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 釈然としない思いを引きずりながらこなすアルバイトはいつもより淡々と進んでいくようだった。別に大きなものを失ったわけではない。香澄はつい灯に触れられるのが怖くなって大きな声を出してしまった。それだけだ。けれど香澄自身は心にぽっかりと穴が開いたようなどこか落ち着かない感覚を、注文を取る最中にも薄っすらと感じていた。

 何かをつくり上げるときは不安が付きまとう。積み木で精巧なお城を作ろうとしている時、ジグソーパズルの完成が近づいてきた時、ドミノを並べている時。何かの拍子に今まで作ってきたものが壊れたらどうなるだろうか、そうなったら今までの時間はなんだったのか。そんな思いが完成に近づくと同時に湧き上がり、作り上げたものが今にも壊されそうになると絶望に近い狂乱が首をもたげる。

 香澄は心のどこかでバランスを取りながら生きてきた。片方の木を積み上げたらもう一方の木も積み上げ、絶えず同じ高さの塔を築き続ける。そんなことを無意識のうちに行っていた。香澄の心の中で絶えず均衡を保たれてきた木の塔は、灯に向けて発せられた香澄自身の言葉によってわずかに崩れ、大切に育て続けた均衡を失ってしまった。

 このままでは作り上げたバランスが崩壊してしまう。香澄の心に開いた穴はそんな無意識の不安によるものであった。


「香澄、そろそろ上がっていいよ」

「分かりました」


 店長に告げられて時計を見た香澄はもうすでに9時を回っていることと、バイトをしていても心境に大きな変化がなかったことに気付いた。ざわざわとした気持ちを一時的なもので、バイトが終わるころには消えてしまっているだろう。そんなことを考えていた香澄はいよいよ自分の心が分からなくなってきた。


「お疲れ様です」

「うん、お疲れ」


 注文を取るときも、店長と話すときも、香澄の感覚ではいつもとは何も変わらなかった。ただ常に妙な落ち着かなさが渦巻いているだけで、楽しさも嬉しさも確かに感じ取ることができていた。自分はこんなに情緒不安定な人間になってしまったのだろうか。香澄はバックヤードに戻ると、何もかも忘れさるようにエプロンを脱いだ。


「浅間、今いい?」


 扉越しに響いたノックの音と男の人の声に香澄は急いで制服を着た。その透明感があってはっきりしているのにどこか力の抜けた声は、間違いなく久野汐音のものであった。


「はい、大丈夫です」

「お疲れさま。よかったら、これ飲んで」

「ありがとうございます、汐音先輩」

「あと、もうすぐ上がるからそれまで待ってもらってもいい?」

「えっ? いいですけど」

「ありがと」


 そのままマグカップの温もりを両手で閉じ込めてしまいたい。閑散としたバックヤードに広がる香りをめいいっぱい吸い込み、香澄は今という時を記憶に保存しようとした。ミルクも砂糖も入れていないコーヒーは口に入れると苦さの中にほんのりと甘い匂いが漂い、最後にはまろやかさだけを残して舌の上から消えていく。

あれだけバイト中に嗅いでいたはずのコーヒーの匂いも、ここでは香澄に汐音先輩を感じさせる思い出に過ぎない。これからこのコーヒーを何度飲むことができるだろうか。香澄は脱ぎかけのエプロンと荷物が散らばる部屋でゆっくりとコーヒーを飲み干した。


「お待たせ」

「お疲れ様です」

「浅間は偉いね」

「偉い? どうしてですか」

「ちゃんと俺のコーヒーを飲んでくれる」

「飲みますよ。もちろん」

「ありがとう。浅間がいてくれてよかった」


 少し癖のかかった髪の間から漏れた微笑は、どうしたことか香澄の目には悲しみを伴った顔に見えてならなかった。今日に限ったことならば自分の心境によるものだったかもしれない。

けれどその表情は香澄が何度も見てきたよく知っているものだった。手早く香澄とは違う高校の制服を羽織る背中の奥にはどんな感情が眠っているのか。それは世界の果てなんかよりもずっと見つけるのが難しいように思えた。


「行こっか」

「えと、どちらに?」

「夕飯。まだでしょ?」


 店から出て、陽の暮れた街で肩を並べて歩く汐音先輩を香澄は見ていた。まだ真夜中と言うには早すぎる夜の道は行き交う通行人を煌々と照らし出す。この街灯がまばたきをしたら隣を歩く人影を見つけることは叶わないだろう。香澄はそんな予感を抱えながら汐音先輩に歩くスピードを合わせた。


「こっち」


 その先にあったのは香澄のよく見知ったレストランの看板だった。ガラス越しの店内には家族連れと所々に高校生の姿があり、そこそこ混んでいるように見える。汐音先輩はそのままふらりと中へと入っていき、扉に付いた鈴がからんと音を立てた。

 喧騒を詰め込んだ店内から逃げるように汐音先輩は窓際へと進んでいく。どうやらこういう店に慣れているようだ。もしかしたら普段もこうして食事を済ませているのかもしれない。


「なんとなく、暗い気がしたから」


 いつもと違う状況にはいつもと違う何かが関連している。香澄が隠していた暗い気持ちをこの繊細な先輩は察したのだろう。この周りの景色も、笑い声も、香澄には自分がどうしようもなくいつもとは違うことの証明にしか見えなかった。


