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 もがけばもがくほど苦しみに埋もれていく。そんなことは分かっている。それなのにもがかずにはいられないのは、動きを止めてしまうと不安が背筋を這い上がって心臓へと入り込み、もう二度と動くことのできない身体にされてしまうような気がするからだ。

 常に鋭利な刃物を突き付けられているような感覚を背後に覚えながら歩く街は香澄の心を日に日に削り取っていった。

 いつも通りの日と恐くて学校にさえも行きたくない日とを繰り返し、どちらがいつも通りなのか分からなくなっていく。平衡感覚を失った日常は香澄にはどうすることも出来ず、転がり落ちながら必死に手を伸ばして何かを掴もうとするしかなかった。


「今日はどう?」

「はい、なんとか」


 息をひそめるように座ったレストランの一角がどこか落ち着かないのは硬いソファのせいではない。自分を心配そうに見つめる汐音の大きな目も相変わらずな店内の喧騒も慣れているはずなのに、香澄は顔を伏せたくなるような胸騒ぎを湧き上がらせるばかりだった。


「今は無理しない方がいい。体調、あんまりよくないんだろ?」

「はい」

「昨日店長と話してしばらく休むかもしれないって言っておいた。また店長から電話があると思うから、出来る範囲で今の状態を話してあげて欲しい」

「ごめんなさい。そこまでしてもらって」

「いいよ。そういう時もある」


 アルバイトのない放課後、香澄は汐音先輩と会うことが増えた。

 一人になりたい衝動と誰かと一緒に居たい思いが混ざり合っている香澄にとって、汐音先輩は会いやすい人だった。それはここに初めて来たときに決めた「お互いに対して思っていることを言う」という約束によるものかもしれないし、汐音先輩の「悪くは言わない」という言葉への信頼かもしれない。汐音先輩と一緒に居る空間は学校にいる時よりも静かで、一人でいる時よりも心細くない。


「やっぱり場所変えた方が良かったかな。ここだとうるさいし」

「大丈夫ですよ。隅の席ならそれほど気にもならないので」


 相変わらずレストランの中は笑い声やレジの精算を急かすベルの音、糸を張ったような店員の声が飛び交っている。自分の感情の根源を探すため、香澄はレストランに入ってからの記憶を辿っていたが胸騒ぎはそのせいではないような気がした。

 出入口ですれ違った親子連れも後から入ってきた高校生の男女も、取り立てておかしいところはなかった。自分は何に怯えているのだろう。香澄はこんな何気ないことで不安になっている自分にため息をついた。


「俺は浅間が心配だ」

「すいません」

「謝らなくていいよ。ただ、最近の浅間は不安そうにしていることが多いから」


 汐音先輩から「今日会わない?」というメッセージを受け取る度、香澄は何もかも見抜かれているような気がした。

 頭痛とともに「モノクロな世界」に視界が覆われ、香澄が不安と苦しみにあえいでいる日には汐音先輩はメッセージを送って来ない。汐音先輩はこうして一緒に居るのに香澄の一番繊細な部分には決して触れようとしなかった。


「俺に出来る範囲で何とかできたらいいけど、正直それだけじゃどうにもならないかもしれない」

「いえ、嬉しいです。汐音先輩が居てくれて」

「ありがと。リップサービスでも嬉しいよ」

「そんなこと」


 こうして二人で話していると、香澄は段々と周囲の喧騒を忘れることができた。

 汐音先輩はあまり多くのことは訊かない。その日の香澄の体調を尋ねては心配そうな目をしてじっと考え込む。約束通り香澄が汐音先輩をどう捉えているかを聴き出してはまたじっと考える。その度に香澄は汐音先輩の思考を追跡しようと脳の電気信号をめいいっぱい巡らせ、少しずつ二人の世界に入っていった。


「浅間はさ」

「はい」

「理解できないものは恐い?」

「恐いかは分からないですけど、時々不安にはなります」

「そっか」


 香澄は以前から無性に汐音先輩の頭を撫でまわしたくなることがあった。

 そういうときは決まって汐音先輩が悲しそうで行き場のないような顔をしている時だ。一人が寂しいのなら、誰かと寄り添えばいい。相手の考えていることが分からないとしても、そこにある感情が伝わるのなら最悪の時間も一緒に凌げるはずだ。不安で苦しんでいる人間が誰かに手を差し伸べるなんておかしいと思われたとしても、香澄は汐音と一緒に居たいと思った。


「この不安も、偶然ですかね」

「ああ、そうかもね」


 汐音先輩がくしゃっと笑って、香澄はなんだか救われた気分になった。

 苦しみも不安も最悪の日も、みんな偶然にしてしまおう。濃紺に染まった空と無数のヘッドライトが行き交うこの街の景色にはそれくらいの曖昧さが丁度いい。窓を見つめた二人は反射した互いの顔を見て、もう一度笑った。

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