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誰もいない屋上はスカートを翻す暴力的な春風もなく、青空のもとで一面に広がるビルの景色と広大な日向を用意して香澄を出迎える。コンクリートの庭には人っ子一人見当たらず、香澄は真ん中まで歩み出ると紫外線も気にすることなくその場に座った。
風とクラクションの音が聴こえるばかりの屋上では街をひっそりと流れる二級河川のせせらぎも小鳥の甲高いさえずりも届くことはない。雲と一緒に流されそうな気持ちになりながら、香澄は灯を待っていた。弁当箱を開けずにビルの突端と空の境目を眺める時間は相対性の狭間のようだ。誰かを待つのは永遠のような時間のはずなのに、香澄は今にも終わりを告げるチャイムが鳴りそうな気もしていた。
天気予報士が「快晴」とだけ伝えた空はここが宇宙の一部であると知らしめるような群青で香澄を見下ろしている。最早ここが宇宙の果てなのかもしれない。そんなことを考えながら、香澄は白い水筒に入った水を空っぽの身体に流し込んだ。
コツっと後頭部に何かが当たる。湧き上がった思いを処理する間もなく、香澄の身体は咄嗟に後ろを振り向いていた。
「なんて顔してんだよ」
香澄に当てたペットボトルとコンビニの袋を地面に置くと、灯はしゃがみ込んで香澄の顔をじっと見つめた。
まだ冷たさを残す風が波のように頬を掠める。灯を見ていてどこか安堵めいたものを覚えるのは灯が水のように透明だからだろうか。色も遮るものもなく、目の前にいる人の内側が見える。たとえそこに映っている透明が作りものだとしても、香澄は昼の日差しが溶け込んだ透明な肌に包まれていたかった。
「屋上なのに寒いね」
「香澄は寒がりだもんな」
一人でいるには寒い四月の屋上はいつの間にか香澄に体温を求めさせていたのかもしれない。背中越しに抱き寄せられた香澄の身体はどこか深いところへ落ちていくようで、身体を包み込む腕も背中に感じる重さも微かに感じる灯の息遣いもすべてが暖かな感情に変わっていった。
愛とは何かなんて高尚なことは分からなくても、目の前にある感情が代え難く大切なものであるということは香澄にも痛いほど分かる。きっと顔は赤くなっているのだろう。いつになく熱くなっている自分の頬に手を当てながら、香澄はもう一方の手で灯の袖を握りしめた。
「灯」
「うん」
抱き寄せていた腕が解ける寂しさを埋めるように身体を灯の方へと向ける。掴んでいた袖を離すと灯の手が香澄の手をそっと包み込み、そこに居ることを確認するように互いの指と指とを交わらせた。
「目、つぶって」
当てもなく人を待つ晴天は不確かなものだったのに、来てくれることを知っている暗闇は胸を高鳴らせてくれる。髪を潜らせる灯の手の感触が気持ちよくて、香澄は灯の手をぎゅっと握った。重なり合った唇は胸の底にあった硬いものを溶かし、甘く温かいものが広がった。
「名前、呼んで」
緩やかな風に吹かれてビニール袋が渇いた音を立てる。ふっと舞い上がった風は灯の香りを含んで消えていった。
「香澄」
太陽から隠れるように座り込んだ屋上の壁際には、焦点の合わないぼんやりとした光が揺れる。これが高揚感というものだろうか。灯の首元に頭を預けるように俯き、香澄は耳の裏側で鳴り響く心臓の音をぼうっと聴いた。
「灯は優しいね」
この時がいつまでも続いたらいいとは思わない。この「好き」という思いは揺らぐからこそ愛おしいのだと香澄は知った。変わると知っているからこそ、香澄は灯とキスをする。そこにある「好き」に浸るように。
それは昼食を食べ始めてからも一緒で、香澄と灯は身を寄せ合うように並んで互いの食べ物を分け合った。いつもより近い距離も不思議と嫌とは思わない。消えてしまうかもしれない心を少しでも記録して残そうとするように、香澄は灯に身体を傾けた。
「灯」
「ん?」
「おいしいね」
ちぎったたまごサンドも冷たくなった炊き込みご飯もなんてことはない味なのに、何年先になっても憶えているような気がした。これが最後の昼食になっても何も言うことはないだろう。香澄は今が幸せな時間だと信じていた。
「灯が来てくれたよかった」
「そりゃあ来るって。他に行くとこないし」
逆立った肌から力が抜けていく。灯は何も言わないけれど、二人寄り添って眺めるフェンス越しの空はもやもやを夢にして遠くに飛ばしてしまうようだった。
「ごめんね、灯」
何もかも周りのものはすべて変わってしまうだろう。このままにしておくことができないということは、香澄には分かっていた。それでも、失くしてしまうのはあまりに悲しかった。




