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九 巫覡の道を選んだ者

逢魔時も末、太陽はとうに長屋の影に隠れ、嵐町が暗闇に包まれ始める。

そんな宵闇に似つかわしく、女は月光のように凛とした声で問うた。


「その禊祓の術、嶺然に教わったのかえ」


女の顔は薄衣に覆われ把握することが叶わない。

けれどその隙間から微かに覗いた左目が怪しく光るのを見て、澄川は女の並々ならぬ気迫を感じた。澄川は呪力感知が不可能だが、そんな彼ですら、彼女の恐ろしさを感じ取る事ができたのだ。

暗影に骨身をうずめ、憤懣、怨嗟、恐怖、この世に存在するあらゆる負の感情を愛で、同時に寵愛を受ける者。

その性質は差し詰め巫覡の中の巫覡。

彼は女が相対すべきでない人物であることも、けれど己には逃げることも隠れることも叶わないということも理解していた。


「嶺然は俺の主。ひいては花喬影の長だ。それ以上でも以下でもない」


冷酷に言ってのける澄川に、姉女はくつくつと堪えるように笑った。


「何、そう警戒せずとも良い。信長に仕える花喬影の主嶺然など、大抵の巫覡は知っておるわ。あやつが名を馳せるほど強力な巫術を持つこと、よもやその術ひとつ使えぬ程呪いに侵されていることもな」


姉女の前に小手先の欺瞞など伝わらない。姉女は澄川を冷笑した。


「主がろくに巫術も扱えぬ役立たずであるとは、げに不憫な奴らよ」

「貴様の下につくよりはましだろう。彼の戦いを見ていたな。なぜ手出しをしなかった」


例え姉女が嶺然のことを知っていようと、澄川が彼の長子であることが明らかになっていようと関係ない。彼はまるで示し合わせたかの如く現れた姉女に、怒りを抱いていた。

死華に怪しい素振りはなかった。彼の言葉は本物だった。

とすれば、姉女が彼を見殺しにしたとしか考えられなかったからである。


「吾が来た時には、あやつはもう死に落ちていた。死に救いを見出し、魅せられていたのだ。それにお前程度に死ぬ巫覡なら、例え生きながらえたとしても良いことなどありはしない」


