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十一 最後の花喬影

赤雲は、走っていた。

彼女が持つのは、ただ一本の短刀だけ。

視力の衰えた彼女では、上手く駆けることができない。何度も人にぶつかりそうになりながら、よろけそうになりながら、それでも彼女は走ることをやめなかった。

赤雲は遠方から呪い殺す巫術に長ける。しかしそれは、敵の体の一部が無ければ巫術を使えぬことと同義である。まして赤雲の視力では、敵が巫覡と対面すれば勝ち目は相当に薄い。

それはもはや、自殺行為である。

それでも、赤雲がそうしたのは何故か。

赤雲も分かっていたのだ。強い巫術を持つ仲間が死んだということは、それほど敵たる月光殲が強力であることを意味する。それに一人で立ち向かおうとすることがどれほど無謀なことか。

己が今していることの危険さを、彼女は十分理解していた。

それでも、耐えられなかったのだ。

仲間が次々と死んでいく今、何もできないまま隠れたように息をしていることに。

走っている間も、彼女の瞳からはとめどなく涙が溢れ続けていた。

先刻、名籠めが死んだ。

その手の中で、先ほどまで確かにそこにあった呪力の流れがはっきりと停止した。

「なごめ……」

純粋で心優しいあの子のことを、助けてあげたかった。幸せにしてあげたかった。

花喬影の皆と時間を過ごすにつれて、名籠めの笑顔は増えていった。

が、赤雲は知っている。

名籠めが笑うたびに、思い出したように物憂げな表情をしていたことを。

赤雲は親のことをほとんど知らない。そして彼女は幸運にも捨て子となってすぐ嶺然に拾われた。

だが名籠めは違う。

彼女はその幼さにして何人もの家を転々とした。

何人もの人に、何度も捨てられた。だから名籠めは花喬影に来てからも、よく不安げな顔をした。常に赤雲たちの顔色を窺って、その幼さに反してよく気を遣う子だった。

きっと彼女はそうして生きてきたのだ。皆に嫌われぬように、疎まれぬように。

それでも彼女は、捨てられた。

だから私たちがどんなに優しくしても、愛を伝えても名籠めは、それを得た喜びよりも、失うことを怖がった。

だから教えてあげたかったのだ。

確かに私たちが出会ったのは、偶然だったのかもしれない。

赤雲が巫覡になると選んでいなければ、名籠めに巫覡の才が無ければきっと私たちは出会わなかった。

けれど、強い巫術を持っていなくともかまわない。

ただ名籠めが生きているだけで、嬉しい人間もいるのだと。

もっと時間をかけて教えてあげるつもりだった。

彼女の涙が再び、ぽろりとこぼれ落ちた時。

彼女は確かな呪力を感じ取った。明らかに詩雨のものではない。それは間違いなく、敵のもの。

