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十 名前を籠める者

「花喬影の衆は、もう一人ばかり死に絶えた頃でしょうか」

「いいや、二人ほど殺されていても別段おかしくはないだろう」

日の落ちた嵐町で、およそ一般の者がするとは思えないほど残忍な会話を繰り広げる二人の兄妹があった。

真紅の瞳を共有する兄と妹、県狗飼姉女率いる月光殲の巫覡百合と、蘇芳である。

「けれどあれを見る限り、勿忘はもう死んだのでしょうね」

百合は口元に手をやると、容赦なく仲間を嘲笑する。

月光殲は孤狼の集まりでありながら、勿忘や蓮離れのように姉女に対して畏敬の念を抱く者が数名いはしたが、この兄妹に限って話は違った。

表向きは姉女を敬い、従順な巫覡として彼女に仕えていたものの、実のところ彼らはあの姉女に対してですら、それほどの念を抱いてはいなかったのだ。

無論それは姉女のみならず月光殲の仲間に対しても同じである。しかし彼らは愛情を知らないかったのではない。

捨て子として辛い身の上を共有し、日の目を見るため共に巫術を磨き這い上がってきた彼らは並々ならぬ深い情念で結ばれており、彼らの前では仲間であろうが何であろうが人間である以上に意味などなかったのである。

彼らにとって、二人が二人たれば、それで十分であった。

「もはや全て息絶えた、なんてこともあるかもしれません。時期姉女様から帰還の命が来るやも」

「ないとは言えぬが、詩雨という流浪の巫覡が気がかりだな」

「姉女さまがすでに倒しておられるかもしれませぬよ」

蘇芳は揶揄うように言ってのける妹を見、苦笑した。彼女が偽り事を述べているのを蘇芳は知っている。そして百合が蘇芳の次の言葉をすでに知っており、待っていることも。

「お前は本当に、それを望んでいるのか?」

百合の頬が紅潮し、彼女は蘇芳を見るとうっとりと赤目を細めた。

「無論、そんなはずはありません。月光殲の勝利は誠に感涙ものでございますが、何の貢献もせず勝負に勝つとは、いささか味気ないこと」

「流浪の巫覡を倒すのは己でありたいと?」

「それは兄上も同じでありましょう?」

百合の問いかけに蘇芳は瞑目したまま、ほのかに笑みを浮かべた。

「言うも愚かなことだな」

この兄妹においてもはや会話は会話でない。

彼らは互いの想いや考え、信念を一片の隙も残さず知り尽くしている。

故に二人は常に互いが次に発する言葉を知っており、台本をなぞるように滑らかに進行してゆく彼らの会話は常人にとっては、まるで両者が読心し合っているかのように、少々不気味に映るのである。

が、次に百合が発した言葉は蘇芳の予測とはおよそ反するものだった。

「蘇芳兄様」

蘇芳は突如目も醒めるような思いになって、真横の百合を見た。

いつも己のことを兄上と呼び慕う彼女は、滅多に蘇芳の名を呼ぶことはなかったからだ。彼女が蘇芳のことをを名前で呼んだのは、貧民街を出たその日以降にはなかったと彼は思い返す。

蘇芳と百合は、真の名を持たない。

両親は金がないからと二人を貧民街に捨て、どこかへ去っていった。

蘇芳は母の顔を覚えているが、百合は自分を産んだ母の顔すら知らなかった。そんな親に名などつけて貰えないのは当然のことであった。

ゆえに、二人は自分たちの真名を自分たちで付けた。

百合の名は、蘇芳がつけてやった。

貧民街で初めて百合の花を見た時、まるで妹を表す花のようだと感涙したのを、蘇芳は覚えている。荒れ果てたその地に、まるで神の授けた贈り物かのように咲く一輪の花。

少しの穢れも知らず、風雨に晒されても枯れることなく凛と咲き続けるその姿は、百合そのものだった。

両親を憎んで殺してやりたいとすら思っていた蘇芳に対して、百合は彼らに憎み事ひとつ口にしたことがなかった。

それは彼らの姿も声も知らないことが根底にあろうが、彼女がそうしない一番の理由は、それではない。

百合は蘇芳だけを見ていたのだ。

自分を大切にしてくれない両親のことを気に掛ける蘇芳に反して、百合は自分を大切にしてくれる蘇芳だけを見ていた。

百合は蘇芳だけを愛していたのだ。

その日から蘇芳は、百合だけを愛すると誓った。

けれど純真無垢な彼女と違い、彼は名を呼ばれる度両親のことを思い出す。愛されないことに寂しさを覚えたわけではない。百合を捨てたことが、これほど愛に満ちた彼女を不幸な身の上にさせた彼らのことが、憎らしくてたまらなかったのだ。

