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夢や空想が打ち捨てられた記憶の集積所なのだとすれば、悪夢だって現実によるものなのだろう。夢で見た真っ黒の手帳はとても香澄の趣味ではない。けれどそれさえも香澄の脳のどこかに埋もれていたものならば、きっと黒革の手帳は香澄の近くにあるはずだった。
この街で人が身を寄せて暮らす丘の中腹。何の変哲もないアパートのごくごく一般的な八畳間は、壁の向こう側に人があふれているとは思えないほど静かだ。白とか灰色とかベージュとかで飾り付けられた住宅地区は遠くで鳴り響く救急車のサイレンを薄っすらと反響しながら同じベースで針を進めていく。
香澄はクローゼットの端に積まれた段ボールを見上げた。ローテーブルしかない香澄の部屋には夢で見た机なんて存在しない。だとするならば、何か手掛かりがありそうなのはこの高々と積み上げられたダンボール箱の中以外には考えられなかった。
「よし、行くぞ」
精一杯手を伸ばして両手でつかんだダンボールは服でも入っているのか、女子高生の腕でも軽々と持ち上げることができた。この調子なら大したことはないかもしれない。そう思いながら持ち上げたダンボールを移動させようと傾けると、何かが香澄の上を滑り落ちていった。
「ん?」
ダンボールを持ちながら振り返った先には、まさに探していた黒い手帳が床に転がっていた。
* * *
『もしも昔のことを思い出したり、苦しんだりしていたらここに行ってください』
見覚えのない警告の一文をどれだけの人間が信じるのだろうか。香澄だって得体の知れない現象に巻き込まれていなければ、単なる落書きだと思って手帳を放り投げていたことだろう。けれど、香澄はその後に続く場所を調べて電話をした。
今、香澄は手帳に書かれた場所の前にいる。ケーキ屋や和菓子屋、メロンパン屋といった見るだけで口の中が甘くなりそうな通りにある花屋。検索結果が間違ってさえいなければ、手帳に書いてあった『久慈丸クリニック』は花屋が入っている雑居ビルの5階にあるはずだった。
電話に出た女性は香澄の名前を聴くとそれ以上は香澄のことには触れず、「明日の午後1時に来ることはできますか?」と訊いてきた。やはり今の自分の状況とこの病院は何か関係があるのだろう。香澄には女性の口調があの手帳に書かれた一文を裏付けているように聴こえた。
花屋の脇にある透明な扉の奥は寂しげなライトで照らされたエントランスになっていた。ここにいたら外が晴れているかも分からなくなりそうだ。横の壁の表札には『久慈丸クリニック』の文字があり、他の階には美容室やエステのような横文字が並んでいる。妙に反響する自分の足音を聴きながら香澄はエレベーターへと乗り込み、5の数字を押した。
本当にここに来てよかったのだろうか。香澄は手帳を見つけた時に覚えた疑念を今でも引きずっていた。
だが、どうしようもなかったのだ。電話をかけなかったとしても、その先には苦しみと同居する日常しかないのだから。上昇していくエレベーターの中で、香澄はまるで悪夢の続きを見ているような気になった。
何もかも殺風景だ。ここを訪れる人間は皆同じような不安に駆られるのかもしれない。フエルト地のマットで補修されたエレベーターは香澄にそんなことを考えさせながら、5の数字を点滅させて真っ白な部屋へと送り出した。
「こんにちは」
そのお手本のような挨拶が壁に掛けられたディスプレイから発せられたものだと気が付かなかったのは、香澄がエレベーターを降りた直後に声をかけられたせいでもあるだろう。ご丁寧にも『こんにちは』と画面上に表示しているその機械以外はただの何もない真っ白な小さい部屋で、左右に扉はあるようだが香澄が近づいても開く気配はない。
香澄がきょろきょろと部屋を見回していると、今度は電子音とともに「受付はこちらです」と画面に表示された。どうやらこの機械が来訪者を案内してくれるらしい。香澄が画面に触れるとすぐに「浅間香澄さんで間違いありませんか?」と表示され、その下には予約日時が書かれている。香澄が『はい』を押すと、待っていたかのように左側の扉が開き「左の部屋にお入りください」と案内された。