「ちょっと、身体の調子が悪くて」

「もしかして病気?」

「そんなに大げさなことでもないんですけどね。今朝から頭が痛くって」

「頭痛か」

「でも心配要らないですよ。もう治ったので」

「それならいいんだけど」


 それっきり、汐音先輩は黙ってしまった。響き渡る話し声や食器の音に耳を澄ませ、窓の外を見つめる瞳には何が見えているのだろう。香澄には汐音先輩の考えていることが分からない。もしかしたら何一つ分からないかもしれない。人の思考は分からないのが当然だけど、香澄には久野汐音という人間の思考は特に分からなくて特別おもしろいものに思えた。それゆえに香澄は汐音先輩が好きだった。

 汐音先輩は外を、香澄は汐音先輩を眺め続けた。そうしているうちに料理がきて、二人は時折互いに目配せをしながら黙々と自分の料理と食べた。


「浅間は、人が好きだろ?」

「あんまり意識したことはないですけど、好きだと思います」

「誰とでも楽しく話せて、誰とでも仲良くできる。それはすごく良いことだと思う。でも、それを嫉む人も多い」

「そうかもしれないですね」

「だから俺は浅間に人を嫌いになって欲しくない。勝手なことかもしれないけど、そう思うんだ」


 人を嫌いになる、という感情が香澄にははっきりと理解できなかった。好きか嫌いかなんて香澄にとってはそこまで重要なことでもなく、そんな風に人を仕分けたこともない。目の前に座っている汐音先輩のことは間違いなく好きなのだが、その好きがどのぐらいの好きなのかは曖昧だ。それに今まで生きてきて、はっきりと人を嫌いになったこともない。好きも嫌いも曖昧、それが香澄から見た人間なのだ。

 ただ、香澄は汐音先輩の言葉を聴いて今日の出来事を話そうと思った。それは灯を拒絶した時に感じた心のざわめきの正体が掴めるかもしれないと思ったからだった。


「汐音先輩。私、自分でも自分の思いが分からないんです。自分を心配してくれた友達にどうしてあんなに酷いことを言ったのか、思い当たる感情がなくて」

「そっか。浅間も人間なんだな」

「に、人間ですよ。ちゃんと人間です」

「なんか安心した」


 食べかけのドリアを口に運ぶ汐音先輩は、この世界の厄介ごとをすべて笑い飛ばしてくれそうな顔をしていた。

 まだ薄手のコートが手放せない季節に熱いブラックコーヒーを香澄に飲ませるこの人は、外の世界が寒いのを知っているから温もりを大切にできるのだろう。こんなにも店内は騒がしいというのに、二人の座るボックス席だけは互いの声が透き通るように聴こえた。


「偶然なんだよ。何もかも」

「偶然?」

「人と人の出会いも今持っている感情も、全部偶然だ。偶然一緒に居て、偶然その人を好きになっている。明日も一緒に居られるかなんてわからないし、今日と同じ感情で接することができるかも分からない。偶然そこにあるだけだ」

「それは少し悲しいですね」

「別れることが決まっている訳じゃない。もしかしたら自分でも想像していなかったくらい長いこと一緒にいるかもしれない。ただ何もかも変わってしまうのなら、全部偶然のせいにすればいい」


 香澄の脳裏には灯の姿が浮かんでいた。灯は変化に逆らおうとするだろうか。必死に抗おうとする灯も、何もかも受け入れようとする灯も、香澄には灯らしく思えた。


「それでも分からずに変わっていくのは怖いです」

「じゃあ、俺で試す?」

「試すって?」

「浅間が周りの人をどう捉えているか。その移り変わりが分かれば少しは安心できるだろ」

「はあ」

「ここに来るたびに香澄は俺のことをどう思っているかを言う。俺は極力それに反応しないようにするし、怒ったりもしない。だから香澄は自分の気持ちに正直になることだけを考えたらいい」

「それはちょっと、恥ずかしいですね」

「じゃあ、俺が香澄をどう思っているかを言えば話してくれる?」

「えっと、それは」


 香澄だって気にならないわけではなかった。人が自分に対してどんな感情を抱いているのか。それも久野汐音という人の思いならばなおさらだ。こうして二人でいる時間も偶然だとするならば、その偶然に任せてみてもいいように思えた。


「その、よろしくお願いします」

「そんなに身構えなくてもいいよ。ほとんどはさっき言っちゃったし。それに浅間は良い子だから悪いようには言わないよ」

「そうですかね」

「うん。浅間には感謝してる。浅間が居てくれるお陰で、店の雰囲気も良いし」


 店長とアルバイト数名でやりくりしているお店。香澄は面接のときに店長から「汐音と一緒に入ってもらえないかな」と言われ、それからもずっと二人セットでシフトに入っている。香澄には自分が入る以前のお店を知ることはできないが、今のあの場所が自分にとって大切な場所であることは間違いなかった。


「ほら、俺と店長はゆるふわって雰囲気じゃないからさ」

「汐音先輩はゆるつやって感じだと思いますよ」

「なにそれ」

「初めて会ったときに思ったんですよ。つやつやしてる人だなーって」

「そんなに緩いかな、俺」

「そのままでいいんですよ、汐音先輩は」


 いつの間にか空席が目立つようになった店内で、香澄はこの日初めて汐音先輩の近くにいられた気がした。


「帰るか」

「はい」


 席を立つ香澄の身体は軽く、胸で渦巻いていたざわめきも消えていた。汐音先輩の中ではそれも偶然なのだろうか。気まぐれに差し伸べられた手を両手で握り返して、香澄は一日を終えた。

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