針は盤へ静かに落ちる
『平成は2019年4月30日を以て打ち切りとなります。 連載、ご苦労様でした。』
煌々と光り薄暗い部屋を照らす、使い古されたPCモニター。
そこに映る編集長から送られてきた簡素なメールの一文に、俺は思わず口をぽかんと開けてしまった。
……いや、そんな馬鹿な。
信じたくない、と言った類の感情ではない。
あり得ない……そう、あり得ない、だ。
俺は机の端に幾重にも積まれた資料の中から青いファイルを引っ張り出す。その勢いで紙の山はどさどさと派手な音を立てて崩れるが、今はそんな事を気にしている場合ではない。
引っ張り出したファイルを乱雑にめくる。
俺は連載予定期間が記された欄を開くと、何度か瞬きをしたのち、指でなぞって行く。
「……め……明治、大正、昭和、平成……平成」
……間違いない。
俺が知る通り、本来の平成連載終了期日…………特異点は、まだまだ先だ。
「おかしいな、うん、おかしいぞ。 何かの間違い……だよな、これ」
こめかみに手を添えると、理解出来ないこの事態に思わず深くため息を付いた。
……そもそも平成とは何だったか。
俺は嫌味な女上司の言葉を思い出す。
『新人の君が執筆担当するのは、U+337E~U+337B……いわゆる近代と呼ばれる時代の日本。 特異点をつつがなく迎えたあの大人気連載、昭和……その後継となる時代です』
……くそ。
冷徹という言葉がぴったりの編集長だが、見た目は抜群なんだよな。
記録室のホワイトボードの前に立ち、偉そうにこちらを見下すあの目は、嫌いじゃない。ただ……そう、苦手なだけだ。過去の光景が頭を過るが、俺はそうじゃない、と首を振る。
『作品名はもう決めてあります。 平成、というタイトルです。 次の暦を迎える特異点……その日まで、君にはこの作品を描いて貰います。 昭和という偉大な作品の後継……けれど、君の自由で奔放な作風に、私は期待していますよ』
……自由で奔放?なんとでも転びそうな評価をしてくれる。
確か、そんな事を思いながら俺は渡された資料を眺めていた。
……そうだ。
まさに偉大と呼べる作品だった、昭和。
そのノスタルジックかつ革新的な作風は、いかなる作品よりもパワーに満ち溢れている。それこそ俺自身、尊敬の念を抱かずにはいられない。全ての登場人物、ストーリー展開。連載は近代ジャンルの中で随一の長さを誇るが決してダレる事なく綴られた物語、その一端一端に込められた作者の念は、今も沢山のファンを魅了して止まない。
平成を執筆し始める前、一度だけお逢いした作者である先生と交わした言葉は今でも俺の中で色あせる事なく響く宝だ。
…………。
い、いや、今は懐古している場合ではない。
俺は混乱する頭に流し込む様に机の脇に置かれたコーヒーを煽る。
このコーヒーは、いつ淹れたものだったか……。
水分が揮発し、濃くなったそれは思った以上に苦く、おおよそ美味いとはかけ離れたものだったが、お陰で頭は冴えた。
青い資料を傍らへと放ると、俺はパソコンのモニター上でぼけっとしているマウスポインタ――を働かせ、次々と未読だったメールを開いていく。
「担当からのメール……最近、あまり読んでなかった……けど……」
俺は浮かぶ冷や汗を拭うと、もう一度室温と同じ温度になっているコーヒーに口を付ける。
開かれた未読だったメールには、担当からの催促に交じって読者からの感想も添えられていた。
……これだ。
俺は、"これ"があまり好きになれずにいた。
俺は昭和から連載を継ぎ、平成を書き始めた。
昭和だけじゃない。過去、様々な作品を読み漁り、やっと射止めた連載だ。気合いが入らない道理はない。俺は狂ったように特異点のその日まで続く起承転結をノートに書き殴り続け、誰もが面白いと叫ぶ作品をと、それこそ寝る間も惜しんで平成という作品に没頭した。
