幻想夜行列車
窓の外に広がる暗闇を眺め、欠伸を一つ。
カタン、コトンと控えめに響くリズムに意識を寄せて机をつつく。
他に乗客はおらず、車内には時が止まったかのような静寂が流れている。
いつからこの列車に乗っていたのだろう、この暗闇の中で時間の感覚が完全に狂ってしまったらしい。
「ふわぁあ」
追加でもう一つ欠伸が飛び出る。
もう何度昼寝をしたか、寝ても覚めても景色は変わらない。
そもそも昼寝と言えるのだろうか、見る限りでは夜だが。
「こんばんは」
再びうとうとしていると、若々しい女性の声に起こされた。
「……へえ?」
唐突な出来事に、思わず気の抜けた声が漏れた。
起こされたことへの苛立ちよりも、何故わざわざ起こすのかという困惑が勝る。
「あ、えっと、こんばんは」
「本日はご乗車いただきありがとうございます。車掌のエルナスターシャと申します」
車掌、という事は検札だろうか。それならば起こされたことにも納得がいく。
「ああ、少々お待ち…… 下さい」
姿勢を正して、いつも切符を入れる上着の内ポケットをまさぐる。
しかしそこには何も入っていなかった。
「あれ?」
無いなんてことはないはずだ。列車に乗る際には必ず"失くさないように"と意識して大事に仕舞っているのに。
「あ、はは。もう少しお時間頂けますでしょうか」
──どこにもない
冷や汗が出る。
まだまだ生きてる年数は少ないが、それでも『誠実に』をモットーとして己を貫いてきたというのに。
その自分がまさか無賃乗車なんて、そんな事あってはならない。
「切符は必要ありませんよ」
「……へ?」
必死になってポケットを探っていると、思いもよらない言葉を掛けられた。
この車掌は何を言っているのだろう。列車に乗るのに切符がいらないなんて話、聞いたことが無い。
「当列車ついてご存知ですか?」
「え……っと え?」
質問の意図が分からない。鉄道に関する知識はからっきしだ。
言葉に詰まっていると、車掌が通信機のようなもので誰かに指示を送り始めた。
先程までの眠気は何処へやら。心臓が痛いほどに鳴り響いている。
「そう、ですか。では」
通信を切った車掌がこちらへ向き直る。
「ご一緒しても、よろしいですか?」
「え?」
想定していた表情とは正反対の、優しい笑顔で向かいの席を指差す。
「……どうぞ」
了承すると胸の前でポンと手を叩き、嬉しそうに席に座った。
「ふふ、もう少しでトンネルですよ」
車掌が楽しそうに呟く。何なのだろう。
さっきから何一つとして状況が理解できていない。とりあえず怒られることは無さそうだ。
「……どんな景色が待っているか楽しみです」
車掌として色々とおかしい発言に言葉を返そうとした瞬間、空間の全てが黒く塗り潰された。
────────────────
列車に乗っていたはずなのに、芝生を踏みしめる感触が足から伝わってくる。
目を開くと、そこには微かに見覚えのある景色が広がっていた。
広々とした公園。日陰にはまだ雪が少し残っており、静謐な景色を肌寒くも心地よい春風が撫でる。
残った雪は泥だらけで綺麗とは言えないが、ノスタルジーに浸るには十分な魅力を持っていた。
『ここは…… えっと、何だっけ』
懐かしいと思う感情は確かに存在しているのに、何も思い出せない。
「おおーい!! 夕花ああ!!」
誰かの名前を叫びながら少女が正面からこちらへ向かってくる。後ろを振り向くと、叫んでいる子と同い年くらいの少女が居た。
どちらも小学校高学年くらいだろうか。
早歩きで距離を取る。子どもの近くに居るとあらぬ誤解を受けるかもしれない。
「絵理ちゃん」
「ね、引っ越すって本当!?」
吸い込まれそうな瞳をめいっぱいに開いて夕花の肩を掴む。
「うん……」
「……そっか」
小学生にはありがちな別れ。悲しい出来事ではあるが、これもまたノスタルジックな物として頭の片隅にあるような気がする。
「絵理ちゃん、私、お手紙書くね」
「うん、私もお返事書くから! また会えるまで、ずっと!!」
遠い青春の情景。私にも似たような事があったような ……無かったような。
思い出そうとするほどに意識が薄れてゆく。夢を見ていたのだろうか。
泣きながら微笑み、抱擁する二人の少女の話し声が幾重にも重なって……
────────────────
「──っ!」
気が付くと列車の中に戻っていた。眠っていたような感覚はせず、意識は極めてクリアな状態だ。
「どうでした?」
向かいに座る車掌が微笑む。
「どうって、何がです?」