何を言えば澄川が腹を立てるか、姉女は手に取るように見えているようである。彼女は無機質な彼の表情の奥にある、機微な変化をも見逃さない。

が、澄川には彼女の口から発せられる言葉が真か偽りか、その仮面を計ることができなかった。まるで底のない深淵を相手にしているようだ、と澄川は思う。

そして彼はそんな姉女の振る舞いに、詩雨と似たものを感じた。


「くく……清く生きようとする者の死に様ほど面白い」


そうせせら笑った時、姉女の醸し出す雰囲気がはっきりと変化した。

その笠の下で、不健康なまでに血の気の失せた姉女の唇が胡乱に持ち上げられる。

宵闇がその影を濃くし、吸う息ひとつひとつが鉛のように重くなっていく。


「さあ、もっと愚かな死に目を、吾に見せておくれ」


姉女は宙へ向けて恍惚に手を伸ばし、その手のどことも言えぬところから何かがぐつぐつと湧き上がって来るのを、澄川は見た。

毒毒しい液体がより集まって、固体を形成してゆく。

やがてそれに無数の足がつき、光沢のある羽がつき、ぎょろりと飛び出した二つの目が互いに八方を向くと、澄川へ向けて焦点を合わせる。


「なぜだ」


それは、間違いなく澄川が祓ったはずの蟲だった。

彼は真横の死華の死体を見た。

万に一つと思ったが、やはり死華は息をしていない。

では甕の中はどうか。それも否である。

甕は全ての虫を吐き出し、その空っぽの体を無機質に横たえていた。


「禊祓というのを、私にも見せておくれ」


姉女の声に合わせ、その手の上で羽ばたいていた蟲が、瞬く間に分裂した。

それも一度ではない。

四つ、六つ、十、十六。

彼らは死華の用意した蟲など軽く凌駕するほどに増殖してゆき、もはや壁と見紛うほどの蟲が、一斉に羽をばたつかせる。

その声が互いの個体に伝染してゆき、静寂に包まれていた通りは瞬く間に悍ましいまでの奇声に包まれる。


「呪詛があるのなら祓うまで」


澄川は祓えの形に指を組み、即座に祓詞を唱えた。


「ツクヨミ大神、生死を告げ給え、急急如律令」


澄川から清浄な禊祓の術が放たれた。

彼の洗練された清めが呪いを穿ち、蟲は息絶えるはずだった。

はず、だったのだ。

蟲は消えなかった。その鳴き声が途絶えることも、灰燼の様に化すこともなかった。

なぜだ。あり得ない。

澄川は間違いなく禊祓を実行した。

それがあの蟲らに通用することを彼はすでに知っている。彼はそうやって死華を倒したのだ。

澄川にとってこれほど手応えのない禊祓は初めてのことだった。


「天切る、土切る、八方切る、ふっ切って放つ、さんぴらり」


自分の禊祓の所為かと、彼は異なる祓詞を発する。

が、それでも蟲は止まらない。


「ツクヨミ大神、生死を告げ給え、急急如律令!」


澄川の元へ蟲がまっすぐに飛んでくる。

早くしなければ、早く祓わなければ!

冷静な澄川の額に玉のような汗が浮かんでいた。


「ツクヨミ大神!」


声が届いていないのか。

何が悪い。何が違った。頼む。力を貸してくれ。

俺はこの戦いに勝たねばならない。

勝たなければ、選び取った大切な者たちさえ消えていってしまう。


「ツクヨミ大神! 生死を告げ給え、急急如律令!」


澄川は喉が枯れるほど叫んだ。

祓えの形に組んだ指はこれまでにないほど固く握られ、強く押さえられた指やら手やらは熱を帯びるかの如く赤らんで、それでも彼は唱え続けた。

もはや一寸もないほど目の前に、蟲が押し寄せても。


「っくはぁ!」


澄川の口に、蟲が入り込んだ。

彼は勢いよく咳き込む。その隙をついて蟲はさらに澄川の体内へと入り込んでいく。

息をすることなどできなかった。喉の奥で奴が激しく暴れている。

抗おうと伸ばした手は、次いで押し寄せる大群に遮られた。

意識が朧げになっていくのを、その痛みや感覚がどこまでも遠い空の中に溶けていってしまいそうなのを感じながら澄川は決死の思いで腕を動かそうとする。

視界を奪われた体で、必死に袂の刀を探る。

蟲に食い尽くされれば、澄川は蟲の傀儡となってしまう。

それだけはいけない。自害しなくてはならない。

この手で仲間を殺めるのだけは、どうしても耐えることができない!


