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「”トラ”って、当日来られなくなった人の代理で演奏することですわよね……」
「は、はい……」
私はバーカウンターにもたれ、りんごジュースを飲みながら、永井さんに話しかけていました。
永井さんはお客さんへジュースやアルコール飲料を渡しながら、私の言葉に無言でうなずきましたわ。唾が入ってはいけないから、あまり喋らないようにしているらしいですわ。
「で、はくりさんとりんさんはその……トラのバイトをしていると」
「そっ、そうですね。えっと、清掃とか接客とかもしてる私と違って……りっ、りんさんとはくりちゃんは、トラ専門のバイトです」
ある程度お客さんがいなくなってから、永井さんは紙コップに入った水で喉を潤しながら、私の確認の言葉に頷いてくれました。
同年代でありながら、(失礼ではありますが)見た目が怖そうなお客さんたち相手に、(多少どもっているとはいえ)ちゃんと接客をすることができている……これでなんで普段の態度がこう、怯えた感じなのかしら。永井さんは立派だし凄いのだから、もっと自信を持てばいいのに。
それはともかく……このライブハウスで拝見させていただいたライブを見て浮かんだある疑問を、永井さんに尋ねてみることにしましたわ。
「……あのお二人、出番多くありません?」
りんさんが演奏を終えて舞台を降りたらはくりさんが、はくりさんが演奏を終えて舞台を降りたらりんさんが……と、立て続けと言いますか入れ替わりと言いますか、ほぼほぼ二人の顔を見ているような気がしますわ。
お二人とも高校生とは思えない素晴らしい演奏(それでも、彼女たちがトラとして入っているバンドのファンらしき人からは少し落胆の声がありましたが)を披露してくださり、他のバンドメンバーとも特に支障のないように朗らかな様子でやり取りをしていました。……連続して出演しているのに、演奏技術に全然衰えが見えない事に引いているようにも見えましたが。
私が疑問の言葉を口にすると、永井さんは少し言いづらそうに目を伏せながら、口を開きました。
「わっ、割とドタキャンが多発するのがバンド界隈ですので……」
「ど、ドチャキャン……?」
「え、えっと……やっ、約束を破って、来ない事、です……」
約束を破って来ない……つまり、ライブする予定があるのにこのライブハウスに来ない、ってこと!?
このライブハウスでライブするにはチケットノルマというものを、観客たちに買ってもらわないといけないらしいのですわ。もしノルマを達成できなかったら、その分は自腹で補填するという形式らしいのです。つまりは、ここで演奏するのも無料ではない、お金を払っているということですわ。
更に、普段から幾度と練習を重ね、チーム全体が一丸となって挑むのがライブというもの。この世界に入ってまだまだ日が浅い私でも、そのくらいのことは分かりますわ。普通の仕事よりも、チームワークが優先されるものだと。本番をサボって軋轢を産むなど、あってはならないものだと。
それなのに……なんでそんなことしますの!? なんでサボっちゃいますの!?