「今、二人の少女のやり取りを見ましたよね」
「はい」
車掌もあの光景を認識していたようだ。だとすると夢ではない……
集団幻覚の類だろうか。
「何か思い出しません?」
「似た経験をしたことがあるような…… そんな気がしました」
「……そうですか」
笑顔から一転、神妙な面持ちで車掌が頷く。一体何が起こっているのだろう。
「お名前を伺っても?」
「あ、はい」
そういえばまだ名乗っていなかった。
「私は、えっと…… あれ?」
名前が、思い出せない。
「なん、で? なんで…… 私…… っっ……」
言葉が出ずに、喉から擦れた空気が漏れ出る。
「樋波夕花」
「へ……?」
「貴女の名です」
極めて冷静な佇まいでこちらの瞳を見つめてくる。
「夕花、って、さっきの女の子の…… 何がどうなって……っ!」
いくら考えても、まるで頭の中には大空洞が広がっているようで。
空気を掴もうとするような、身体が空へと沈むような感覚に眩暈がしてくる。
「落ち着いて…… ほら、深呼吸」
車掌が隣に移り、背中をさする。
「っはあ、はあ…… う、ぐ……」
暫くの間深呼吸をしていた。その間にも車掌は優しく語り続けてくれていた。内容は何一つとして覚えていないが、その声によって安心できたという部分も確かにあった。
あれだけ騒いでいた心臓は既に大人しく、頭に上った血も引いていた。
「すみません。どのように伝えればいいのか分からなくて……」
「いえ、良いんです。 それよりさっきの光景は一体なんですか? それにこの列車って何なんですか?」
この列車に乗ってから起きた出来事以外の記憶が全て抜け落ちている。
"普通じゃない現象が起こっている"という事を理解するのに、時間は掛からなかった。
「当列車は、魂を送り届ける乗り物です」
「……」
「さっき見た物は貴女の…… "走馬灯"とでも言うのでしょうか。とにかく、貴女の身体に刻まれた記憶です」
「魂、走馬灯? え、私死んだんですか?」
時間差で驚きが押し寄せてくる。
「完全に死んではいません。ただ限りなく死に近い状態です」
限りなく死に近い、この列車が到着した時に死亡という事になるのだろうか。
「そうですか……」
実感が湧かない。
「じゃあ私の記憶が無いのって、死んだから……?」
「いえ、本来であれば死によって記憶を失う事などありません」
車掌が食い気味に首を横に振り、きっぱりと否定する。
「"命"を構成する物は大まかに、魂、身体、そして記憶という風に分類されます」
メモ帳とペンでイラストを描きながら説明を始める。表情に反して随分と可愛らしいキャラクターが描かれている。
「通常、死した者は身体のみを現世に遺します。要は魂と記憶はセットになっているという訳です」
「私の場合は?」
「魂のみの状態で、こちらに来てしまったという状況です」
デフォルメされた夕花の似顔絵を描き始める。もはや説明に関することは書いておらず、単にお絵描きが楽しいだけのようだ。
「記憶は何処に行ったんですか?」
「身体と共にあるはずです」
「身体と共に、ですか」
魂のみがここに存在し、記憶は身体に遺したまま。なんとなくだがイメージが掴めてきた。
「ん? じゃあ走馬灯は何処から来ているんですか?」
「先程も言った通り、貴女はまだ完全には死んでいません。魂の一部が身体と繋がった状態で、その部分から我々が身体へとアクセスして記憶を取得しています。その際に走馬灯が展開されるようですね」
一通りのお絵描きを終えて、メモ帳を胸ポケットに仕舞う。
「正しい形で昇天してもらう為の措置です。滅多なことが無い限りはこんなの必要ないんですけどね。特別仕様です」
「っ…… お手を煩わせているようで…… すみません……」
「ふふ、楽しみましょ? 失った記憶を探す二人旅。風情を感じませんか?」
手間がかかっているのにも関わらず、その表情は至極楽しそうであった。
「ほら、次のトンネルが来ましたよ」
いつの間にか車掌が自分の隣へと移動している事に気が付いた。
初対面同士としてはいささか近すぎる距離感だが、悪くないと思った。
────────────────
電線に捕らえられた空は、なおも高々と広がり続け、透き通るような初夏の日差しを浮かべている。
眼下に映るのは人々の波、その中でも一際目を引くものがあった。
まるで孤島のように喧騒から切り離されたその領域には、大破した自動車が二つと、暗い赤に染まった水溜まりが見えた。
『これって……』