誰よりも、俺がファンだ。
様々な作品から連綿と続き、記録盤に刻まれ永遠に残るであろうこの作品の一番のファンは、俺だ。そう信じて、書き続けてきた。
だが、連載が始まってからの人々の感想は、思ったものとまるで違っていた。
「これじゃない感がある」
「昭和の遺産で緩やかに展開しているだけ」
「良く言えばフラットな作品、悪く言えば起伏がなく、印象が薄い」
……おおむね、こんなところだ。
勿論、肯定してくれる声もある。
だが往々にして、悪い感想の方が作者には棘として刺さり残るものだ。
俺だって例外じゃない。
作品とは、作者と読者が一体になって描くもの。
作品を読み、生き、作者の熱量に充てられた読者の熱が、再び巡って作者を焚き付ける。そういう側面があることは、否定しない。
だけど、果たして本当にそれが面白い作品に繋がるのだろうか?それが俺には分からなかった。むしろ、声を聴く事で刺さる棘の方が随分と恐ろしい。
……そんな弱気な一面が作品にも反映されてしまったのか。
確かにここ最近、平成はパワーに掛ける作品になってしまったと感じていたのは事実だ。変に斜に構え、ストーリーも排他的で影がある展開が多くなってしまった。だが、反面昭和にはなかった新しい側面……ネットの発展を描く事により、個の存在が見えない糸で繋がり複雑に絡む最近の作風は、賛否両論あれどそれなりに支持を得ていた筈。
手応えも感じていた。それを主軸に特異点へと繋がる伏線や、布石も沢山打った。それだけじゃない、昭和には無かったものも、ストーリーを破綻させる事なく織り込み、展開してきた筈だ。
……昭和ほどの大連載を狙っていたわけじゃない。
でも、俺は俺が思う面白いと言える作品を綴ってきたはずだ。いや、やっと始まったと言ってもいい。書き上げた後、評論で「物語が動き出すまでが長いが……」などと偉そうに評されるかもしれない。だが平成という作品を、昭和をそうするよう振り返ったとき、読者に何かをもたらす物であれば、それでいい。
「……電話」
俺は机の傍らに放っておかれたままのスマホを手に取ると、担当が居る編集部へと繋がる番号を表示する。一瞬躊躇したがそのまま画面にでかでかと張り付いた通話ボタンを軽くタップした。
…………RRRR
「――はいはい記録盤編集……って先生ですか」
「あ……ええと、久しぶりです」
数度の呼び出しの後、電話を取った担当の声はいつもどおり馬鹿みたいに明るかった。それが、何とも不気味に感じる。
「どうかしたんですか? いや、先生の締め切りはもう少し先ですし、ええ前回の話も良かったですよ! 平成調子出てきたんじゃないすか? 読者からの感想もメールに添付しておきましたが読んでくれました? 反響は……」
「……ま、待ってください」
まるでマシンガンの様にべらべらと喋り出す担当の言葉を遮り、俺はごほんとひとつ咳払いをした。
別に一拍置こうなどと殊勝な心掛けではなく、久々に声を発してみると喉に濃いコーヒーが絡まったような不快感を覚えむせてしまっただけなのだが。
「……何から話せばいいのか」
「ああ先生、積もる話ならまた今度会ったときにでも……こっちも今、新人さんが来られてて、ええ」
「新人……」
その言葉に、俺はドキリと心臓が跳ね上がるのを感じていた。
「……ええ、これがまた、先生の平成の大ファンで! 小一時間、話し込んでましてね! いやあ、先生いいですよぉ今回の新人さん、彼ならきっちり先生の平成を継いで……」
「その事なんですが!」
再び始まった機関銃の掃射に、俺は思わず盾を掲げ上げるように言葉を重ねる。
「打ち切りが決まったって」
意を決して発言した俺の言葉に、受話器の向こうに一瞬の沈黙が奔る。