「なぜそのようなことを……?」
「さっ、さあ……?」
「みちる、急で悪いけどカンテラのとこにトラ行ってくれない?」
「あっわっ、分かりました。そっそそそれでは高橋さん、はっ話の途中で申し訳ありませんが」
「大丈夫ですわよ。頑張ってきてくださいまし」
永井さんはにへらと笑いながらドリンクカウンターを出て、店長さん……ですわよね? が言っていたであろうバンドメンバーのところへ行きましたわ。
それに入れ替わるように店長さんがドリンクカウンターへと入りました……が、何かしらこの威圧感は。……顔から腕にかけて入っている炎のようなタトゥーが原因ですわね。
店長さんは、トラの出演を依頼したであろうバンドメンバーのところへ小走りで向かう永井さんを見送ると、不意に私の方に視線を向け、紙コップを片手で揺らしながら私に尋ねましたわ。
「……お代わりいる?」
「あっ、いただきますわ……」
淹れてもらったリンゴジュースを飲みながら、私はさてどう接すればよいのかと悩んでおりました。
自分では結構誰とでも打ち解けられる、もしくは誰相手だろうと強気に出られる人間だと思っていましたのに……このライブハウスの人たち相手だと、どうも委縮してしまいます。私は所詮、井の中の蛙だったということですわ……。
「……ライブ、楽しめてる?」
「ええ。普段はこういうところに全く足を踏み入れませんので、とても新鮮ですわ。それに皆さん、とても生き生きと輝いていますわね。まるで花火のように」
店長さんの言葉に、私は頷きましたわ。
舞台に上がる奏者たちは、誰もがぎらぎらと輝いていますわ。洗礼はされていない荒削りの、命を燃やしているかのような情熱を込めた演奏……見ていてとても心惹かれますし、心の底から熱くなれますわ。
みな、このライブに全力をかけている。これこそが生きがいだ、この為に今日まで練習を重ねてきたんだと、そう思わせるような演奏。心惹かれ、惹きつけられる演奏ばかりですわ。
だのに、だというのに……
「ライブをバックレる人がいるなんて、どういう事ですの……?」
「そればっかりは私も答えられないねぇ……事故に遭ったとか恋人に刺されたとか仕方ない理由ならともかく、寝坊して行きにくいとか練習全然やってなかったとか、なんか突然やりたくなくなったとか……まっ、色々さ」
「それ許されるものなんですの!?」
「経営者の立場からすればマジふざけんなだね」
セトリとかマジ狂うからね、と眼だけ笑っていない笑みで言いながら、店長さんは紙コップに注いだコーヒーを一気に飲み干しましたわ。
色々ある、で済ませていいものなのかしら……とは思うものの、私は何も言う事が出来ませんでしたわ。
私も、それこそこのライブハウスを経営している店長さんですら何も言えない、下手に突っ込めない物事だというのはなんとなく察することができましたわ。
「バックれるバンドマンが多い分、しっかりと予定が入っていたら来る、遅れそうなら連絡をする、この二つを守れるバンドマンの評価はぐんと上がるよ。店長である私からも、周りの身内からもね」
そう言って店長さんは、ふいに、私が半分飲み終えたカップを手に取り、りんごジュースを淹れてくださいました。
音楽の才能ではなく、人として当たり前の約束を守ることで評価が上がる……というのは、音楽業界としてはどうなのかしら? そう疑問に思いながらも、私は深く突っ込む事ができませんでしたわ。
とかなんとか言っているうちに、永井さんが舞台へと上がりました。どうも店長さんと話している間に結構な時間が過ぎていたようですわ。
でも裏である程度の合わせをするには時間が足りていないような気がしますわよね……?
「君には期待しているよ。あいつを困らせない、バックれない人間だと、ね」
「いや、そこはギターの演奏を期待して──」
私の言葉も、思考、何もかもを、永井さんのギターが消し飛ばしました。
りんさんやはくりさんのような、演奏は合っているもののやはりどこかサポート感は抜けきらない、溶け込めなさを感じていましたが……永井さんのギターは、そういったものを全く感じさせません。
まるで正規のメンバーのような、完全に溶け込んでいる。何十年と共に演奏を続けてきたかのように、息も空気もすべてがぴったりと合っている。
私にとってあのバンドは初見初聞だというのに、そう思わせるような空気がありました。
目を離せない。五感の全てが、彼女の演奏に、ただひたすらに惹きつけられている。どこか刹那的で、どこか永劫的な彼女に。
そんな私の隣で、店長さんはからかうような笑い声で私に言いました。
「あいつ並になろうとは思っちゃいけないよ。あれは──捨てた人間じゃないと至れない」
「……捨てた、ですか」
自然に入ってきた店長さんの言葉、その意味がすっと腑に落ちる表現でした。納得のいく言葉でした。
ああ、なるほど……永井さんのギターは、研ぎ澄まされているのでしょう。国宝として奉られている刀のように。傷一つない宝石のように。ギターにすべてを注いで、それ以外を全て斬り捨てて。
だからこそ、どうしても憧れてしまうのでしょうね。あらゆるものを捨てられない人間である私は、永井みちるという芸術に。
──ああ、本当……格好いいですわね。永井さん。