赤雲が気づいたと同時にその呪力がわずかに揺らいだ。

敵も赤雲に気づいたのだ。

「花喬影の巫覡、ですね」

挑戦的な声が、赤雲の正面から語りかけてくる。赤雲は精一杯力を込めて目を凝らす。

宵闇の中、ぼうっと佇む白い人影のようなものが見える気がした。

静かな夜にふさわしい、月のように清廉な声。けれどそこに確かな敵意と覚悟がのせられているのを、赤雲は感じる。

「如何にも。名籠めを殺したのはうぬでござりますね」

女に残った呪力の残滓。

それは赤雲のよく知るかたちをしている。

いつ何時も赤雲のそばにあった、愛しい呪いのかたち。

赤雲は視力を失った代わりに人の醸し出す雰囲気、感情を知覚することに長けていた。

温度、声色、息づかい。彼女にとっては全てが視力の代わりとなる。

しかしその利点を持ってしても、百合に気づかれた時点で赤雲の勝機はさらに薄くなった。

「私の兄を殺したのはあなたの妹だった」

物憂げに目を伏せる百合は、その哀しげな瞳の奥で勘づいていたのだ。

赤雲の瞳が、その瞳孔が百合を捉えていないことに。

彼女は確かに百合のことを認識している。

だが、百合の細かい挙動にまでは追いついていない。

そして、何より百合の気を引いたのは赤雲の頬からこぼれ落ちる幾筋もの涙である。

あの幼子が呼んでいた姉というのがこの巫覡なのだとしたら。

この巫覡はあの幼子を追ってきたのではないか。

だとすればその涙も至極納得であった。

もしこの巫覡の視力が弱く、万全でない状態でここまで来たのだとしたら。

この戦いは百合に勝機がある。

二人の間に、もはや言葉など必要なかった。

溢れ出す殺気、それだけで十分。

赤雲がこちらへ駆けてくるのを見て、百合も足を踏み出した。

宵闇の通りの中心で、二人の巫覡が鋒を違える。

赤雲は腰の辺りに手を据えて、両手で短刀を握っている。

その姿には尋常ならぬ赤雲の殺意が込められているが、呪詛を発しているようには見えない。彼女はその身ひとつで巫術を扱う巫覡に立ち向かおうとしていた。

ただ突き進むだけの、何の策略もない攻めの形である。

百合は密かに口角を上げる。

そこにどんな勇気や覚悟があろうと、それはもう蛮勇に他ならない。

我を忘れた時点で、彼女の敗北は決したのだ。

互いの息づかいが、その肌の温度が感じられるほどに二人は接近し、互いの武器を突きつける。

赤雲は短刀で、百合は触れることで。

「兄上を、私を、侮らないで!」

赤雲が百合の体の中心、その腹部に向かってただ一心に突き進んでくるのを見て、彼女は柔らかな体を器用に捩り、芸術の如き刹那の一瞬で攻撃を避け切る。獲物を捉え損ねた赤雲の短刀が空を切り、その隙を逃さず百合が赤雲に触れようとする。