担架で運ばれる男女と、その娘と思われる人物。先ほど見た走馬灯で再会の約束をしていた少女、夕花で間違いない。
意識があるのか苦痛に顔を歪ませ、血に塗れた頬には涙が伝っている。
今の自分の姿よりも随分と幼い。この時に死んだ訳ではない事が分かる。
やがて怪我人を運び終え、救急車がけたたましいサイレンを発しながら走り去って行った。
後に残るのは血溜まりと、ぐしゃぐしゃになった二台の自動車。
実体のない私は、その凄惨な光景を呆然と眺めている事しか出来なかった。
野次馬たちの声がノイズとなって脳を突き、再び意識が遠のいてゆく。
『なに、この記憶…… 私って……』
視界が再び闇に閉ざされ、意識が飛んだ。
────────────────
列車に戻るのだとばかり思っていたが、今回はどうやら違うらしい。
立て続けに展開された空間の中には黒い服に身を包んだ人々が大勢、涙を流す者や酒を飲む者、何が何だか分かっていない子供など、様々な人が一堂に会していた。
「あの歳で…… ねえ……」
「娘さんもまだ幼いのに……」
『そっか、お通夜だ』
自分の記憶であるのに、どこか他人事のように感じてしまう。記憶が無いからだろうか。
「父子家庭になるんでしょ、大丈夫かしらねえ……」
「前から不甲斐ないと思ってたのよ。不安だわぁ」
ここにも他人事の者が二人。彼女達の話を聞くに、どうやら母は助からなかったようだ。
『……』
何かを思い出しそうになる。柔らかい手、子守歌、そして、
『あ……』
一緒に歌った童謡、転んで泣いた時の優しいおまじない。あらゆる記憶が吸い込まれるように脳内へと入ってくる。
それでも、何処か他人事のように感じる。自分自身の思い出というよりも、樋波夕花という人物を遠くから眺めているようで……
『……』
自分が嫌になる。母との思い出にもピンと来ず、そして涙を流すことも出来ない。
何より、こうして母の死を認識した自分自身も既に死んでいるという事実が正に親不孝のようで、たまらなく悲しく思えた。
『私、なんで死んじゃったんだろう』
────────────────
「夕花、起きて下さい」
落ち着いた声に意識を引き戻される。走馬灯が覚めた後も暫く放心していたようだ。
「車掌さん、今の記憶…… 全て本当にあった出来事なんですよね?」
「はい」
表情を曇らせた車掌がゆっくりと頷く。
「私の死因って、なんなんですか」
「……次の走馬灯を過ぎた時、全てを思い出すはずです」
「そう、ですか」
トンネルを過ぎる前とは打って変わって、車掌は口を固く結び言葉を発さない。
気まずい空気はその密度を増していき、喉に栓を閉められたかのように息が詰まる。
「トンネルが来ます」
「はい」
「何があっても、己を見失わないで。」
「……え?」
────────────────
「うそ、でしょ…… 絵理ちゃんが……?」
前の記憶からそれなりに時が過ぎたようだ。夕花は幾分か大人っぽい容姿へと成長していた。
そして、頬にはあの時の傷跡が残っていた。
「パパ……っ! これ……」
「……全て事実だ」
「そんな……」
絶望や悲しみが複雑に絡み合い、少女の顔から光を奪う。
「そんな事ある訳ない!! 嘘を言わないで!!」
「……」
「ねえ、パパ、嘘でしょ? 本当は……っ 意識、が無いだけで…… それで……」
声が震える。呼吸が脈打つ。それでも、潰れそうな喉から必死に声を絞り出す。
「私と同じみたいに…… 入院して、いつか元気になって…… 春からは、また一緒に……」
頬に刻まれた悲しみの名残が、一粒の涙に濡れる。
「夕花……っ」
「──っ!」
名前を呼ばれて我に返った少女は、再び現実を直視する。
机の上には絵理と何年も続けてきた文通の手紙。
そして、その手には父から受け取った最後の一通。
絵理の遺族が書いた手紙。
認めたくない現実が綴られた手紙。
「私たち…… 頑張ってたんだよ……?」
堪えていた涙が次々と溢れ出す。
「一緒の高校に行こうって…… 励まし合って……」
落とした手紙を拾うこともなく、頭を抱える。
「また一緒に過ごせるって思ってたのに……っ!!」
────────────────
「全ての記憶を取得し終えました。後は走馬灯を見ずとも…… 思い出せるでしょう?」
「──絵理ちゃん」
「……」
「全部、思い出しました」
自らの手を見つめ、頬の傷跡を撫でる。痛みはもう無いが、悲痛な思い出が呼び覚まされる。
絵理が交通事故で死んだ後も、どうにか乗り越えようと頑張った。
母の死を乗り越えた自分なら、きっと大丈夫だと信じて。