自分の名を呼ばれる度物憂げな顔をする蘇芳のことを、きっと百合は勘付き、気に掛けたのだろう。

いつしか彼女は蘇芳と呼ばなくなった。そんな彼女が今になって彼の名を呼ぶのは、彼女の中に並々ならぬ想いがあるのに他ならなかった。

「どうした」

だから蘇芳は、できるだけ穏やかに彼女に問いかける。百合は薄桃の唇を穏やかに結んで、穏やかに目を閉じている。けれどその眉だけが、悲しげに歪められていた。

「とうとう夢見て良い時が来たのでしょうか」

百合の声はとても儚い。彼女はそれを言いたくて、けれどどこかで言うことを強く拒んでいるようだった。彼女は喉が詰まるのを堪えながら、言葉を続ける。

「巫覡の道が険しく苦しいものだと実感するたびに、その思いを伏せてきました。未来について考えることを避けてきたのです。兄上と幸せに暮らせる未来のことを。決して思い上がってはいけないと。だから、今日まで忍んできた」

弱音など決して吐かなかった百合が、今日までそれを口にしなかったこと、今日初めてそれを口にする意味を、蘇芳は理解した。

百合との平穏な未来のために巫覡になることを決めた。

百合と生きるために人を呪殺していった。

そんな日々が今日を境に変わるかもしれないのだ。

この巫覡の乱で勝利をおさめ、乱鷹の戦いで家康どのが信長を討ち倒せれば、三河一国が天下をおさめれば、その未来が二人の手に届くほど近くへやってくると、蘇芳は確信していた。