「こんにちは」
声の主はブラウニー色に包まれた部屋の中で香澄を出迎えた。どうやらこちらは機械ではないようだ。藍色のソファに座っている白衣の女性は銀縁の丸眼鏡越しに香澄を見ると、斜め前のソファを手で示した。
「どうぞ」
この白衣の人が電話で話した人なのだろう。病院というよりホテルのようなこの部屋には他に人の姿は見当たらない。様々な警戒心が香澄の心に張り巡らされていたが、最終的に抱いたのは目の前の女性の丸い雰囲気とソファの柔らかさだった。
「久しぶり、と言っても憶えていないよね」
「はい」
その言葉は香澄のどこかで引っかかっていた想像を現実にするものだった。この場所も病院の名前も白衣の女性も、何一つ香澄の記憶にはないものだ。それなのに目の前の初めて会ったはずの人は香澄のことを知っている。自分の身に起きている異変や黒い手帳のことを考えると、香澄は自分の知らないところで何かが起きていたとしても不思議ではないと思うようになっていた。
「じゃあ、初めまして。久慈丸かえでです」
「あの、どこかで会ったことがあるんでしょうか」
「そうですね。何から話しましょうか」
久慈丸は悩ましげに考えながら、テーブルの上にあるティーポットを手に取って紅茶を淹れ始めた。華やかな香りにつられて香澄が向かい側の壁に視線を向けると、壁一面に敷き詰められた棚には難しそうな本や玩具などが並んでいる。学術書の間を陣取っているのはどれも熊の形をしたオブジェで、テディベアやホッキョクグマのスノーボール、木彫りの熊など様々な熊が我が物顔で居座っていた。
部屋は家主の脳内を表していると言ったりするが、この空間は久慈丸の頭の中そのものなのかもしれない。久慈丸の小さな身体と柔らかい表情を見ていて、香澄はそんなことを考えた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「香澄さんはミルクティーの方が好みでしたかね」
「いえ、ダージリンも好きです」
「それはよかった」
きっと自分は、記憶にはない過去でこの人と親しかったのだろう。香澄は久慈丸の笑顔を見て、普通ならあり得もしないようなことに不思議と確信のようなものを抱いた。
記憶以外の何かが憶えている。香澄の心に滲んだのは複雑で、何者でもないような感情だった。
「私、記憶がないんでしょうか」
「ええ、そうですね。正確には消したと言った方がいいかもしれません」
「消した?」
憶えていないわけでもなく、消えてしまったわけでもない。記憶を消した、ということがどういうことなのか香澄はすぐには理解できなかった。
「浅間さんは今から3年前、中学2年生のときにここで記憶を整理する治療を受けています。簡単に言えば、過去の記憶を忘れる治療です」
忘れていたということはあまり問題ではないのかもしれない。大切にしていたものも時にはなくなってしまうことがある。けれど、大切にしていたものがなくなっていることにすら気付かなかったというのは少し違う。それに気が付いたとき、自分は「大切に思っていた」という感情さえもすでに失っているのだ。
大好きだったはずの日々が、忘れてしまっても気付かないほどにどうでもいいものになってしまっていた。香澄にとってそれは、罪悪感の伴った喪失だった。
「浅間さんは、中学二年生より前のことをどれだけ憶えていますか?」
「えっと、中学ではバド部に入っていて、英語は好きだったけど数学は苦手で」
「ご家族のことは?」
「えっと……あれ……?」
まるでそこだけ真っ黒に塗りつぶされたようにまるで思い出せず、香澄は身体からは血の気が引いていった。
「大丈夫です。もう思い出すのをやめてください」
