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 曇り空の朝は香澄の身体にずっしりと圧し掛かり、どんなに息を吸い込んでも酸素は外に出るばかりだ。まるで穴の開いた風船を膨らましているような感覚を抱えながらの登校は、灯と一緒に居るというのに香澄の笑顔を陰りがちにしていた。


「今日もバイト?」

「えっと」


 灯の何気ない一言も不鮮明な脳にはすぐに届かず、多大な遅延を伴いながら香澄は今日の放課後の予定を聴かれているのだと理解した。世界はこんなに広がっているのに、どうして自分の脳はこんなに狭くて窮屈なところにいるのだろう。香澄は自分の思考がすりガラスの壁によって押しつぶされていくのを感じながら、無理に考えを巡らせようとした。しかし湧いてくるのは窮屈さと漠然とした嫌悪感くらいだった。


「無かったはず」

「じゃあ、何か食べに行くか」

「えっ、おごってくれるの?」

「うわっ、すごいグイグイ来るな」


 いくら身体が重くてもこの時間は香澄の大事な時間だ。頭痛の度に真っ黒に塗り替わりそうな思いを灯との時間は違う色に塗り替えてくれる。灯を拒絶したあの時の気持ちも胸の底で渦巻く不安もかき消すように、香澄は灯と一緒に笑っていられる時間を大切にしようとしていた。


「甘いものがいいなーしばらくケーキ食べてないし」

「分かった分かった。奢るから腹をつつくのをやめなさい」

「えへへ、やったー」


 校門へと続く道はマンションの壁と街路樹に囲まれて真っすぐに伸び、幹線道路を抜けるタイヤの音が時折話し声を掠めとる。重い身体に冴えない頭で歩くどんよりとした道も、灯が少しだけ香澄の方へと身体を傾けて話すたびに憂鬱が薄れていく。香澄はその距離を幸せに感じている自分に気が付いて、少しほっとした。


「実は灯も甘いもの好きだよね」

「香澄ほどじゃないけど」


 灯と寄り添っていたのも束の間、香澄の表情が変わった。鈍く頭を締め付けられるような痛みと視界の歪みが始まり、香澄は灯の腕を掴んだ。


「香澄?」

「ごめん、ちょっと痛む」

「大丈夫か? 歩ける?」

「うん、ゆっくりなら」


 何度も繰り返される光景に香澄はうんざりしながら灯とともに校門を抜け、校舎へと歩いていく。あれから何度こんな思いをしただろうか。近くで聞こえてくる灯の声をぼうっと聞きながら、香澄は自分の日常に居ついた最悪な時間を疎んだ。

 もうこんなにアスファルトを目でなぞることもないだろう。にわかに聴こえるざわめきの中、灯の腕は香澄を包み込んで支えていた。


「保健室でいい?」

「うん」


 人に身体を預けるとどうして居場所を見つけたような気持になるのだろう。下駄箱までたどり着いた香澄はその場に座らされると、灯に靴を脱がされた。揺らぐ景色の中で香澄は自分が何をされているのかをおぼろげながら理解しようとしたが、気付いたころにはかばんを奪われて灯に背負われていた。


「スリッパは後で持ってくるから」

「わかった」


 どこか焦点の合わない景色は視界の真ん中だけが黒く塗りつぶされ、歪みを伴ったまま目まぐるしく通り過ぎていく。頭痛と目に映る光景の気持ち悪さに耐えるように、香澄は目を閉じて灯の首元に顔を埋めた。


「灯」

「ん?」

「ありがと」

「ああ」


 目を閉じて揺れる背中にしがみついていると周りを流れる時間が変わった。鼓動の音が聴こえてきそうな体温と足音が刻む真っ暗な世界は、香澄を取り囲んでいたものをゆっくりと力強く押し流していく。