しかしその時、これまで蛮勇と思われていた赤雲の空気が一気に変化したのを、百合は感じた。

空を突き進むかと思われた短刀が即座に向きを変え、しかしそれは百合の身体へ向かうのではなく、百合の手、その指先へと向かったのだ。

「何を!」

身を翻そうとした百合の目と赤雲の目がはっきりと合う。

赤目の瞳は、漆黒の目が月光を受けて鈍く光るのを見た。

まごうことなき巫覡の目。

人を殺すことに長け、たとえ血が流れようと心臓が止まろうと獲物を狙い続ける、殺し屋の目だ。

シュッ

と、簡素な音がした。

自分の右手から血が吹き出すのを百合は見た。

小指と薬指が同時に切り落とされたのだ。

直後指先から堪え難い痛みが広がっていくのを感じ、百合は苦痛に顔を歪める。

先ほどまでの百合ならきっと諦めていただろう。

が、百合は動きを止めなかった。

もう違うのだ。兄上が生きた証を、兄上がどれだけ素晴らしい人であったかを、百合が生きることで証明するのだから。

それが百合にできる、蘇芳へのせめてもの弔いなのだから。

この女は必ず、心臓を狙い来る。

このままここに立っていては刺される。

百合は本能に従ってまず逃げるのではなく、足を踏みしめた。

片足を、できる限り強く。

彼女はそのままの勢いで地面を蹴り、前方へ力を込める。

百合の身体が宙へ浮いた。

攻撃を避け切るどころかその身軽な体は赤雲さえも飛び越える。

彼女は見事なまでの所作で地面に舞い降り、滑らかに、けれど少しの無駄もない動きで赤雲の背に触れた。

赤雲には、為す術もなかった。

その一連の所作が着物を着た人間の所業であったと、誰が信じられよう。

百合は感染呪術の使い手であった。

対象に触れることで呪詛を掛ける彼女は、言い換えれば触れなければ対象を操ることも呪い殺すこともできない。

ゆえに彼女は何年も体術に磨きをかけてきた。その人間離れした身のこなしの前では、どんな小手先の手練手管を使おうと意味がない。

赤雲の腕が小刻みに震え、その両手が短刀を握る。

「だ、……め……」

百合に突きつけるはずだったそれを、百合を殺すはずだったそれを、彼女は自分の胸元に突きつけた。

彼女の意思に反して。

耐え難い痛みに苦しむ赤雲の叫び声。短い呻き声と共に彼女は身悶える。

赤雲の着物に、薄く血が滲む。

ずぶずぶとむごい音を立てて、包丁が彼女の胸に沈んでゆく。

血は瞬く間に広がってゆき、赤雲は吐血した。

血溜まりの中に座り込む赤雲に、百合は冷ややかな目を向けた。

もう一度。

赤雲の腕が再び持ち上がる。

百合は赤雲に命じる。その命を確実に終わらせるために、もう一度。

鋭利な鋒が白く薄い彼女の肌、その表面を突き破る。

一筋の血が再び腹部を刺し貫こうとしたその瞬間。

百合は自分の心臓が跳ねるのを感じた。身の毛のよだつような心地がして、彼女は咄嗟に胸元を押さえる。

百合の心臓が、激しく鼓動していた。

それを自覚すると同時に強い息苦しさを覚える。

なぜ、急に。

赤雲は巫術を使用していない。それ以前に、彼女は巫術を使うことさえままならないはずだ。現に彼女は短刀を握り、自害しようとしている。そのはずなのに、なぜ。

そう百合の心に僅かな焦燥が表れ出たのと同じ刻、彼女は通りの角から呪力を感知した。

のらりくらりと近づいてくる呪力の塊。

たった一つなのに、すさまじいまでの力を持って近づいて来るそれこそが、彼女の心音を乱すもとであると百合は即座に理解した。

一人の巫覡、それが如何に危険な存在であるかを百合の巫覡としての本能が知覚したのだ。

「やあ。君は月光殲の巫覡かい? 随分派手にやったんだね」

一人の男の体が四散し、一人の幼子が地面に倒れ、一人の巫覡が短刀を突き立てているその惨状などまるで目に入っていないかのように、男は取ってつけたような笑みを浮かべる。

人間になりきれぬ、人間を装う怪物。

そんな表現がぴったりだと彼女は思う。

そして、百合は気づいたのだ。

その男の背格好や身なりが姉女から聞かされた流浪の巫覡そのものであることに。

そして彼と相見えたのであろう勿忘が残した遺言。

『詩雨の能力は 耳にあり』

あれを信じるのであれば、彼が一息に敵を呪い殺せるのは私たちの声にあると考えられる。それであれば流浪の巫覡としての強さも納得というところだ。

認識した声に呪いをのせる。

それをやってのけているのだとすれば尋常でない離れ業だが、巫術の原理を思えば破綻してはいない。

百合は声を出さぬよう、息すらも潜める。

もしそれが目の前にいる男の弱点だとすれば?