だが実際には母の死すら乗り越え切れていなかったのかもしれない。
数年間がむしゃらに生きて、その結果精神を病んだ私は……
──大好きな二人の後を追うように首を吊ったのだ。
「間もなく終点、死後の世界に到着します」
本当の終わりが近付いてくる。
もういいだろう。私は頑張った。頑張り過ぎた。
人生観を語れる程に生きてはいないが、こんなもんで良いだろう。
あの改札を抜ければ、また会える。大好きだった人たちに、また会える。
「……あれ?」
暗闇と青空の境目で列車が停止する。前方には草原が広がり、その中にポツンと小さな無人駅が建っていた。
「まだ、到着してませんよね?」
「……何度も言うようですが、貴女はまだ完全に死んではいない」
「? はい」
車掌が立ち上がり、吸い込まれそうな瞳でこちらの顔を見る。
「もし生きたいという意思が少しでもあるのならば、これが最初で最後のチャンスとなります」
何を言いだすのかと思えば、今更考える必要も無いだろう。
「このまま、逝かせてください」
「……そうですか」
列車が再び動き始める。
ゆっくりと、自分で歩いた方が何倍も速いんじゃないかと思う程に。
「絵理さんに会えたら、どんなお話をするんです?」
車掌が穏やかな声で語り掛ける。
「そうだなあ、まずは思い出話かなあ」
二人一緒に過ごした期間は短いから…… お互い個人の思い出話を披露し合う事になるだろう。
上を向き、記憶を辿る。生きた時間は短いが、それでもいろんな経験を重ねてきたつもりである。
「……」
思い出せることと言えば、ひたすら勉強して過ごした中学時代。母が居ない生活。絵理が死んだ後、記憶を振り切るように生きた数年間。
……自らを殺める前に眺めた、美しい夜景
「お母さんとは、どういうお話をしましょうか」
「……パパの事、かなあ。あの二人ラブラブだったし。あの後の事、きっと知りたがってる」
母の死後、ひたすら仕事に打ち込むようになった姿。相変わらず酒は飲まないが、一日に吸うタバコの本数が増えた事。ご飯を食べる量が減って血色が悪くなった顔。
「……車掌さん」
「はい」
「どんな顔して会えば良いんだろう」
「……」
「私…… 笑って話せる思い出が無い……」
いくら考えても、行き着く先は辛い日々の空虚な記憶。
若い姿で魂となった私がそれを語ったとして、二人は何を思うだろう。
「う、う……」
だからといってどうすればいいのか。
現実に戻っても、つらい記憶の延長線を俯きながら歩くだけではないのか。
猶予を与えるかのように列車が減速する。
私は、二人に会いたい。もう生きていたくない。
でも、まだ会うべきではないんじゃないか。
"生きたくない"を越えた先の人生を見て、それからじゃないと笑顔で話せないのではないか。
……生きたくないを越えた先。そんな人生あるのだろうか。
「私はもう、貴女に対して何も言いません。貴女の命の行く末は、貴女自身が決めるべきです」
「私、は……────
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輝かしい魂をご希望の駅で降ろし、一仕事終えた後のささやかな休憩に入る。
蒼い空には良い形をした雲が散りばめられ、周りには草原が広がっている。
線路と駅と、この列車以外の人工物が存在しない、狭間の世界の終着点。
乗客が居ない時には必ずこうして訪れる程には気に入っている場所だ。
『エリィ、あんなことして良かったのか?』
「ん? ふふ、悪くはなかったでしょう」
温もりの残った座席に座り、メモ帳に描いた夕花の似顔絵を眺める。
『いや何がどうなろうと私としてはどうでも良いんだが。"ああいう事"をするのは規則違反だって言ったよな?』
「んー、だって放っておけなかったんだもん」
乗降口の扉を開け、強気な日差しの下へと歩み出た。
『はあ。まあいいか』
「そ、いいの。夕花はちゃんと自分の答えを見つけることが出来ましたとさ。それで全部解決でしょう?」
『……反省してねえな。やっぱ始末書書け、お前』
「ええ? 迷える魂に道を示したのに?」
『それが駄目だって言ってんだよ! 少しは反省しろ!』
私は、この役職になってまだ数か月のひよっこだ。
この先また同じような乗客に出会い、同じように人生に触れて…… という事も何度かあるだろう。
でも、今日の事は絶対に忘れない。忘れたくない。夕花が笑顔で語るその日まで、ずっと。
だって、彼女は私の大好きな──────