「……あれ、ひょっとしてもう編集長から連絡ありました?」
編集長からの連絡がなくともきっちり先生の後を継いで、なんて言われれば誰だって想像は付くだろうとカチンと来たが、それでも俺は「ええ」と答え、担当の声を待った。
「うーん、そうなんですよね。 連載終了、引継ぎの特異点までもう少し本当は猶予、あったと思うんですが。 いやあ、僕も実は、寝耳にお湯でして」
……寝耳には、水だろ。
いや、あれか?水じゃなくお湯だった、くらいの衝撃だったと言いたいのか。俺はイラつくやら、困惑するやら、何とも言えない感情で一言「はあ」と気の無い声を漏らす。
「……僕も詳しい事はよく知らないんですよね。 ……というか、実は新人の彼と引き合わされたのも、ついさっきでして。 おかげで編集部は今、大慌てですよ。 何しろ予定より早いでしょう、こっちも驚いちゃって」
そう言うと、担当である彼は普段よりややトーンを落とすように声を潜める。
「あ、先生。 あれなら編集長に直接掛け合ってみます?」
「……編集長と」
迷いながらそう呟いた途端、彼が「ええ」と言うが否や突然鳴り響く間抜けな待ち受け音に、俺は思わず慌ててスマホを落としそうになる。まさか、こっちの返事を聞く前に通話を投げられるとは思っていなかった。やっぱり俺は、この担当の事は好きになれない。
「……はい、編集長ですが」
ふう、とため息を着いた瞬間だった。
この世が終わるというニュースを聞いたとしてもきっと彼女は何一つブレないと確信させるほど冷静な声に、俺は今度こそ心臓がドキリと跳ね上がる。記録盤を管理する者としてこれ以上なく頼れる存在なのだろうが、こっちとしては何とも心臓に悪い……いや、容姿は本当に抜群なのだが。勿体ない。
「お久しぶりです、メールを拝見しまして」
「ああ、平成の」
彼女はそう一言だけ言うと、ふぅーと長く息を吐く。
どうやらタバコはまだ止めてないらしい。
「伝えたい事は文面通りですが、他に何か」
彼女の感情の無い声に俺は一瞬怯みそうになるが、傍らに散らばる平成の資料を見詰めながら、口を開く。
「特異点までまだ期日はある筈。 俺はまだ平成で描きたい事が沢山あります。 打ち切りというのはどういう状況なんでしょるか」
……最後の最後で思いっきり噛んでしまった。
思わず顔に体中の血液が上るのを感じる俺だったが、対する編集長はそれに対して突っ込む事なく、冷静に受話器の向こうで、整った唇から言葉を紡ぐ。
「……そうですね。 確かに本来、暦が更新される特異点までは、まだ時間があります。 しかし、特異点を早める必要が出てきたのです。 それが理由です」
記録盤――所謂"アカシックレコード"と呼ばれるそれには、世の中の事象全てが記録され続けている。
だが、世の事象全てが予め記されているわけではない。時間と時間を繋ぐ特異点のみが存在し、その特異点を繋げるのが作品というわけだ。つまり俺や、昭和を担当した先生が描く作品は、あらかじめ決められた未来へと最終的に物語を収束させる……そういう作品なのだ。
だが特異点そのものを早める事なんて出来るのだろうか。
「混乱はもっともです」
彼女は俺の思考を読み取ったが如く言葉を発すると、ふぅー、とまた一息。
「先に断っておきますが、平成が悪い作品だとは私は思ってません。 ただし、それでも特異点を動かす必要が出てきたのです」
「……と言うと」
と言ってみたものの、彼女の言葉の意味が理解出来たわけではない。ここはこう言うしかないだろう……と、変な見栄で突いて出た言葉に俺は少し後悔する。
「作品に対する読者の観点……いえ、価値観が急激に変わりつつあるのです。 このままでは、記録盤の特異点を想定通り追う事が出来なくなる……まあ、詰まるところ、大幅なてこ入れが記録盤そのものに必要になってきたと言う訳です」