百合も同じなのだろう。

だからこそ彼は、百合がそれを語るのを止めなければならないと思った。言って仕舞えば、自分も百合と同じように、夢を見てしまうから。

限りなく近づいた幸せに慢心して、未来を取りこぼすことだけはしたくない。

「私は確信しているのです。もしもこの戦に勝てれば……」

「やめよう」

蘇芳は愛しい妹を優しく嗜めた。

「その話は……、その未来は、勝利してから語り合うこととしよう」

百合はハッと顔をあげる。

生きる意味であり、唯一の大切な人である蘇芳に否定され、百合の顔には形容し難い不安が発露する。

「ごめんなさい。私、気が急いてしまって」

「いいや。お前を叱りたいわけじゃないんだ」

蘇芳はすぐさま百合をなだめた。

彼は粛然と、自分の胸に手を当てる。

鼓動が早い。蘇芳も急いているのだ。

どんなに冷静でいようと振る舞っていても、兄として毅然にしていようと心に決めても、俺もまだまだだと、蘇芳は息を吐く。

この心臓はもう、期待をしてしまっている。

「俺もお前と同じ気持ちだと、伝えたいだけなんだ」

しおれていた百合の顔が、パッと花が咲いたように明るくなった。

ああ、愛しくてたまらない。

蘇芳の言葉一つ一つに、一年中姿を変える花のように表情を変えて、いつも彼の話を聞いてくれる。その姿に、蘇芳はいつも心癒されるのだ。

その百合の花は、平和の世を手にした時どれほど見事な花を咲かせるのだろうか。

その笑顔が見たい、と蘇芳は思った。

彼は百合の頭を撫でる。

「だから存分に語り合おう。戦が終わったのち、桜でも見ながら、心ゆくまで、な」

「はい。    蘇芳兄様」

百合が満面の笑みを、蘇芳に向けた時だった。

一線の血飛沫が、百合の頬にかかった。

何が起こったのか把握しきれずに蘇芳を見ると、蘇芳も同じように百合を見ていた。

しかし次の瞬間—百合は、蘇芳の顔を分つように、刀で切りつけたかのような血の跡がついたのをはっきりと見た。

蘇芳が何かを口にしようとする。が、声は聞くことができなかった。先刻ついた血の跡に沿うように、その顔が半分に斬り落とされたのだ。

「蘇芳兄様!」

血の筋は、蘇芳の体をがんじがらめにするように幾本も入ってゆく。

それが足先にまで達した時、蘇芳の短い息と共に、その体は風を切るような音に合わせてあらゆる方向から切り裂かれた。

蘇芳の腕が、足が、頭が空中に投げ出され、大量の血飛沫が百合の着物を染める。虚しい音と共に、わずかに形を保った蘇芳の腕が力無く地面に落ちた。

百合は絶叫した。

理解が伴わなかった。

蘇芳が死んだ、そんな恐ろしい事実が百合をさらなる地獄へと陥れる。

彼女は絶叫し、絶望し、しかしその間そのぷつりと切れた彼女の理性が、巫覡としての百合の性を呼び起こしていた。

百合はその体を介抱するよりも前に立ち上がると、怒りに満ちた赤目を周囲へ向ける。

今し方この道で起こった事態に誰もが震え、百合のように叫びをあげていた。

彼女は冷静さを失いそうになるのを必死で堪えて、その中から事の犯人を探し出そうとする。

宵闇と言えどここは嵐町の中心地に限りなく近い。

人の数はそれほど減っておらず、一見して怪しい者は見当たらない。

が、百合は確信している。

確かにあれは、紛れもなく巫覡の犯行だったのだ。

あんな所業が出来るのは巫覡より他にない。

だが!

彼女は強く唇を噛み締めた。彼女の心をひどく乱すのは、周囲から一切の呪力を感じなかった事だった。百合と蘇芳は確かに一時未来に思いを馳せあった。

だが、断じて油断などしていない。

命の危険がある二人は、その危機を常にいち早く感じ取れるよう鋭敏な感覚を持ち合わせていた。

それは刺客をはじめとする人間だけでなく、無論巫覡にも通用する。

蘇芳を呪い殺そうとする者が近くにいたならば、すぐに勘付いていたはずだった。

が、現実はどうだ。

蘇芳亡き今ですら、そんな呪力は微塵も感じることができない。

だとすれば。

彼女は必死で思考を巡らせる。

類感呪術に優れているものが遠方から蘇芳を呪い殺したか?