百合の見立てが完全に正しいとすれば、それはこの男に対する大きな利となる。

が、百合は自身の足が震えているのに気づき、唇を噛んだ。

莫大な呪力を抱える巫覡の幼子と相対し、この女に対しても僅かだか手を焼いた。

百合はそれを実現するほどの十分な体力を持ち合わせていなかった。

その男の姿を睨みつけながら百合は後退りする。

姉女はきっと生きている。

それに賭けて、この場を離れるしか術はない。

「戦わないのかい」

男の悪魔のような囁きにも、百合は耳を貸さなかった。口をぎゅっと引き結んで、残された僅かな体力を余すことなく使い、彼女はその場を離脱する。

やってきた男、詩雨はその背中をしばらく意味ありげに見据えてから、血溜まりの中で痛みに悶え苦しむ赤雲を見やった。

「君、明日まで持たないよ」

詩雨は赤雲を介抱するように、その頭を腕で支えてやる。

「今すぐ死にたいならこの包丁を抜いてあげる。楽に死ねるよう介錯もしようか。もちろん仲間の思い出と共にゆっくり死んでいきたいなら邪魔はしないけど。どうする」

詩雨の問いかけに、赤雲は肯定も否定もしなかった。

代わりに弱々しい瞳は、向こう側を見る。

「……とって」

怪訝そうに首を傾げる詩雨に、赤雲は力の限り口を動かした。

「指……、を」

詩雨は赤雲を寝かせて立ち上がると、彼女の視線が指した方を見る。そこに赤雲の血溜まりと異なる、小さな血痕があった。

その中心にあるのは、生々しい二本の指。根本から切り落とされた状態で無造作に投げ出されている。

「なるほど……ね」

詩雨はその指を拾い上げると僅かに口角を上げた。

けれどそれは悠々とした心のないものでも、誰かを嘲笑するような笑みでもない。彼は確かに感情の籠った、複雑な面持ちをしていた。

その指を、赤雲の手に握らせる。

「ありがとう」

赤雲はその指を見て安心したように目を細める。詩雨は彼女の体から、呪力の波動がみなぎるのを感じた。赤雲は強力な呪力を一本の細く長い糸のように練り上げる。

赤雲の呪力は見えない糸となってするすると伸びてゆき、それが赤雲と詩雨の先を逃げる百合をはっきりと捉えた。

彼女の首にその糸が結びつき、瞬く間に幾重にも巻き付いていく。

そして、首と体が切り離された。まるで、斬首されたかのように。

対象者がその場にいなくても構わない。

彼女は千里先の敵を呪い殺すことすら可能なのだから。

百合は自分が何で殺されたのか、そもそも己が死んだことにすら気づかないほど一瞬で死に至った。

百合は赤雲のことを見誤ったのだ。

名籠めとの関係、そして赤雲の視力ばかりに気を取られ、赤雲が無謀にも立ち向かってきたなどという幻想に囚われてしまった。

確かに赤雲は絶望していた。育ての親嶺然、大切な家族である名籠め、澄川、黒鷹すべてを失い悲しみに暮れてもいた。

けれど己の中ですぐに決着をつけられるほど、花喬影の絆は脆くない。

彼女ははなから諦めてなどいなかったのだ。真っ先に腹へ向かっていったのも百合を油断させるため。指を斬り落としたのも百合を呪い殺すため。

彼女は暗闇の陰から勝機を狙っていた。

彼女の不屈の精神が、この争いにおける勝機を引き寄せたのだ。

