Misandry on a Train
Have courage and be kind.──Fairness Godmother
* * * * *
あーっ、やっぱり最高だ。
言いがかりをつけられることがない。
混雑に紛れて胸やお尻を触られることもない。
まるで見えてないみたいにぶつかってこられることもないし。
好きな服を着たっていやらしい目でジロジロと見られない。
こっちが悪いみたいに脚をすぼめて座らなくていいし。
隣に座った人のにおいに顔を背けることも、たまにしかない。
突然連絡先を渡されて、断ったら、「ブス」とかなんとか──私なんてはじめから眼中にないって? こっちは最初の最初っから願い下げだっての!
軽快な電子音と共に、仕事終わりの体の中をちょびっとのガンマ線──だっけ、実のところ私はよく知らないんだけど──が体の中を通りぬけていく。これで体内の染色体異常を測定することができるらしい。XだかYだかの染色体をはじくってことになるのかな。それも一瞬で。
まるで魔法みたい。でしょ?
放射線って聞くとすこし身がまえちゃうけど、この一回の測定で被爆するのは多くても五〇・〇~七〇・〇マイクロシーベルトくらい。日本人の年間平均被爆量が七・三ミリシーベルトだから、その一〇〇分の一くらいの計算になる。何年か前のワイドショーで見たきりだからうろ覚えだけど。長い目でみたらあんまり変わらないって気がしてこない?
ま、そういうのを気にしすぎる人が普通車両に乗るんだろうね。
「今日も疲れたぁ」──ほんの小さな声で呟く。ああ、こんなことしても大声で注意されないなんて幸せだなあ。
すぐ隣のお客さんは私の声に不機嫌な顔なんかしないで、それどころか頷いたようにさえ見えた。「お疲れ様」って言ってくれてるみたいに。
あーっ、女性専用車両、最高だ。
確保した席でつかの間の休息。ここ以外でゆったり出来る場所なんて、もうほとんどない。
ふぅ。
…………。
…………。
いけない、いけない。寝ちゃうところだった。
気を取りなおしてバッグから小包と手鏡を取りだす。
パッケージはダークなチョコレートカラーのベースにパステルオレンジの花びら模様。誰が見てもわかるよね。サン・フローラルの新作リップ。仕事を早引けした甲斐があった。
こころなしか、周りの人たちも私の手元を見ているみたい。
ふふん、いいでしょ──お化粧しても舌打ちがとんでこないっていうのも素敵よね。
真っ白なキャップには今回のモチーフとなる花の名前が刻印されている。
Edelweiss.
あっ、すごい。
試しに引いたタンポポ色の口紅は、軽く撫でるだけでもしっかりと唇にのってくれる。鏡がなかったら本当に塗れているのか不安になるくらい。
うん。いい感じ。
とりあえず大雑把に塗るだけにして──いつもの道具がないから仕方ない──リップをバッグにしまう。
やっぱり、リップって好きだ。
色をのせるだけでパッと印象が変わるし、いつもは憂鬱な厚ぼったい唇も、まるで大きなキャンバスみたいに感じられるから。それに……いい年してなんだそれって思われるかもしれないけど、オトナになるための勇気をくれるっていうのかな。そういうの。
……なんちゃって。
火照る顔を押さえる。緩んだ唇からレモンを思わせるエーデルワイスの香りがふわりと昇った。
次の駅が近づいて、電車はだんだんと速度を落としていく。隣の人にぶつからないようにしながら読みさしの文庫本を開いた。まだ最寄り駅までは時間がある。
すると乗車口のほうから例の軽快な音に続いてアラートが鳴りひびく。ドアのすぐ上のランプが赤く点滅している。私の目に続いて、他のお客さんの尖った視線がそちらへと向けられる。中には早くもスマートフォンを耳に当てている人もいた。
すぐに警察に電話できるようにだ、きっと。
車内に備えつけられた監視カメラが頼もしい。
けれど、その先に男の姿はなかった。ゆったりとした服の女の人がおろおろと辺りを見まわしている。他のお客さんは目つきを緩めると、その人の真似をするみたいに周りと視線を交わしはじめた。
どうして乗れないのかしら。
識別器の故障?