しかしそれはおよそあり得ない事であった。なぜなら蘇芳も百合も、今まで花喬影のどんな巫覡とも相見えていない。

それどころか味方の月光殲とすら、初めに別れたあの時から再会していない。

誰とも接触していないのに、蘇芳の何かしらを手にいれ呪い殺したとは考えづらい。

やはり兄を呪殺した巫覡はまだこの近辺にいるはずなのだ。

いないと辻褄が合わない。

兄上が殺された理由が、分からなくなってしまう。

彼女は無意識に流れてくる涙を腕で拭い、その腕の血が瞼に染みるのを感じながら目をこらす。

その中で、彼女ははっきりと見た。

はじめ彼女は、それを見間違いだと思った。

あんな少女が、こんな磨き上げられた巫術を実行することなどできない、そう思ったのだ。

少女はあまりに幼かった。

首のあたりで切り揃えられた澱みのない濡れ羽色の髪に、桃色の着物を着た幼子。その面立ちは、その娘の相当に若いのを思わせる。

蘇芳も百合も、姉女の元に巫覡として籍を置くことを決めたのは随分幼い頃だった。

しかし巫術を会得するのは想像を絶するほど残酷で、苦しい。

それも一年や二年で扱えるようになるものではない。

何年も血の汗を飲むような凄絶な稽古を繰り返して、ようやく使えるようになるのだ。

あれほど洗練された殺しが、あんな幼子にできるとは思えない。

そのはずなのに、その幼子が瞬間こちらを見た時。

その顔が、蘇芳の死を悼むような、心底心を痛むようなそんな悲壮の顔に染まったのを、百合は見た。

驚くでも、叫ぶでもなく、あんな顔をする。

蘇芳が死ぬと分かっていた者だけが、できる顔だった。

「待て!」

百合は無心で駆けた。

どんなにその姿が無様であろうと、そんなことはどうでも良かった。

蘇芳を殺した巫覡を、生かしておくわけにはいかない。

蘇芳を殺めて、この世界で生きながらえるなど許さない。

兄上と見るはずだった桜など、その桃色の花弁一枚ですら、その目に映させたくはなかった。

百合が追ってくるのに気づいて、幼子はその場から逃げていく。短く細い手足を精一杯振って、息を切らしながら。

が、その小さな肩を百合の冷たい手が掴んだ時、幼子の目が恐怖に染まった。

震撼したのは幼子だけではない。

彼女を追い詰めた百合も同じように、打ち震えていた。

幼子に触れた瞬間、彼女の体に途轍もない量の呪力が廻っているのを知覚したからである。

彼女はこれほどの呪力を持ちながら、それを百合にも蘇芳にも一切感じ取らせなかった。

人間離れした巫術を扱う事のできる巫覡、その巫覡をも圧倒する天賦の才を持つ者がいるとするならば、それはもう人間との縁を持たぬ存在。

「バケモノ……!」

その言葉を聞いた時、幼子の薄茶の瞳が大きく見開かれ、悲痛に染まる。

「バケモノ……! バケモノ! バケモノ!」

理性を消失させた百合が幼子の両肩を掴み激しく揺さぶった時、力無く降ろされた少女の手から、何かが滑り落ちた。

それは糸で綴じられた一冊の帳面。

無機質な深緑色をしたそれは、並みの帳面とはおよそ異なる禍々しい気を放っている。

頁を開いた状態で地面に落下したそれの、黄檗色の紙面に文字が書かれているのを百合は見た。

それは、明らかに幼子の拙い筆によるものだった。太さも強弱も異なる歪な墨の跡が、頁一面を埋め尽くす。

藤十郎、清兵衛、お糸、瑠璃、弥太郎、千代、蛍、源太夫。

全て人の名前なのが、誠に不気味であった。

「あ、ああぁぁ、あぁ!」

そして百合はその頁の隅に、よく知る名を見たのだ。

いいや、よく知るという言葉ではあまりに足りない。

彼女が愛し、大切に想い続けてきた唯一の人の名前。

『蘇芳』

と。

その文字だけが真新しいものだった。

他のどんな名より色濃く記されていた。書き終えたところに墨溜まりができていた。強い、墨の匂いがした。

それが表すところの意味を、百合は理解したのだ。

蘇芳を殺したのは紛れもなくこの幼子。

この幼子は、名前を書くことで人を呪い殺す巫術を持っている。

けれど、本当の意味で彼を殺したのは、兄の命を陥れたのは間違いなく自分なのだという事を。

彼女は自分の中で嵐のように荒れ狂う思いが一体どんな感情であるのか、分からなくなっていた。

確かなのは、途方もない絶望感が彼女を闇の底まで陥れていること、自害しても悔やみきれぬほどの自責の念が、彼女を押し潰そうとしていること、ただそれだけ。

百合が蘇芳の名を呼んだのだ。

普段は呼びなどしなかったのに、兄上は私を止めたのに、夢を語ろうなどと愚かなことをしたのだ。

兄上の言う通り胸にしまっておけばよかった。

彼女の中に、泡沫のように儚い思考が浮かび上がる。

なぜ兄上の名前を呼びたくなったのだろう。

あれが兄との最後の会話になると、どこかで自分は感じていたのだろうか。百合があんな風に蘇芳を呼んだのは、切望していた兄上との未来がこぼれ落ちることを、予感していたからなのだろうか。だから、あんな話をしたのだろうか。だから、兄上の名を呼んだのだろうか。

「ふざけるな!」

百合は自分自身に向けて絶叫した。

違う。

『断じて油断などしていない』だと?

慢心していたのだろう。呪力を感じられないからと、最後の最後になって気を緩めた。だから敵がいるかもしれない場で愚かなことをしたのだろう。お前が、お前自身が。

私が名前を呼んだせいで死んだ!

私のせいで、兄上が死んだ! 私が蘇芳兄様を殺した!