百合の操術から解放された赤雲は反動で激しく咳き込み、短刀が刺さったままの体を起こす。

「いやいや見事だね。やっぱり類感呪術の使い手は恐ろしい」

詩雨は赤雲に演技めいた拍手を送る。

それからあたり一面の血と死骸を見ると、静かに問うた。

「残った花喬影は君だけなんだね」

「ええ。そしておそらくは、まだ敵が残っておりまする」

「知っているよ。県狗飼姉女だろう。僕も同じ意見だ。あれはまだ生きているよ」

「ええ、ですから……」

赤雲は頷く。そして、詩雨へ言葉を紡ごうとした瞬間。

「じゃ、僕は行くよ」

突如彼は赤雲に背を向けて、百合が消えたのと反対の方へ去っていこうとした。風のように飄々とした背中が、迷うことなくその場を離れてゆく。

「どこへ!」

赤雲は叫んだ。

一拍置いて、その身が半身を翻す。彼は赤雲に目を合わせぬまま呟いた。

「ここではないどこか、かな」

「なぜ……?」

赤雲には彼の行動の意味が理解できない。

もし彼がこの戦いの最中で花喬影を裏切っていたなら、真っ先に赤雲を殺したはずだ。

百合を殺す手伝いなどしなかった。

仮に彼が赤雲と共に行動することを避けていたとしても、彼の言動は不自然だった。

詩雨とは会ったばかりだ。言葉を交わしたのも本当に数えるほどで、私はこの人のことを何も知らない。

けれど嶺然に依頼を受けた時の彼のままなら、姉女を倒しに行くと飄々と言って見せるような気がした。

悠々と仮面のような笑みを貼り付けて見せて。不安や恐れなどただのどこにもないような顔で手まで振って見せるのではないか、と。

今の彼は、ひどくおかしい。

「僕はこの戦いから身を引く。信長と君たちには悪いことをするようだけれど」

赤雲は、そんな詩雨をすぐに咎めようとはしなかった。

「どこまでも勝利を追求するあなたが、なぜ、そんな選択をするのですか」

「君は、今さっき君が殺した巫覡の挙動を見て、何も思わなかったのかい」

詩雨は赤雲の問いに問いで応える。彼が悪戯に話題を逸らそうとしているとは、どうしても思えない。

「身体を操る巫術の巫覡であること以外には、何も……」

「そうだよね。君の視点からじゃ、どうしたって見つけられないよね」

赤雲が意図を図りかねていると、彼は再びこちらへ歩み寄る。そして赤雲と同じ目の高さまでしゃがみ込むと、首の角度を変え彼自身の、耳を指差した。

「僕の巫術は耳にある。声を聞いて、聞いた人間を呪い殺すのが僕の巫術だ」

赤雲は目を見張った。今し方詩雨が言ったことが、信じられなかった。あれほど自分の巫術が露見することを避けていたのに、彼は今、自らそれを明かしたのだ。

「私に伝えて、よかったのでございますか」

「そうだね……良くないのかもしれないね。でも説明するには、それしかないと思ったから」

詩雨は僅かに目を伏せ、再び赤雲の瞳をまっすぐ見つめた。

「あの巫覡は僕と戦うことを避けた。それだけなら、まだおかしなことではなかったかもしれない。けれど彼女は返答しなかった。僕の問いかけに、一切。ただ会話することに躊躇したんじゃないよ。僕と決して口を聞かぬよう奥歯を噛み、唇を引き結んでいた。あまりに不自然な行動だよ」

