から真っ逆さまに倒れていきそうになる。

姉女は、彼がついに自我を失い自決を図ったのかと考えた。

しかし、違ったのだ。

「さあ、君が姉女を呪うんだ」

気を失ったはずの彼は即座に息を吹き返し、深淵の瞳を鋭利に光らせる。

二人が対峙する遥か先、花喬影の座敷の奥で、赤雲が目を見開いた。

詩雨の髪から鼓動が消えた。

これこそが、合図だった。

遠く離れていても関係ない。言葉など必要ない。

彼女は姉女の髪に触れ、呪詛をかけた。全身の血がたぎるほどに、全ての力を尽くして。

「っ!」

姉女の心臓がこれまでないほど早鐘を打ち出した。息を吸う間もないほど、早く。

息を吐き出し続けることしかできない彼女は苦しみに悶える。姉女の肌から浮き出した血管は大蛇のように荒れ狂う。

間違いなく呪いの干渉。死に至るほどではない。けれど、

「……な、ぜ……!」

勿忘に虚言を言わせたのか。騙しうったのか、それとも詩雨は複数の巫術を持つというのか。

弱点は抑えたはずだった。

彼に巫術など、使えるはずがなかったのに。

「そう。使えるはずがないんだよ」

「……は」

悶え苦しむ姉女を、ひどく冷たい目が見下ろした。

こんな瞳を向けられるのは初めてだった。ただの一度も負けがなく、多くの巫覡たちを従えて、家康からでさえ畏怖を集める。

だが今、愚かな姿を晒しているのはどちらだ?

「ねえ、知ってる? 相手の弱点を知った人の弱点」

彼はもう幻覚など見ていなかった。彼はその先にある、姉女の姿をはっきりと捉えている。

「行動も考えも、全部単調になるんだよね。予想外のことが起こった時、当たり前の結論に辿り着けなくなるんだ」

その声が、姉女に絶望を告げる。

「もう一人巫覡がいるっていう、馬鹿らしいくらい当たり前の結論に」

なぜ私はここまで追い詰められている。

早く動かなくては。

幸い、死に至るほどの呪詛ではないのだから。

幻影が効かぬなら、幾重にも重ねれば良いだけの話。

自分が立っている場所さえ見失うほど。生きているのか死んでいるのか分からず自害してしまうほど。

早く。早くこの男に地獄を見せなければならない。

早く早く早く早く早く。

「君はもう、負けたんだ」

その言葉を聞いた時、張り詰めていた姉女の糸が解けていった。彼女の視界から色が失われてゆく。暮夜の深い黒ですら、白く。

彼女は自分が声を発していたことに気づいたのだ。

姉女の中で激しい後悔と自責の念が渦を巻く。

もう一人の、巫覡だと。

「なぜ、だ。敵など、どこにも」

おかしい。姉女は万に一がないよう周囲一切の呪力を洗いざらい探った。一片の巫術の残滓すら残っていなかったのだ。この戦いは、間違いなく姉女と詩雨だけのものだった。

誰にも干渉することなどできなかった。邪魔することなど不可能なはずだった。

「君は自分の実力を信じすぎた。なぜ干渉し得る巫術すべてを君が感知できると思ったんだい? 考えてみると良い。君の探知にかからないくらいほど遠くから呪詛をかけられる巫覡がいるとしたら。全てが理にかなっているとは思わない?」