百合の瞳からとめどないほどの涙がこぼれ落ちてきた。一度拭ったはずなのに、なぜ止まってくれないのだ。

—殺せ—

百合の巫覡としての本能が、どす黒い闇と共に彼女に語りかけた。

彼女は袂から隠剣を抜いた。鋭利な刃を、少女に突き立てようとする。

—この少女を殺せ—

「そんなものでは、足りない」

しかし彼女はそんな暗鬱な本能すらかき消してしまうほど恐ろしい声で返答した。赤目の瞳から血の涙がこぼれ落ちるのを、幼き少女は見た。

もっと残酷に殺さなければ。もっと残虐に殺さなければ。地獄へ落とさなければ。

彼女はまさに幼子を殺そうとしていた隠剣を投げ捨てる。

「ぅあぁ」

幼子が声を上げた。

幼子の額から玉のような汗がこぼれ落ちる。

彼女の手が、震えながら地面へと伸びていった。

それはまるで見えない糸に吊られる操り人形のように不自然な動きであった。

明らかに幼子の意志でないとはっきり分かる。幼子の片手が帳面へと伸びる。もう片方の指は、筆を握ろうとする。

「いや……い……」

必死に抵抗しようとする幼子であったが、声を出すことすらままならないようだった。

なぜなら彼女は、百合の持つ巫術に絡め取られていたからである。

百合は、触れた者の身体を操る巫術を持っていた。

「殺せ! 仲間の名を書け! お前が! その手で!」

百合がたとえ名前を書いたとしても、その人を呪い殺すことはできない。名前に呪詛を込めているのは名籠めであって、百合ではない。

だからこそ百合は幼子に、死よりもっと残酷な死を与えようとしていた。幼子自身の呪いによって、花喬影の仲間を殺させようとしたのである。

「いや!」

幼子は泣きじゃくる。

必死に抵抗しようとするのに、震える腕は言うことを聞いてくれない。

幼子はあの時、百合の手篭めになる前に逃げなければならなかった。

振り向いてはいけなかったのだ。

巫覡に慈悲などない。

そんな人間の持ち合わせる情を抱いているようでは、人間との縁を分つ巫覡になどなれない。仮になれたとしても、生き残ることなどできないのだ。

だがたった六歳の巫覡—名籠めに、どうしてそんな冷酷な心を持ち合わせることができただろう。

百合が発した「バケモノ」という響きが幾重もの波になって、名籠めの頭に残る。

それは、幼い名籠めに何度もかけられた言葉だった。

その言葉を聞くたび、名籠めは息をしているのもままならないような気持ちになる。

幼子—花喬影の一人「名籠め」のことを、まるで巫覡になるために生まれてきたかのような子だ、とかつて嶺然は表現した。

通常巫覡の力は、尋常ならぬ苦痛を伴った訓練を経ねば会得することができない。

が、名籠めは神から授かったかのように、生まれた瞬間からそれを持ち合わせていた。

帳に名前を書き、名籠め自身が対象のそばにいるだけで良い。彼女はそれだけで、人を呪い殺せてしまう。呪い殺すことができてしまう。

その不気味さゆえに、名籠めの両親は彼女を捨てた。

善意を持って名籠めを引き取った養父たちも、たった一年と持たなかった。

誰も彼女を引き取ろうとしなかった。

皆が彼女を、「バケモノ」と呼んだ。

自分の能力が良いものでないことは分かっていたのだ。人を悲しませる力だと、幼いながらに勘づいてはいた。

だからあの時蘇芳の最期と、百合の叫びを聞いた時、それを引き起こしているのが紛れもなく自分だということに、彼女は心を痛めた。

—きっと私は地獄に堕ちなきゃいけないんだ。

自分が不幸にさせてしまったのだから、罰を受けなくちゃいけない。

—いっそこのまま一息に殺されてしまいたい。

そうすれば、この人は喜んで、私は地獄に堕ちる。みんな、幸せになる。

けれど、彼女はどこかではっきりとそれを拒んでいた。

赤雲、黒鷹、澄川、嶺然。

名前が頭に思い浮かぶたびに、百合に操られた手がその名を帳面に記そうとする。

「だめ!」

彼女は必死に、その名前を忘れようとした。頭の中から振り払おうとした。

両親に捨てられた。何人もの家を転々とした。皆が名籠めをバケモノと言った。

けれど、彼女は花喬影という家に行き着いた。

そこは今までもどんな家とも違った。

誰も名籠めのことを怖がらなかった。名籠めのことを大切にしてくれた。

泣いてしまった時は、そばで涙を拭ってくれた。笑わせようとしてくれた。

初めて名籠めに、愛を教えてくれた。

人を不幸にさせるはずの名籠めの力が、花喬影ではみんなを救う力になった。