彼は指を突き立てる。

「そんな巫覡の不自然な行動を自然にする要素は何か。そんなのひとつだけだ。僕の巫術が露見した。出所は大方予想できている。明らかに僕のミスだ」

「ではあなたは、巫術が敵に露見したから、身を引く、と?」

「そういうことだね」

「ならどうして、そんな顔をするの」

赤雲は詩雨にぐっと顔を近づけると、その頬を両手で包んだ。

冷たい。

なんと冷たいのだろう。

まるで、あたたかさを求めているみたい。

詩雨は弾かれたように瞠目する。

初めて詩雨に会った時、なんて人間味のない人だろうと思った。

発言すべてが宙を掴むように捉えどころがなく、挙動も雰囲気もどんなに目を凝らしてみても霞がかったように見えなくなる。まるで厚い雲が彼を何層にも覆っているよう。

彼の心の内なんて何も分からないと思っていた。

思っていたはず、だったのに。

なぜだか今は、分かる。彼の不自然な言動と、間近で見る表情から。

詩雨に、迷いがあることに。

詩雨は触れられたまま動かないで、またわざとらしく口角を吊り上げて見せる。

「そんなに怪しまなくても当然のことだとは思わない? 手の内を知られたらいくら僕といえど勝機が薄くなる」

「本当にそれだけで、姉女を恐れるのですか。あなたが」

赤雲の視線が一時も揺るがないのを見、決して食い下がらぬという赤雲の強い意志を感じ取り、詩雨はふっと、蝋燭の火を消すような短い息を吐いた。

「そんな慧眼、僕に使うことないのに。さっさと僕を利用するでもすれば、僕は簡単に従って見せるのに」

深淵を映す瞳に初めて、翳りが見えた。

「僕が恐れているのは、君たちだよ」

「私、たち……?」

「多分僕は、君たちという存在から離れたいんだ。はやくこの名前の分からない感情から離れたかったんだよ」

それは彼が初めて見せた本心だった。

彼はもう、笑顔を浮かべようとしない。

「誰かを恨んでいた。殺したかった。不幸になることを、心の底から愉しんでいた。それが普通だと思っていたよ。僕にも育ての師のような人がいてね。けれどその人は嶺然みたいな人間とはまったく違うんだ。僕にただただ殺しを期待するような奴で、どこまでも利己的な奴さ。だから師を超えることを証明するために、僕は奴を殺して巫覡になった。そうやって、ここまで生きてきたんだ」

ああ。

赤雲は、詩雨の抱く感情を知っている気がする。

詩雨という男を覆う氷が、じわりと溶けていくようだった。

「けれど君たちと来たらてんでおかしな奴だ。人を呪い殺す巫覡のくせに、殺しに心を痛める。自分の幸せより他人の幸せを願う。金も名誉も、他人のために使おうとするんだ。果ては自分の命さえ犠牲にして。君だってそうだよ。本当は死んでしまうほど痛く苦しいのに、まるで平気であるように振る舞ってじっと耐えている。仲間の無念を晴らすために、死ねないからと」

そして詩雨は、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「それが、綺麗だと思ってしまった」


赤雲は、なぜ詩雨の感情を知っているような気がしてしまうのか、それを理解した。

同じだったのだ。

名籠め、黒鷹、澄川、そして、自分自身。

「もし僕がそこにいたら、違っていたのかもしれない、なんてね」

きっと赤雲たちが歩んできた道と詩雨が歩んできた道に大差などないのだろう。

裏切られ、傷つけられながら、心のどこかで愛を望んだ。

けれどまた裏切られるのが怖くて、失ってしまうのが怖くてその気持ちに蓋をする。残酷であろうとすることで、自らの心を守るのだ。

赤雲はふふっと声を漏らして笑った。

その様は、ふわりと咲く花のよう。

彼も私たちと同じだったのだ。

彼もまた、人間なのだ。

「あなたは金で雇われたのかもしれない。けれど詩雨。今、あなたは確かに花喬影の一員です」

「分からないかい?」

詩雨は苦笑する。

「君たちが無念のまま死ねば、僕の生き方を正当化できると思った。綺麗な生き方が無惨な死を招くなら、無慈悲である生き方の方が賢明なんだと、そう言い聞かせようとした。そうでないともう、今までのように生きられない気がしたから。僕はそういう奴なんだよ。綺麗な人間に憧れるだけの、」

「ええ。存じていますよ」

赤雲は微笑んだまま目を閉じる。

どこまでも人を包み込む、慈悲に満ちた表情で。

「それでも、嶺然どのは確かにあなたを選んだ。花喬影の一存を決める、大切な戦いをあなたに任じたのです。あなたが花喬影なのは変わらない。私たちだって、嶺然どのに選ばれたのですから」

「僕は金という利己的な理由でその仲間になったのに?」

「あなたが綺麗という私たちだって、本質は同じです。花喬影の繁栄のために、迷わず月光殲を殺すのですから。ですが……」

そこで赤雲はゆっくりと目を開けた。

「同じ利己なら、人を救って悦に入る利己というのも、悪くないとは思いませぬか」

「救う?」

「たとえ花喬影の悲願が成し遂げられずとも、巫覡の力をあなたが証明できる。巫覡という捨て子たちのたどり着いた果てを、その力を、世に伝えることができるのです。それが、どれだけこの世に存在する巫覡たちの力になるか……、私にはできぬのです」