「ぁ、ぁった」


奇跡である。澄川の指が金属の冷たく鋭利な感覚に触れた。彼はそれを、持ち上げようとする。


「自害など許さぬ」


が、彼の正面、すぐ近くから姉女の声がした。

ようやく掴んだ刀の感触が一気に遠ざかり、空中へ霧散していったかと思うと、彼は左腕に激しい痛みを覚えた。

その部分から大量の血が吹き出してゆくのを感じる。

澄川の腕が斬り落とされたのだ。

他ならぬ姉女の手によって。

その瞬間、彼の視界が開けた。

いつの間にか喉に突き刺さった蟲の感覚も、永遠に続くかと思われたあの息苦しさも風のように攫われていた。

彼は今し方自分の腕を落とした姉女の顔を見、そして通りを埋め尽くすほど大量にあった蟲たちの姿が一切ないのに気づいて、すべてを悟った。

今まで自分が祓おうとしていた蟲が、すべて幻だったことを。

死華を殺したのは間違いない。

しかし、姉女の遣わせた蟲は初めから存在しなかったのだ。

澄川は気づかなければならなかった。

一匹残らず抹消した蟲がなぜ再び現れたのか。

蟲使いたる死華はすでに息絶えていたというのに、なぜ蟲が澄川の方へ向かってきたのか。

姉女があれほど大量の蟲を生み出すことができたのはなぜか。

不可能であったのだ。

不可能であったからこそ、あれらは幻だった。

澄川は姉女と相対した時から、彼女の幻影の巫術に絡め取られていた。

初めから、姉女に負けていたのだ。

姉女は腕を失った澄川の腹に、もう一度刃を突き刺した。

姉女の体が澄川に密着し、その体勢のまま彼女は澄川の耳元で囁いた。


「吾の名前は県狗飼姉女。あの世で覚えておけ」


そんな残酷な捨て台詞を澄川に向ける。


「あが、た……!」


澄川は喉元から湧き上がってくる血液を堪えて、えずきながらもその名を繰り返した。

県狗飼姉女。

その名を、聞いたことがあったのだ。

それはもう数十年も前の話だったと思う。

一人の巫覡が依頼を受け、有力な武将の家督争い、その一方に加担することになった。

依頼主は自分の相続を邪魔する兄弟を呪い殺すようその巫覡に命令したそうだ。

その巫覡はその通りに依頼主の兄弟を呪い殺した。

結果、兄弟のみならず、依頼主、彼の者と血を分けた全ての血族が死に絶えた。

その巫覡は一度の呪いで、血族すべてを呪殺してしまったのだ。

家督争いをしていたはずの武将一家は一人の世継ぎも残さず絶え果て、武将のおさめていた国もろとも滅びてしまったという。

そんな世にも恐ろしい事変を起こした巫覡の名が、県狗飼姉女だったのだ。

そして、澄川は凄惨な事実に気づく。

そんな巫覡が、今目の前にしている巫覡が紛れもなく県狗飼姉女その人ならば、自分が呪い殺された時に何が起こるのか。


「お前の父嶺然は、お前と共に死ぬ。お前のせいで、奴が死すのじゃ」


姉女は巫術をかけた者のみならず、その者と血を分けた全ての人間を、一息の内に呪い殺すことができた。

幻影を見せた隙に、その者の体に呪いをかける。

それが姉女の巫術、姉女が恐れられる所以だった。

澄川を呪い殺せば、彼と血を分かつ嶺然もまた死す。

澄川の中に、どうしようもない絶望感がしとしとと降り落ちていく。

彼は激しい自責の念に駆られた。

姉女にすべてを握られていた。その手の上で弄ばれていた。

—お前は巫覡じゃないな!—

何故かその時、死華の言葉が思い出された。

ああ、そうかもしれない。俺は、巫覡にふさわしくないのだ。

澄川は思った。

彼は為す術なく巫覡になったのではない。自ら巫覡となる道を選んだのだから。

初めに巫覡を志したのは、単なる子供のわがままだった。


『お前は巫覡になどならなくて良い。儂と違う道を選べ』


嶺然に言われ、数年神社で禊祓を学んだ。

禊祓の術を持つ者はその力を神道や仏教から頂く。故に大抵の祓師は神社や寺院に所属する。澄川もそうなるはずだった。

けれど澄川の意地の悪い本能がそれを許さなかった。

彼は嶺然のことを恨んでいた。

自分が巫覡の生まれで苦労したからと幼い巫覡たちにばかり情をかけて、実の息子である自分を蔑ろにする彼のことを、心底憎んでいたのだ。

だから巫覡となった。

俺も大概子供だ、と澄川は自分に呆れる。

きっと父親に振り向いて欲しいだけだったのだ。

彼を父親と思えないからこそ、澄川は嶺然に愛してもらいたかった。

彼の、子供として。

—すまない、父さん。—

澄川は巫覡として役目を果たすどころか、彼自身の失態で、嶺然の命まで奪ってしまう。

愛してもらえずとも当然のことだ、と澄川は静かに涙を流す。

花喬影の一員として彼が過ごした時間、幼い巫覡たちと過ごした時間、何度も胸が張り裂けそうになった。

憎しみの気持ちで巫覡になったのに。

初めは幼い彼らのことを、どこかで憎んでいたのに。

彼らの涙を見ていた時間の方が長かったから。

彼らが純粋だったから。

必死で、生きようとしていたから。

日々を重ねるたび、彼らに幸せになってほしいと思うようになった。