そんな名籠めの大切な家族が死んでしまうことが、他ならぬ自分の手で死んでしまうなんて、名籠めには耐えられなかった。

彼女は、決断しなければならなかった。

「早く! 名前を書け!」

百合の息が荒くなっている。

その額には青紫の血管が幾筋も浮き出ていた。

彼女は名籠めの凄まじい呪力に圧倒されていた。

百合は完全に名籠めの体を支配している。通常なら数秒もたたずして素直にその名を書かせられるはずなのだ。

そのはずなのに、この幼子の抵抗は凄まじい。幼子の抵抗する時間が長くなればなるほど、百合は己の巫術を保つのが難しくなっていく。

「わかった」

その時、名籠めが口を開いた。

それは百合の巫術に苦しむような声でも、仲間を手にかけることに打ち震えているわけでもなかった。

百合は息を呑んだ。

名籠めは笑ったのだ。

幼い少女に、人を殺すことに日々胸を痛めてきた少女に、誰かの命を天秤にかけることは難しい。

巫覡として完璧である彼女の唯一の弱点は、情を抱いてしまうこと。無情に敵を殺すことができないこと。彼女は心の底から花喬影の家族にも、百合にまで幸せであってほしいと思ってしまう。

それを一体誰が咎められるのだろう。

彼女は齢六歳の巫覡である。

けれど彼女は巫覡であるより前に、たった六歳の、少女なのだ。

彼女はその笑顔の裏で、初めて決断をした。

選べないからこその、決断を。

彼女の指が、震えながら動いた。

そこに書いたのは、

『名籠め』

—いつか、自由になったら。

—みんなで笑い合おう。この桜の木の下で。

あの桜の木の下で交わした盟約は、守れなくなってしまった。

「ごめんね」

彼女は許された最期の時間、家族に別れを告げた。声は届かないけれど、それでも伝えたかった。

黒鷹兄様、澄川兄様、嶺然どの。

「姉様……」

名籠めの体に幾本もの血筋が刻まれる。蘇芳と同じ最期だ。名籠めの体が八つ裂きになる。

宙に投げ出された頭部、薄茶の瞳が光を失っていく。

名籠めは自らの巫術で、自害を選んだ。

百合は、浅い息を繰り返す。

あれほど激しかった争いはいざ決するとまるで泡沫のように一瞬で終わってしまった。

静寂に包まれた町で、百合は力無く座り込む。

静寂が突きつける現実。

兄、蘇芳がこの世にいないという事実。

蘇芳が死んだあの光景が、頭に焼きついて離れない。

けれどもうひとつ、百合の心を乱すものがあった。

『姉様……』

あの幼子が発した最期の言葉。

姉というその響き。

あの子が巫覡であるがゆえ、あの子に本物の姉があったかは定かでない。けれど確かなのは、あの子には姉と呼べるような大切な人が存在していたということ。

それは、蘇芳という兄を大事に想う自分と何が違うのだろう。

百合は静かに思案した。

違わない。きっと何も違わないのだ。

どうして巫覡が生きることはこれほどまでに難しいのだろう。贅沢なんて望んでいない。ただ大切な人と、穏やかに生きていくことができればそれで良いのに。

地面に這いつくばりながら必死で生きる道を探せば、同じ身の上の者と殺し合わなければならなくなる。

助け合えたかもしれない相手を殺めなければならなくなる。

兄上との未来は潰えた。

兄上と平穏な世を生きることが夢だった。百合の生きる意味はただそれだけだった。

このまま全てを諦めて無抵抗のままに殺されても、きっとそれでもいいと思ってしまうと、そんな自分の最期を受け入れてしまうと百合は確信していた。

今の百合に生きる意味などないのだから。死んだら天国で兄上に会えるかもしれないのだから、その方が楽だと。

けれど。

百合は震える足に力を込めて立ち上がった。

こうして敵と相見えて、敵の思いを知った今だからこそ譲れない。

どこまで行っても残酷なのは、修羅の道なのは巫覡の性なのだから。どんなに近しい身の上だろうと、互いの大切なものを守るために、争わなければいけない。

今の百合にはまだ、守れるものがあった。

今の百合があるのは蘇芳のおかげ。

蘇芳が支えてくれたから、百合は存在している。

百合は、百合を守るのだ。

この世界で彼女だけが、蘇芳が存在してきたという証なのだから。

だから、百合は立ち向かう。

名籠めを追ってやってきた赤雲へと。

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