赤雲の目から涙がこぼれ落ちた。

「私一人ではそれを成し得ない。悔しいけれど、私にはできなかった」

赤雲はそこで僅かに咳をした。

彼女の喉から小さな血の塊が吐き出される。

それでも彼女は言葉を止めようとはしない。

「この身を、どんな風に使っても構いませぬ。それでも、それでも力を貸しては、くれませぬか。無念を、果たさせては、くれませぬか」

それが赤雲の、切なる願いだった。

桜の下で交わした盟約は、もう果たすことができない。

赤雲の命ですら、もう限界だ。

必死に意識を保っているが、朝日を拝むことすら叶わないだろう。

細く、脆い糸。

それでも、巫覡たちが必死に繋いできた、確かに存在する糸。

彼らが生きてきた証を、少しでも世に残したい。

死んだ者たちの弔いには、きっとならないだろう。

これはきっと、利己的な感情。

赤雲が彼女自身を満足させたいだけの、ただの我儘。

それでも、このまま死ぬことだけは耐えられなかった。

どうしても諦めたくなかった。

もし勝利を捧げることができたなら、もしそれで、旅立った彼らの涙を少しでも拭うことができたのなら。せめてもの慰めになるのなら。

生き残ったのが赤雲でなくとも、嶺然、黒鷹、澄川、名籠めであっても。

きっとみんな、そうしたと思うから。

「最後にできた仲間の、あなたと。果たしたい、のです」

詩雨は、自分の頬に触れる赤雲の手を包んだ。その手を春風のように暖かな手つきで撫でて、そっと下ろさせる。

そして彼女の右手に、何かを握らせた。

「……これ、は」

それは、髪だった。

赤雲はその髪に触れて、手を震わせる。

その髪の主は、生きていた。

今もこの嵐町を彷徨っている。獲物を探すように眼を爛々と光らせている。この髪から、その者の持つ尋常でない呪力を感じる。

そして赤雲は気づいたのだ。

その呪力が、嶺然を殺した呪いのかたちと、全く同じであることに。

そう、その髪は。

「県狗飼姉女のものだろうね」

「どうして……、あなたがこれを?」

「澄川という男が、この髪を持っていたんだ。血だらけになって倒れたまま、この髪だけを強く握りしめて死んでいた」

彼は少し視線を逸らして、眉を寄せたまま笑ってみせた。

「まったく、君たちの意志の強さは僕の想像を超える」

それはもう、巫覡を嘲笑うものではなかった。

「そう、だったんですね」

兄様。

赤雲は再び涙を流す。

澄川兄様。あなたがここまで繋いできてくれたのですね。やはりあなたも、最後まで諦めないでいてくださった。きっと、私たちを守るために。

「ありがとうございます」

赤雲は澄川に、そして澄川の最後の抗いを繋いできてくれた詩雨に礼を言う。彼は無言で首を振った。そして立ち上がると、首を傾けて見せる。

「君、まさかこれで終わりとは思っていないだろう?」

挑戦的な笑み。命知らずで、野生的で、恐怖なんて少しも感じていないような顔。けれど今、その顔には、確かな意志が宿っている。

「君が髪を使って巫術を行使しても、県狗飼姉女を死に陥れるには不足する。だが君は類感呪術の使い手だ。特に遠方からの呪殺に滅法強い。たしかその距離は千里まで、だったよね」

「ええ」

「僕にひとつ策がある。意地汚く浅ましい狡猾な調略だよ。純潔な花喬影の最期を飾るにしてはあまりに不相応な方法だ。それでも乗るかい」

赤雲は強く頷いた。

綺麗な勝ち方。そんなものはなから望んでいない。勝利を手にできるのなら、どんな方法だって構わない。日の差さぬ影に生き、呪詛を用いてしたたかに呪い殺す。

それが巫覡。

捨て子に選択肢などなかったのかもしれない。

巫覡という道を選ぶしかなかったのかもしれない。

それでも、巫覡として生きることを選んだのは、望んだのは赤雲だった。

赤雲は決心する。


巫覡として生きたのならば、最期のその瞬間まで、巫覡らしく死んでやろう、と。

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