 自分は何を求めているのだろう。温もりに浸っていると、いつのまにか灯の身体が止まっていた。


「香澄、下ろすぞ」


 するりと太ももがシーツを撫でる。カーテンから漏れる光は瞼を開いた香澄の視界を白く覆いつくし、見上げた場所には薄っすらと光を浴びた灯の姿が見えた。


「先生は居ないみたいだから、ここで寝とけよ?」


 白と黒が混濁する景色の中で聴こえたその灯の声は、今まで香澄が聴いてきた中で一番優しい声だった。

 どうして自分の目は灯の姿を映さないのだろう。じっと目を凝らしてもそこにあるのはぼやけた光ばかりで、確かにあるはずの灯の優しげな顔を香澄の目は映そうとしなかった。


「横になって」


 瞳に映らない灯の声が香澄の耳元で空気を擦るように響く。確かにその声は灯のはずなのにとても艶やかで、香澄はその声を聴いているとなぜか堪らなく不安な気持ちになった。

 まるで自分が自分でないような感覚。灯が近づくたびに、香澄は自分という人間がまるで変ってしまうような気がしてならなかった。


「ほら、大丈夫だから」


 不安と優しさが溶け合ったベッドは少し軋みを立て、香澄はこのままどこかに落ちていきそうな気がした。灯はすぐそこに居るというのに、どうして身体が震えているのだろう。きっと以前の香澄なら、今という時間は幸せなだけの大切な時間だったはずだ。香澄は何もかも変わってしまうようで怖かった。

 それでも香澄は自分の想いを取り戻すように灯の気配に向かって手を伸ばした。気配は香澄を横から包み込んで香澄の身体をつかまえる。足を持ち上げられる感触があった後、香澄の身体は抱きかかえられてゆっくりとベッドに寝かされた。


「香澄、大丈夫か?」

「助けて」


 探りながら灯の腕を掴んだ香澄の手は、冷え切って震えていた。香澄の視界は歪みを残しながらも鮮明さを取り戻していく。天井に押しつぶされるような不安と身体が途方もなく深い闇へと落ちていくような恐怖が襲い、香澄は縋るように灯の腕へと手を絡ませた。


「どうした? 何かあった?」

「ごめんなさい」

「香澄?」

「私なんかがいるから。許してください」


 世界に押しつぶされるような感覚は明瞭に香澄を覆い、掴んだ手さえも離れてしまいそうな震えが胸の奥から湧き上がって抑えられなかった。どこにも居場所は存在しない。ここが保健室で、自分はベッドの上にいるのだという意識が香澄の頭の中から抜け落ちていた。

 何もかもが自分を苦しめるためにある暗くて冷たい世界。香澄の目に映る景色は混沌となり、ここから逃げないといけないような焦燥とどこへも逃げられないという絶望が波のように打ち寄せてくる。


「ごめんなさい」


 真っ暗な世界の片隅に、小さな机が見えた。

 いつの間にか机は香澄の目の前に現れ、じっと香澄を覗き込むように佇んでいる。何も乗っていない机はからからと音を立て、小さな引き出しが地を這うように押し出てきた。

 真っ暗でぽっかりと穴が開いているような引き出しは、一見何も入っていないように見える。外も中も真っ暗なこの世界はどこまでも空っぽだ。しかし、引き出しに手を突っ込んだ香澄は何か革のようなものに触れた。

 すでに冷たくなった手で触れているのにそれ以上に冷たく感じるそれは、真っ黒な手帳であった。それは暗闇の中で一際黒く、氷のようにどこまでも冷たい。手帳ではなく何かおぞましいものなのではないか。冷え切った手から滑り落ちる黒い手帳は重力に従いながら、こぼれた黒いインクのように闇の中へと溶けていった。


「あれ」


 暗幕が落ちるように光に包まれた香澄の瞳に映ったのは無機質な保健室の天井だった。もしかして自分は今まで寝ていたのだろうか。身体を起こす気怠さとベッドを囲むカーテンに差す真っ白な光は香澄が長い時間眠っていたことを物語っていた。

 あれだけ香澄を支配していた恐怖心はどこにも見当たらない。何もかもすべてが悪い夢だったようだ。のびをしながらベッドを降りようとした香澄は、枕元に置いてあった紙を見つけて小さく笑った。

香澄は嫌な夢を見るたび、この手紙のことを思い出すだろう。灯の字で「起きたらすぐ家に帰って休むこと」と書かれた置き手紙を胸ポケットにしまうと、香澄は憂鬱を忘れるように一人家へと帰っていった。

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