「価値観……ですか」
「ええ。 平成という作品が特異点に向け収束を始めているのは理解しています。 しかし、このままではどう展開しても無理が生じる。 無理を突き通した作品が未来、振り返られたとき……駄作と評される事は分かりますね」
彼女は諭すでもなく、論ずるでもなく、声色を変えることなく淡々と言葉を紡ぐ。その温度に、俺は平成の終わりをリアルに体感していた。彼女の言葉の真意は分からない。だが、これは介錯なのだろうと、頭のどこか、冷めた部分が俺に囁く。
「……撤回の余地はない、という事ですね」
「ええ、残念ながら。 それが記録盤に殉じる我々の仕事です。 作品を綴るというのは、仕事なのです。 理解しているとは思いますが」
――仕事。
口を突いて出そうになった自虐的な感情を、俺は何とか押し殺す。そう、仕事だ。楽しいだけじゃない、仕事にするという事は、こういう事とも向き合わなければならないと、彼女は冷たい声に、その意味を乗せているのだろう。
「わかりました。 特異点までもう少しありますが……次の作品に繋げるよう、描き上げてみせます」
「その意気です」
平成が終わる。余地はない。
編集長の声にブレはない。描きたいものを全て載せる事なく物語が終わろうとしている。
「ああ、待ってください」
耳からスマホを離そうとしたその時、聞こえた声に俺は虚無感を抱いたまま再びスマホを耳に当てる。
「私は全ての作品のファンです。 君は私の思った通り素晴らしい作者でした。 なんの慰めにもならないかもしれませんが、一つ提案があります」
「え?」
力無く応える俺に編集長はやや間を空けると少しだけ声を下げる。
「……記録盤は、一つではありません。 先の貴方を生かす場所……今、メールしておきました。 興味があれば試してみるのもいいでしょう。 あなたに熱量があれば、ですが」
「…………?」
同時に、ポコンと間抜けな音を立てて編集長からメールが届く。
そこに記載されたアドレスをクリックすると、見た事もないページが表示された。それは、無数に作品が列挙される、まさに異空間――だった。
「ここは……」
「君の前任を含め、様々な作者がそこに居ます。 私が言うのもなんですが、記録盤だけが全てではありません。 盤の外の事象が、あるいは本筋であるこれからの特異点に、人々の価値観に何か一石を投じる役割を担う日が、来るかもしれません」
「……ここで、描きたかったものを描け、と……?」
「君なら分かっている筈です。 昭和の彼に感銘を受け、平成を綴った君ならば。 そこが、どういう場所なのか。 描き続ける事だけが作者を作者たらしめる。 そうでしょう?」
「その言葉は……」
「言ったでしょう。 私は全ての作品のファンですから」
平成という物語は終わる。そして新しい連載が近い将来、始まる。
だが形と場所を変えて続いていくという期待感と、あるいは誰にも愛される事なく潰え消えゆくのではという不安感、ここを観てるとその二つの感情が入り乱れる。
しかし俺は作者だ。作者で在り続ける為には、俺が消えない為には描き続ける事だけが、自分を自分として認識出来る唯一の方法だ。
ならば俺も、盤の外でその先を綴って行こう。
その選択が、あるいは記録盤に描かれる未来があるのかもしれない。
編集長との電話を終えると、無数に表示される中、俺は一つの作品名に口元が緩むのを感じていた。
『作品タイトル:平成 ―― 著者:昭和』
まずは仕事を終えよう。
そしてこの尊敬すべき作者達、無数に並ぶ作品達に想いを馳せよう。まだ見ぬ平成も、新たな未来も、ここにもきっと描かれているのだから。
そう頷くと俺は乾いたマグカップを勢いよく煽り――
くたびれた椅子へと、腰を下ろすのだった。