第5話 ラオフェンの戦闘能力
当面の問題は変わっていない。
ギルド登録のための金はどうやって工面するのか。
薫の苦悩は増えるばかりである。
「静かに」
ラオフェンの纏う雰囲気が変わった。
(なに、この息苦しさ……)
空気の変化を感じ取った薫もまた、この森に〝何か〟が入ってくるのが分かった。
森の中には、川のせせらぎの音だけが響く。
息を殺してその場に固まる薫。
ほどなくしてソレは現れたのだった。
巨大な角と強靭な四肢。
前世で身近だった鹿によく似た化け物。
(鹿は草食のはずだけど……)
そんな薫の思考を読んだように、ラオフェンは短くこう囁いた。
「魔物は例外なく人を食います」
薫の額に玉のような汗が浮き出る。
明らかに野生の鹿が纏う雰囲気とは異なっていた。言うなればそれは、獲物を前にした猛獣のよう。赤い瞳は確実に薫達を見据えていた。
鹿の魔物が駆け出した――速い!
「ひっ……!」
短い悲鳴を上げる薫。
それと同時に、落雷の如き轟音が響いた。
鹿の頭部は粉砕され、拳を引き上げたラオフェンが薫に向き直り、微笑んだ。
「ご飯にありつけそうですね」
あっけらかんと言うラオフェン。
呆気に取られる薫。
(ラオフェンの方がよほど凄い力だよ)
引き攣った笑みを浮かべながら、薫は再び、ラオフェンの治療に取り掛かったのだった。
◇◇◇◇◇
近くに川があったことと、ラオフェンが火属性で魔法が扱えたことは、薫にとってこの上ない幸運だった。
香ばしい匂いに釣られたのか、お腹が聞いたこともない音を奏でる。
「……」
「大丈夫です。人体に害がある種類の魔物じゃありませんから」
ラオフェンは手慣れた様子でぶちぶちと皮を剥ぎ、ツノや爪を引きちぎってゆく。
焚き火を囲う形で置かれた骨つき肉。
表面が徐々に狐色になってゆくそれをひとつ掴むと、ラオフェンが先に齧り付いた。
「うまいですよ」
薫のために毒見役をしたようだ。
そんなことをされたら、大人しく食べるしかないだろう。別の肉を「どうぞ」と手渡され、薫はそれに口を近づける。
「いただきます」
意を決し――齧り付く。
ブチチと肉が千切れる音、染み出す肉汁。
「美味しい……」
肉の旨味が体全体に染み渡る感覚。
血抜きも何もされていない、手で引きちぎっただけの肉。血生臭さは拭えないものの、味に関しては文句なしに美味しかった。
驚く彼女の様子に微笑むラオフェン。
「魔物の肉は貴重なんです。魔力を帯びてますし、家畜の肉に比べ価値が高い」
そう言ってラオフェンはもう一口齧り付いた。
しばらく二人の咀嚼音が森に響いた。
パチパチと弾ける焚き火の音と、川の音。
底なしの食欲が発揮され、あっという間に食べ終わった薫。まだまだありますよと追加の肉を手渡され、今度は嬉しそうにそれへと齧り付いた。
まるで力が漲る気分だった。
事実、魔力を帯びた食材は失った魔力の回復に役立つ。路地裏の怪我人病人を助け回った薫の魔力も飢えていたからか、魔物の肉がとても美味しく感じたのである。
成熟した鹿を平らげた二人。
残ったのは臓器や千切れた皮だけだった。
おもむろに袋を取り出したラオフェンは、角や爪や骨、綺麗な石を中に詰めて背負った。
「これは貴重素材なので冒険者ギルドに納品できます。状態が悪いので、登録の金額に届くかは分かりません。ナイフでも買わないと綺麗に剥ぎ取れませんからね」
ラオフェンは嬉しそうに微笑み、ギルドに行きましょうと踵を返す。
彼の汚れ切った体を見ていた薫は我慢ができなくなり、服を脱ぎ捨て、声を荒げた。
「公共機関に行くのにこんなに汚れてたらダメです! 川で汚れを落としましょう」
恥ずかしがるラオフェンをむんずと捕まえると、薫は川へと引っ張ってゆく。
川の水は冷たく澄んでいて、中程に行けば二人の胸ほどの深さまでに達していた。
「じ、自分で洗えますよ!」
「あッ……ええ、そうしてください」
恥ずかしそうにするラオフェンにハッとなり、薫は遅れて自分の過ちに気付いた。
(親戚の子をお風呂に入れる感覚でやっちゃった……そりゃ年の近い子に洗われるなんて恥ずかしいよね)
体は子供でも精神は24歳である。今後は年上としてあるべき振る舞いをしようと、薫は再度、心に誓ったのだった。
その後、二人は無言で体と衣服を洗った。
シャンプーやボディーソープなんてないので隅々まで綺麗にはならなかったものの、ずっと洗ってなかったであろう髪は艶のある亜麻色へ、汚れた肌は透き通るような白を取り戻す。
川の水面に写った少女はとても美しかった。
癖のある亜麻色の髪に緑の瞳がよく似合う。
貴族と見まごうほどの気品すらあった。
(こんな子が、あんな場所に一人で……)
孤独に死んでいった少女。
挙げ句、今は年上の女に体を弄ばれている。
なんて悲運な子なのだろうか。
(身も心も清廉潔白に生きよう)
薫は神に祈る様にそう誓った。
それが、この体の持ち主にできる最低限の敬意だと思ったから。