香澄の思考は消えてしまった記憶から逃げ出すように、真っ黒に塗りつぶされた記憶の断片を意識から消し去った。まるで知らない人間の記憶を覗いているような感覚が残る。真っ黒の記憶は確かに香澄自身の記憶のはずなのに、愛着も既視感もない酷い映画のようだ。
自分ではない誰かが作り出した偽物の記憶。香澄はそんな思いさえ抱いた。
「私は、家族のことを忘れているんですか」
「はい」
「どうして」
「香澄さんが消したのは、中学二年生から前の家族との記憶です。もしかしたら、それ以外の過去の記憶も曖昧になっているかもしれません」
「じゃあ、私の頭が時々痛むのはそのせいなんでしょうか」
「その可能性が高いと思います」
自分の知らない過去の自分なんて、他人のようだ。今まで香澄の心の中で眠っていた過去の香澄が起き出して心の中をかき乱している。
今こうして棚から笑いかけているテディベアも、過去のもう一人の香澄には違ったものに見えるのだろう。澄んだ青空も満天の星空も何もかもがもう一人の香澄には違ったものに見えるはずだ。痛みとともに心を包み込んでいた不安はそれくらい異質なもので、香澄にはモノクロの世界での感情こそがもう一人の自分のような気がした。
「おそらく、このままでは香澄さんの過去の記憶はいずれ思い出されてしまうでしょう。その場合、苦しい感じや頭痛はさらに酷いものになるかもしれません」
「そうですか」
「それに、今の香澄さんの人格に影響が出ることは否めません」
「じゃあ、また消してしまうんですか」
「できれば避けたいところではありますけど、最悪の場合は」
途端に静かになった部屋は香澄の時間だけが止まってしまったようで、鈍い思考の中ただ何かを待っているかのように流れていた。
止まった時間の中で香澄は熊だらけの壁を見つめた。ここには熊ばかりがいるけれど久慈丸は何か生き物を飼っているのだろうか。今は敬語を使って仕事をしている彼女も休日は黒猫を膝に抱いて日向ぼっこをしているかもしれない。今よりもっと頬っぺたをふにゃふにゃにして黒猫を抱く久慈丸の姿は、どことなく香澄の中に残っていた幸せと反響して香澄の頬っぺたもふにゃふにゃにしてしまいそうだ。
「久慈丸さん」
「はい」
「私はどうすればいいんでしょうか。記憶を消すことも、自分が変わってしまうのも、なんだか悲しいです」
「記憶を消すという治療法は私もできる限り取りたくありません。記憶の消去はその人の人格を大きく変えてしまう上に、消した記憶を思い出してしまうような要素を排除する必要もあります。今の香澄さんのように再発のリスクを考えれば、簡単にできる治療法ではありません」
「でも、中学二年生の私はしたんですね」
「あの時の香澄さんは心が壊れてしまっていて、記憶を取り除く以外に方法が見つかりませんでした。正直なところ、今でも過去の記憶を思い出していいのか悩んでいます。少しでも今の香澄さんでいられる方法を探しているのですが」
「変わるのは止められないんですね」
「このままだと、そうなります」
「そうですか」
「私も香澄さんを救う方法を探しているところです。ただ、香澄さんには過去を思い出すのか忘れてしまうのかを決めてもらうことになるでしょう」
過去の今よりずっと苦しんでいた自分はどうやって記憶を消すと決めたのだろう。苦しんでいた香澄も、記憶を消すと決めた香澄も、今こうして生きている香澄には別の存在のように見える。
過去の苦しみの中で、僅かに灯った幸せは消えてしまうかもしれない。そうしたら、そこに残っているのは本当に香澄自身なのだろうか。冷え切った紅茶の残りはなんだか濃ゆくて違う飲み物のようだった。
「すぐに決断することは難しいと思うので、また一週間後に来てください。分からないことがあったら、ここにメッセージを送ってもらえたらと思います」
メールアドレスとチャットのIDが書かれた紙を受け取ると、香澄は小さく会釈をして部屋を去った。何も頭に届いてこない帰り道の記憶はぶつ切りで、香澄が気が付いたころにはすでに家の中にいた。
どうやって帰ってきたのだろう。どこかで嗅いだメロンパンの匂いがやけに鼻に残っていた。