電車が出ちゃうわ。
「赤ちゃんでしょ」
喧噪を押しのけるように、一人の女性が声を荒らげた。
「お腹の中。男なんでしょ」
はっとする。たしかにそうだ。視線を降ろすと、お腹のあたりの膨らみが目につく。あれは太っているわけじゃない。一度気付いてしまえば間違えようもなかった。
妊婦は伏し目がちに頷いた。
「……はい。ええと、でもまだ」
「でももなにもないよ。男は男。乗ってこないでよ。『利用は認められません』」
その強情な態度にならうように周りも声を上げはじめる。
「そうよ」
「乗ってこないでよ」
「普通車両に乗ればいいでしょ。鼻つまんでさ」
「男と寝るなんて信じられない」
「早く後ろ下がってくださーい、電車出られませーん」
車内はもう、練習不足の合唱祭みたいな有様だった。それでもやる気だけはあふれてるって感じ。
「──そうだよ。乗ってこないで」
普段はふるえっぱなしの私の唇だけど、今日は違った。勇気あふれる唇からは思ったままの言葉が流れだす。
そうだよ。何も悪いことなんてない。
悪いのは男なんだから。
いつだって。
いまだって。
ようやく妊婦が「えぇ、っと……ああ、はい。わかりました」と溜息のように声を吐いて車両から身を離すと、電車のドアがその姿をゆっくりと隠した。
ぴんぽん。
まるで正解したみたいに音が鳴る。
何事もなかったみたいに、電車はまた線路を繰っていく。誰も歓声を上げたりはしないけれど──だってほら、それって男みたいで下品でしょ──安堵と達成感とで、皆が自然と笑顔になる。
なんだ。
ほら、勇気さえあれば私でもできるんだ。
高鳴った鼓動が落ちつくのを待ってから、手元に目を落して続きを読みはじめる。
演劇に魂をかけた二人の少女が切磋琢磨しながら成長していくストーリー。男だったらこうはいかないだろう。足を引っぱりあって、ありもしない権威をふりかざして、恋に酒に溺れて失敗する。
女は裏で怖いとか言っておいて、実はいっとう陰険なのがあいつらなんだ。自制はきかない。人の言葉に耳も傾けられない。
次の駅で、また赤いランプが点滅した。
今度は明らかに男だった。広い肩幅。その上に突き出た喉仏。尖ったパーツの目鼻立ち。化粧で誤魔化そうとしているみたいだけど、その奥の下品な素顔がありありと想像できた。
「ねぇ、女性専用車両なんだけど」
「別の車両いけよ」
「気持ち悪いから乗るなよ」
さっきよりずっとそろった非難の声。男は少しの間視線を泳がせてから、私たち全員に負けないくらい大きな声を上げた。
「違うんです」
思いもしない反撃に私たちは肩を強ばらせる。声がぴたりと止んだ。
やっぱり下品だ。大きな声を出せばいいと思ってる。
ほら、私だって言ってやる。
「違わないから乗らないで。下手くそな化粧ね」
「そんな。お化粧だって、練習してるんです。練習中、なんです」
男は肩を落として目を伏せる。しおらしい演技だってのが丸わかりだ。
「それに何よその胸。手術か何か? 気持ち悪い。そんなもの見せられてね、こっちもいい迷惑なのよ」
男は反論しなかった。悔しそうに下を向いたまま何度も首を振る。膨らんだ胸をかき抱く筋肉質の腕がふるえていた。ほうら、口で敵わないとみるや泣き落としだ。ほんとに下劣なやつら。
気味の悪いその体が、またドアの向こうに消える。
ぴんぽん。正解の音。
あー、びっくりした。
すぐさま、目のあった人が笑顔で頷いてくれる。「偉いわ、よく言った」って。私も笑って返した。
文庫本をバッグにしまって、細く長い溜息を吐く。全身の力が抜けて、鎖骨の辺りがじんわりと温かくなってくる。取りだしたハンカチで首元の汗を拭った。
適度に効いたエアコンが気持ちいい。
あんなやつらと一緒じゃなくて、つくづくよかったと、思った──
* * * * *
──ドアが開いてるのかな。蒸れた首筋をシルクのような夜風が滑っていく。
ん。
ああ、ちょっと、うとうとしちゃって。た。
座りなおすと、隣の人の脚とぶつかる。灰色みたいにぬるい。
「あ、すみませ──その声を舌打ちが遮った。
「……ちょっと、ねぇ、なんで」
とっさに目を周囲にやる。
「なんで、男が、乗ってるのよ」
自分でも驚くほどの声が出た。無我夢中で手にしたバッグを胸元に引きよせる。少しだけずり上がったスカートのすそを下ろす。四方八方からの刺すような視線で、やっと私は我に返った。
離れなきゃ。
思うやいなや立ちあがるけれど、座りっぱなしだったからか脚が思うように動いてくれない。固まった脚を、思いきり引きのばすように前に出す。
つり革から手を除けた男どもが不機嫌な表情を隠そうともせずに私を見ている。ゆがんだ目元は、しかしすぐにじわりと横へ伸びて、私を嘲る。
くそ。いい気に、なりやがって。
──ふざけるなよ。馬鹿にするな。あんたらはここにいちゃいけないんだぞ。身の程を、わきまえろ。
口は開かなかった。出かかった言葉は他ならぬ私自身のふるえる唇に遮られる。口の中で響いて、回りだす。
よろけた足どりをそのままに、開いていた降車口へと進む。人を蔑むためだけに作られた笑顔の道。
やっと出口だ。無意識にドアの外に手を伸ばすと、視界が傾いだ。背中を突かれたのだとわかる。ふんばろうとした一歩が前に出ない。ひねった左足からハイヒールが脱げる。たまらずホームに倒れこんだ。
せめてと振りあおぐ。
ドアの向こうからは、無数の笑顔がこちらを覗いていた。どれもこれも一様に醜くゆがんでいる。
揺れる瞳に雨粒が入りこむ。意識しなければ気付かないほど、細かく小さな一粒。
これじゃ誰に押されたのかなんてわかるはずもない。
車内に残る私のハイヒールが蹴飛ばされる。
固くもやわらかくもない軌道を描いて、私のふくらはぎに当たって止まる。つるりとしたラメ入りの表面が無性に鬱陶しかった。
ぴんぽん。
扉の閉まる音。
透明な音が濁りはじめる。最終電車は私だけを置いていく。遮断機のあのこもった音が、夜空のずっと向こうから聞こえた。
力が抜ける。頬をゆっくりとホームの石床にあずけた。
雨音はしないのにホームはじっとりと湿っている。ひどく寂れた一ツ目の照明がアスファルトの表面を黒々と照らす。雨にいぶしだされた油っぽいにおい。
黒に触れた頬がひりひりと痛むけれど、どうも体に力が入らなかった。砂混じりのザラついた感触。ぬるく溶けて、私に同化する。
まともに屋根もないんだ。
寝過ごしている間にかなり遠くまで来たらしい。名前でしか聞いたことのない駅名標が、瞬く灯りの下でじっと息を潜めている。
ぽつぽつと頬に浮かんだ雨粒が、集まって、雫になる。伝うそれが唇を濡らした。
エーデルワイスの薄黄に染まった雫は、ホームの黒に塗りつぶされて、すぐに見えなくなった。
灰のような雨が、私に降り積もってゆく。