澄川は彼らの笑顔を見るたびに嬉しいと、そう思うようになった。

今なら分かるのだ。嶺然の気持ちも、ほんの少しだけだったが。

彼らの力になりたいと思う、その気持ちだけは。

俺は巫覡ではない。自ら巫覡の道を選んだ。

初めはただ、父親に気にかけて欲しいと、碌でもない感情でなった巫覡という立場。

だが彼はそれでも巫覡をやめなかった。

澄川が巫覡となった理由は、変わったのだ。

澄川の大切な家族となった花喬影の衆を、守りたいと思ったから。

そのために彼は、巫覡の道を選んだ。

姉女が澄川の体から剣を抜こうとした瞬間。


「禊ぎ、祓え……!」


澄川は最後の力を振り絞って、祓詞を唱えた。

指を組むことも正式に唱えることも叶わない彼の言葉の持つ力はひどく脆く、弱い。

けれど彼はもう動けまい、そうたかを括っていた姉女にとってそれは意表をつくに十分な攻撃だった。

垂れ衣に覆われたその体が、澄川の微弱な禊祓に一瞬体を震わせたその刹那を、彼は見逃さなかった。

刀を抜かれ、今にも地面に倒れゆこうとするその最中、澄川は残された右腕でその笠を思い切り引っ掴んだ。


「触るな!」


姉女が払い除けた瞬間、澄川の腕は呆気なく姉女から離れる。

立つこともままならない彼の体が地面に投げ出される。

澄川は、抵抗虚しく絶命した。

無惨にも転がった死体、夜風に攫われる蟲の灰燼、気を失った民衆で溢れる通りの中心で姉女は死華と澄川の死体を見下ろすと、静かに呟く。


「見事な死に様であった」


彼女は死体に背を向けると、再びその身を巫覡の乱に投じてゆく。

凄惨で残忍な、人殺しの戦。

次の獲物を狩るため、その後ろ姿が暗澹たる闇夜に溶けていった。



澄川が息を引き取ったのと、同刻。

赤雲は息を呑んだ。

澄川の髪を持つ手が小さく震える。

黒鷹に名籠め、そして赤雲をそばで支えてくれた澄川。

黒鷹がふざけたことを言った時は困ったように笑いながらたしなめて、寂しがり屋の名籠めを笑わせるのが得意だった澄川。

彼の膝に乗せられて楽しそうに笑う名籠めの姿を赤雲は何度も目にした。

赤雲自身も、怖い夢を見て寝られなかった日は澄川に話を聞いてもらった。

どんなに遅い時間であろうと、彼は嫌な顔一つしないで赤雲の話を聞いてくれた。

包み込むように大きな手で頭を撫でてもらった時、赤雲や名籠めたちがどれだけ安心したことか、何度その穏やかな優しさに救われたかしれない。


「澄川兄様」


けれど時折憂いを帯びた表情で空を見上げる澄川の姿を目にする度、赤雲はいつか澄川の力になりたいと思っていた。

いつか澄川兄様の抱える悩みを聞けるようになりたい。

守られるだけでなく、守ることができるように、と。

それがついに叶わなくなったことを知り、赤雲は強く自分の両手を握りしめた。

嶺然がこれを聞いてどう思うか。

それはきっと赤雲には計り知れないほど辛く苦しいことだと彼女は目を伏せる。

彼らは父子であり、そしていつも二人の間に微妙な距離があること、互いが互いに物言いたげだったのを赤雲は知っていた。


「嶺然どの」


赤雲は嶺然の名を呼んだ。

しかし、嶺然の返答はない。

赤雲はそれに強い違和感を覚えた。

嶺然は先ほどまでと同じようにじっと座しているように見えるが、朧げな赤雲の目ではその輪郭をはっきりと掴むことはできない。

だが赤雲の声に応答しないこと、その姿がうんともすんとも言わないのに、背筋がぞっと冷えてゆくのを感じた。


「嶺然どの?」


赤雲は立ち上がる。

彼女の頭に浮かんだ恐ろしい可能性が、瞬く間に赤雲の中に広がってゆく。

即座に否定したかった。

そうではないと安心したかった。

赤雲の細い手が、嶺然の胸元に触れる。

嶺然の心拍は、すでになかった。

その手が胸元を滑り落ちる。

嶺然はじっと座したまま、あまりに唐突にその生涯を終えたのだ。

彼女は震える手を再度持ち上げて、嶺然にかざす。

巫術を扱い、呪力を感じることのできる赤雲には、その死因が分かった。

病でも、長年に渡って嶺然を苦しめていた嶺然自身の呪詛によるものでもない。

赤雲はそこに、第三者の呪力が干渉したことを認めた。


「結界すらも……破られた」


それは赤雲が知覚したことのない呪力の形、間違いなく敵の巫覡、月光殲によるものであった。

赤雲は静かに涙を流す。

子供のようにしゃくりあげることもなく、ただ淑やかにひっそりと。

彼女は知っているのだ。

もう自分の涙を拭ってくれる人はいないのだと。

残されたのは、赤雲、名籠め、そして詩雨のみ。

仲間から敵の髪を受け取ることも、自分で探しにゆくこともできないことに、赤雲は己の無力さを思い知った。

だが、互いに血を流し合う苛烈な巫蠱の戦いに、もはや十分な時間など残されていない。

彼女にも、決断の時は迫っている。

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