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来し方、行く末  作者: 紫乃森 統子


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二.婿取り

 

 

 屋敷町の平井道場は、城下でも人気のある道場だった。

 道場主の平井庄右衛門は藩校でも教授方を勤める一刀流の達人で、四十も半ばに差し掛かっていた。

 一連の事件の後にも態度を変えずに付き合いを続けてくれている、数少ない者の一人だ。

 家中の目を避けて道場からは足が遠退きはしたが、平井は時折与十郎の様子を見に家を訪ねてきていた。

「たかもとうとう、辞めてしまったか」

 荒んだ雰囲気の漂う家の中を眺め、平井は渋面を作った。

 掃除も行き届かず、床は塵が見えるほどに薄汚れている。

「どなたか、奉公先を探しているような人はおらぬものでしょうか。たかに暇を出してから、流石に私一人では家事一切まで手が回らず困っております」

「それはそうだろうが、なかなか難しかろうな……」

 そう言って、平井はちらと締め切った奥の襖に目をやった。

「皆、お主の身の上には同情しておるのだ。無論、親父殿に対してもな。算盤勤めから一転して普請組勤め。全く畑違いの持場に放り込まれては、ただでもやり難かろうに」

「それは致し方ありません。不忠者を出した当家の落度です。お上の御不興を買って当然のことでしたので」

「お主ら親子が悪いわけでないことは、充分わかっておる。彦之進殿も真に不運なことであった……」

 ただ、やはりそれと彦之進の病とは別な問題だと言う。

 気鬱を患って狂人となる者は、稀に居る。

 その大半が程無くして刃傷沙汰に及び、放たれた討手によって討取られる。

 そこまで至らずとも、座敷牢に入れられた。

「与十郎、お主は何か手を打とうとは考えぬか」

「手を打つ?」

 平井が言うのは、父のことに関してだろうなと見当がついたが、与十郎はあえて解せぬ振りをした。

 いつ暴れ出すかわからぬ父も、普段は閉じ篭もるばかりで至極大人しいものだ。

 それがかえって不気味さを醸しているのだが、与十郎は父を座敷牢に入れるようなことはしたくなかった。

 母は事件のすぐ後に心労から倒れて、程無くして世を儚んだ。

 他に兄弟もなかった与十郎にとってはたった一人の肉親なのである。

「勤めに家事に、親父殿の面倒まで見ていたのでは、遅かれ早かれお主まで倒れてしまう」

 平井は真底から心配しているふうだった。

 これからどうするつもりなのかと尋ねられ、与十郎は力無く笑った。

「……どう、と言われましても」

 当面は今の暮らしを続ける他ないだろう。

 先のことを考える余裕は無かった。

 平井は一つ喉を鳴らすと、僅かに改まった様子で与十郎を見据える。

「そこでだな、お主さえ良ければの話なのだが……。今後の宛がないのなら、いっそうちへ来ぬか」

「………」

 平井の言う意味がすぐには解せず、与十郎は眉根を寄せる。

「うちには娘ばかり四人もおる。その上、いずれも気が強くてなぁ」

 一番上の娘は二十歳になったが、婿がなかなか決まらない、とぼやきに近い口調で言う。

 与十郎も顔を合わせたことがあったが、平井の娘は、女だてらに目録まで受けていたと記憶している。

 気は強いが荒いわけではないし、取り分け醜女というほどでもない。

「門下に良い方がおられるのではありませんか」

「そう思うだろう。道場を継ぐに足るような実力のある者は一握りだ。更にその中で家督相続から外れるような二男三男となると、もう殆どおらんのだ」

 大きな道場を背負う身としては、誰でも良いというわけではないだろう。

 腕があっても嫡子であったり、そもそも家格が違いすぎたり、かと言って家格相応の者には腕のほうが今ひとつであったり。

 平井は額に手をあてがい、吐息した。

「うまく行かないものですね。あれだけの門弟がおありだというのに」

「志野ももう二十歳の声を聞いてはな、後がないのだ。下の三人を嫁入らせるためにも、早くに婿を取らねばならん」

 その婿になる気はないか、ということだった。

 当然、島崎家の禄は返上せねばならず、家は断絶となる。

 如何に苦しくとも、考えもしないことだった。

「親父殿に関しては、やはり平癒の見込みがなければ座敷牢に入って頂くことを了承して貰いたい。それさえ呑んで貰えれば、お主の腕にも家格にも何の申し分もない」

 どうだろうか、と促す平井を、与十郎はどこかぼんやりした気分で眺めた。

 

   ***

 

「父上、寒くはありませんか。今、火を入れます」

 奥の一間に立ち入ると、底冷えのする空気が満ちていた。

 仏壇と火鉢があるだけで、他には何もない。父が暴れるたびに物を減らし、仏間には殆ど何も置かなくなったのだ。

 行燈の灯が小さくなっているのに気付き、与十郎は中の蝋燭を灯し替える。

 父は仏壇の前に、背筋を伸ばして正座していた。

 それから長火鉢に炭を入れると、与十郎は何の気はなしに父の背中を見詰めて座った。

「今日、道場の平井殿が見えました。新しい奉公人のあてがないかと尋ねてみましたが……」

「儂に座敷牢に入れと申すのであろう」

 枯れ枝のように細くなった父の身体から発せられたとは思い難い、語気の強い声が返る。

 奥の仏間と茶の間では、話も届かぬかと思っていたが、聞こえていたらしい。

 すわ仏壇の鈴でも投げつけられるかと身構えたが、彦之進は身動ぎもせずに背を向けたままだった。

 与十郎は静かに首を振った。

「いえ、その話はお断り申し上げました」

「………」

「私には、あれだけ大きな道場の主などはとても勤まりますまい」

「………」

「奉公人はまだもう少し探してみます」

 滅多に話をすることのない父の声が、意外にもしっかりしたものであったことに与十郎は驚いた。

 しかしそれもたった一声きりで、あとは何を言おうとも返事はなかった。

 

 

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