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 誰かが「峠は越えた」と言ってくれたなら安心して道を進むことができるのだろう。けれど実際にはどこが峠なのかも分からないような道ばかりだ。

 誰も到達点がどこなのかも分からないまま道を歩いている。だからひと時も安心することを許さない。これから先にも険しい峠が待っているかもしれないから。たとえ今日が幸せだからといって、明日も幸せとは限らない。昨日の香澄が明日の不幸を嘆いていたのなら、今日の香澄は今の幸せを喜ぶだろう。つまり、今の香澄は「いつも通りの」香澄であった。


「こらー、御影ー。来て早々寝ちゃ駄目だぞー」

「時差により、こちらは寝る時間となっております」

「どことの時差だよ」

「ニューヨーク」

「いや、あっちはまだ20時だぞ。もう少し頑張れ」


 起きてみると不安を抱えているのが馬鹿馬鹿しく思えてくるほどの清々しい朝に迎えられ、香澄はいつも通りに教室に来ていた。

 こうして御影や咲葉と話していると、昨日の苦しみも汐音先輩と一緒に居たこともすべて夢のように思えてくる。香澄は悪夢のような一日を悪夢にしてしまうことにした。悪夢から目覚めた後の現実はどうしようもなく愛おしい。


「香澄ー」

「んー?」

「いきなり私がキスしてほしいって言ったらどうする?」

「断るけど」

「えっ、なんで」

「なんとなく、気持ち悪いし」

「咲葉ー、香澄が酷いこと言う!」

「いや、なんでいけるって思ったんだよ」


 雑談は意味がなければないほど価値があるのかもしれない。重要な話や事務的な話、内容さえ伝わればいい話は仲の良さに関係なくすることができる。意味のない話は話の内容なんてどうでもよくて、一緒に下らない話をしているという状況に意味があるのだ。香澄にはこの何の意味もない場が何よりも居心地が良く、自分の愛した世界に戻ってきたのだと実感できた。


「どうして突然そんなことを訊いたの?」

「どれくらいの関係になったらキスが許されるのかなーって思って」

「どれくらいって、付き合ってからじゃない?」

「でも彼氏はまだ早いけど、キスは欲しいってときもあるじゃん?」

「どんな想定だよ」

「咲葉はおこちゃまだから分からないだけだよー」

「単なる不純異性交遊にしか聴こえないんだが」

「香澄は分かるでしょ? この気持ち」

「そう言われても」


 人は好きではない人ともキスをする。香澄もそのことはよく分かっていたが、同時にそれはなんだか違う気もしていた。何の意味もない話も意味のないキスも、好きな人とじゃなきゃつまらない。「好き」がないキスをしていたら、本当の「好き」も薄れていく気がした。


「好きな人とするのが一番じゃないかな」

「ほら、香澄は不純な子じゃないんだよ。御影も見習いなさい」

「なんか香澄に言われると負けた気がするなー」


 どうしてか香澄の脳裏に灯の姿が浮かんだ。いつもいるはずの交差点に灯の姿はなく、浮かぶのは自分の下から去っていく姿ばかりだ。今日は会えるだろうか。始まった授業に耳を傾けながら、香澄は会えた時のことを考えた。

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