A and Z
見渡す限りチェスの基盤のように交差する白と黒しかないキューブ状の空間。
壁はすぐ近くに見えて、地面は遥か遠く霞んでいるような、空も地面もどこにあるかさえ判別出来ない。
そんな不思議な世界を一人の少女が落下していた。
如何せん落下というには大分ゆっくり落ちているのは、少女がパラソルを広げてふわりと浮かんでいるからである。
ラベンダー色のパラソルに同色のエプロンドレスが可愛いらしい。傘の陰に覗くハニーブロンズの髪はすらりと整って額を隠し、顔のラインに沿って肩にかかっている。
アクセントにはめたビビットカラーのカチューシャには4つの飾りが均等に並んでいた。
あどけなさを残した唇に、丸みを帯びた水色の瞳。まるで人形のような出で立ちの少女だった。ただ造り物と称するにはあまりに、その瞳は好奇心や希望を集めてきらきらと輝いていた。
「そろそろ着くかな」
足元に鏡のように反射する自身の影を捉えて、ダイブの終が近いことを知る。折り曲げていた膝を伸ばすと、カツーンと軽快な響かせて透明な床に着地した。
何処からか風がそよぐ空間で、彼女はいそいそとパラソルを閉じる。そしてそのパラソルをステッキのように使って、空中に文字を描いた。
「言霊よ 汝に 継ぐは 言の葉。"こんにちは" 汝 呼応せよ」
パラソルの軌跡を追って粒子が瞬き、何も存在していなかった空間に"こんにちは"という言葉が浮かび上がった。続き様、パラソルが同じ軌道で動かされる。
「こんにちは、こんにちは! こんにちは~~っと」
4、5回繰り返し、無機質な空間に挨拶が幾重にも浮かぶ。満足気にそれを見上げている少女に抑揚のないトーンの声が降り注ぐ。
「アリス。執拗いって、何回言ったら解るんだい?」
「ゼロ!こんにちは」
気配もなく背後に立った少年に振り向いて、にっこりと微笑む。
少女の名をアリス。
少年の名をゼロと言った。
「まったく。"こんにちは"だらけじゃ落ち着かないでしょう・・・。消しておくね」
どこか面倒くさそうのんびり囁く。そのわり一瞬で文字は消失して、空虚な空間に戻った。
「久しぶりだったから、いっぱい書いちゃった」
「久しぶりって・・・まだ2日と22時間しか経ってないよ」
終始ニコニコしているアリスと対称的にゼロは無表情を崩さずパチパチと2回瞬きをしただけだ。
端的に言って執事の服を着た羊髪の少年。それがゼロだった。
執事と言っても白い装束のような雰囲気もある生成りの燕尾服を纏い、アリスをまっすぐ見る瞳は深い紫で、優しい顔立ちを引き立てている。柔らかそうな銀糸の髪はところどころでくるりと丸まっており、ふわふわとしていた。
「でもね。色々あったよ!」
「ふぅん?」
「えっとぉ。私ね、おととい世界の挨拶を習ったのよ。你好とかBonjourとか。昨日は昴がね、お花の苗を植えたの。綺麗なお花が咲くと良いなぁ。今日は博士が学会に呼ばれてお出かけしてるんだって」
指折り数えながら、立て続けにここ数日のたわい無い出来事が飛び出す。
このままではそのうち朝昼晩の食事のメニューまで事細かに語り始めそうな雰囲気だ。
それでも、ゼロと会えたのが嬉しくて仕方ないがないと輝いている瞳に免じて、ゼロは黙って聴いていた。
「世界中に挨拶っていっぱいあるんだね。教えて貰えて楽しかった。ええっとこういうのとか」
アリスが軽やかにパラソルを振ると、また空間に文字が浮かびあがる。
"Hallo world"
「・・・ちょっと、間違えてる気がする」
「呪文はあってるよ?」
「英語の綴りがね」
小首を傾げて不思議そうにしているアリスに、訂正した綴りが教えられる。
「あっ、過去のデータでは、そうなってる。今回だけ昴が間違ったのかな?」
「うん。そうみたい。ちゃんと修正して貰いなよ」
素直に相槌を打つ本人もゼロも、アリス自身が間違ったとは少しも疑わない。
それもそのはずで――
「昔のデータがあっても、最新のデータで上書きされちゃうのって不便だよね」
「AIってそういうものだし、仕方ないんじゃない?」
対話型学習支援AI。Alice。
それがアリスの正式な呼称だった。
そしてここはアリスの中の電脳世界だ。学習モードを解いて、フリーモードになった時だけ、アリスはこの世界にダイブ出来る。
「あっ、ゼロってば、AIを侮ってる! 後で博士に治して貰うんだからっ」
「侮ってなんかいないよ? ちゃんと認めてる」
いつの間にかこの電脳世界に居候しているゼロは、アリスにとっては正体不明の異物なのだが、物心付いた時にはここに居たため、それが当たり前になっている。
――電脳世界にダイブすればゼロと会える。
疑いようがない正解で、アリスは正解が好きだった。正解を好むように設計されているというのが正しいのかもしれない。
「ねぇねぇ今日こそ、ゼロの故郷を教えてよ」
「・・・アリスはほんと、人間っぽいよね。ぼく達に故郷なんて無いのに」
「そうかなぁ。でも昴はコンピュータにも生まれた場所があるはずだって」
「ふぅん・・・昴が、ね。とにかく無いよ」
困ったように幼い子供を宥めるようにゼロは首を傾げる。
それでもまだアリスは諦めきれずにいたが、ピクリと何かに反応して天を見上げた。
「・・・・・・昴が呼んでる。・・・戻らなくちゃ」
「まったく・・・忙しないね」
吐息をつく間にアリスの姿が薄くなる。
「また聴きそびれちゃった、故郷の話。・・・ゼロまたね」
残念そうに振られた手の指先から粒子となって消え、アリスは現実世界に戻される。
「故郷かぁ。ぼくはほんとに無いのに。何にも持てないから」
誰もいなくなった空間を見つめて嘯く。アリスがいない空間はがらんとしていて、ゼロの小さな呟きを聞き取るものはいなかった。