第三者に遠方から呪わせ、自分の攻撃だと錯覚させて、姉女に声を出すよう誘導した。

声が弱点だと知っていた姉女は、その情報自体を疑った。詩雨の弱点という情報に、目が眩んだ。そればかりに囚われていた。

この男の弱点は最初から最後まで正しかった。

そんな馬鹿げた方法で敗北したと言うのか。

姉女は掠れた声で答える。

「そんな奴が……存在するはず、ない」

「だったらその身を持って確かめたらいい。僕が正しければ君が死ぬ。君が正しければ僕が死ぬ。ただ、それだけだから」

詩雨は姉女に引導を渡した。

それが花喬影と月光殲、両衆が相見える巫蠱の乱で、最後に行使された巫術となった。

「ああぁあぁぁぁぁあああ!」

姉女の血管が膨れ上がる。

手足があらぬ方向に曲がり、剥き出しになった骨が酸化するかのように溶けてあらゆる肉と癒着していく。

口がなくなっても、姉女は叫び続けた。それはもはや絶叫に等しい。

巫術が使えぬ体になっても、その姿形が人から遠く離れてしまっても、自身の敗北と死を受け入れられぬそれは最後の抗いかのように、呪詛の念を吐き出し続ける。

彼女自身が長い人生の中で受けてきた不幸を、この世に撒き散らすかのように。

が、怨念も所詮人の命である。

絶叫渦巻く肉塊が、血と肉片を散らしながら四散した時、それはただの骸と化した。

県狗飼姉女は、死亡した。

県狗飼姉女は、敗北した。

逢魔時に始まり、闇夜の中で終結した巫蠱の乱、その勝敗が決定したのだ。

花喬影が、月光殲に勝利した。



縁側に腰掛け、襖に背をもたれかける、一人の巫覡がいた。

巫覡の寄りかかる襖には血が染み込み、座敷の入り口から縁側にかけて真新しい血痕が続いている。

その巫覡—赤雲の右手が力無く下された。

その手に握られているのは、県狗飼姉女の髪だ。

力を使い果たした彼女はもう右手を上げることができない。それどころか足を動かすことも、もたげた首を動かすことすら叶わない。

赤雲の命は確実に、終わりの時を刻んでいた。

短刀が刺さったままの腹部からはとめどなく血が溢れ出し、意識は朦朧としてゆく。それでも赤雲の表情は春の日差しのように穏やかで温かだった。

ふふ、と彼女はこぼれるように笑う。

「一度死ぬから、なんて。あのかたは、なんと無茶を……おっしゃる。ねえ、嶺然どの」

振り返ることのできないまま彼女はささやいた。

赤雲の後ろで眠るように逝った花喬影の主へ向けて。

彼が返答することはない。

それでも赤雲は言葉を続けた。

まるで彼がまだ、本当にそこにいて、いつものように穏やかな顔で彼女の話を聞いてくれているかのように。

赤雲は再び花喬影の奥座敷に戻ってきていた。

詩雨がここまで連れてきてくれたのだ。

—姉女が巫術に感づくことができないほど遠くで、君が姉女を呪うんだ。殺せなくても構わない。僕が止めを刺すから。

離れた場所でどうやって意志を交えるのかと聞くと、彼はにやりと笑った。

—僕が僕を呪う。僕自身を一度殺すんだ。心臓も呪力すらも止まった仮死になる。その瞬間、君は姉女を呪えばいい。

少しも臆してなどいなかった。

赤雲の、髪で人の生き死にを判別できる巫術をあんな風に利用するなんて赤雲には考えつきもしなかった。

心臓を止めて、姉女を呪う合図とするなんて。

「面白い、人」

もっと彼のことを知りたかった。

どんな風に生きてきたのか、何を思ってきたのか。

彼が皆とどんな風に語らうのか見てみたい。

きっと黒鷹は揶揄われてすぐに怒ってしまうだろう。

名籠めは意外にも彼に懐いてしまうかもしれない。想像して、赤雲は再び笑う。

同時に、赤雲の口から血が流れていく。

ここまで運んできてくれたのは、育ての親である嶺然のそばに置いてくれたのは、きっと彼の優しさだった。

「ありがとう」

その手の中で、姉女の命がふっとかき消えたのを赤雲は感じた。

「嶺然どの」

彼女は庭の中心で静かに佇む一本の大樹を見やった。

月夜を受ける桜の木。

「彼が、終わらせてくれましたよ」

まだ桜の花弁が満開に咲くことはない。ひだまりの中満開に咲いた桃色の花弁を見ることは、それがひらひらと儚げに舞っていくのを見ることは叶わない。

春はまだ、先だから。

「澄川兄様、黒鷹、名籠め」

けれど、ここにあるのは嶺然だけではない。

花喬影の皆で誓い合った桜の木。

あたたかい。

確かに温度を感じるのだ。

まだみんな、ここにいてくれる。

赤雲の視界が、霞がかってゆく。

目など、もう、必要ない。

蕾が咲いていなくとも、冷たい夜風が花喬影の木を吹きさらそうとも—

その瞼の裏には、満開なまでの桜の花がいつまでもいつまでも、舞っているのだから。


「よかった」


それが、赤雲の最期の言葉となった

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