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朝から激しい頭痛に見舞われるのを平穏と呼んでいいかは分からないが、香澄にとってはそれでも今日と言う一日は平穏であった。
結局昼休みにも灯が姿を現すことはなく、どうせ帰るときに会うからいいやと女子同士でのんびりと過ごした。窓からは暖かな陽射しが差し込み、そんな日はいつもより時間が少しだけ引き延ばされたような気がした。
もしも世界の果てというものが存在するのなら、そこは一日が永久に続く場所なのだろうか。そうだすれば、そこは通勤ラッシュも渋滞も存在しない抜けるような青空と広大な草原がどこまでも続くような場所なのだろう。香澄は緩慢に進む時の流れの中で、ここも少しだけ世界の果てに近づいているのかもしれないと感じた。
「またね」
「うん、明日は倒れないようにねー」
「あはは、気を付けます」
香澄が帰りのホームルームの終了と同時に教室を後にしたのは、半開きになっていた扉の向こうに灯の姿が見えたからであった。別に一日中灯のことを考えていたわけでも、会いたくて仕方がなかったわけでもない。けれどその姿を見た途端、香澄の身体はすぐに灯の方へと動き出した。
「おう」
廊下の壁に寄りかかりながらあからさまな雰囲気を出さないように俯いていた灯は、香澄の姿を認めるとたまたま通りかかったような素振りで声をかけた。人目を気にしているのか、灯はすぐに階段の方へと歩き出し、香澄はそれにぴったり引っ付くように歩いた。
「倒れたって聴いたけど」
「いやいや、そんな大層なものじゃないよ。ちょっと眩暈がしただけ」
「こんなの初めてだろ? 風邪とかじゃないの?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと寝たらすぐ直ったし」
「何かあったらすぐ言えよな」
「うん、ありがと」
灯の心配ぶりは香澄には意外に思えた。今まで香澄が灯を心配させるようなことをしていなかったからというのもあるが、灯の直接的な優しさはなんだか新鮮だった。
「うちのクラスに来たのも私が倒れたって聴いたから?」
「まあ、そんなとこ」
「えへへ、そっか」
普段は素っ気ないところがある灯がわざわざ心配して教室まで来てくれた。どうしようもなく嬉しくなっている自分に気付いて、香澄はちょっとズルいなあと思った。
いつもと違う行動、いつもと違う表情。人は違いに弱い。いつも通りならなんてことはなく通り過ぎてしまう感情も、いつも通りではないから宝物のようになる。どこか照れくさそうに香澄の身体を気遣う灯の横顔はあんな目に合わなければ見ることはできなかっただろう。
「なんでそんなに嬉しそうなんだよ」
「えへへ、どうしてでしょうねー」
「ま、いつもそんな感じか」
「なんだか馬鹿にされてる気がするんですけど」
「褒めてるんだよ。良いなあって」
「えー? 本当にー?」
朝と違ってずっと人影が少ない校門前は隣を歩く灯の輪郭を鮮明にする。学校を出て、三つ目の交差点で別れるまでの時間が香澄は好きだった。真横では途絶えることのない自動車の列がエンジン音を響かせているというのに、陽が暮れ始めた街は決して騒ぎ立てる事なく灯の声を香澄に伝えた。
「今日もバイト?」
「うん。遊びに来る?」
「いや、いいかな」
「そういえば灯はコーヒー駄目だったね」
「そうそう。舌が子どもだから」
大人になるにつれて苦いコーヒーが飲めるようになることを舌の老化と言うのなら、灯がコーヒーを飲めないのも香澄にはなんだか納得できた。横から見るつるりとした肌と無邪気な笑顔はとても老いとは無縁そうに見える。
そんなことを考えながら灯の横顔を見ていると、香澄は頭に嫌な気配を感じた。
「痛っ」
間違いなくそれは朝の頭痛と同じ兆候であった。香澄の視界はみるみる「モノクロな世界」に埋め尽くされ、後頭部に痛みが走る。痛み自体は朝よりは強くないものの、香澄は胸に嫌なざわめきが広がっていくような感覚があった。
「香澄?」
香澄の視界の端に映った灯の姿はいつもとは違い、胸の中で様々な感情を衝動的に湧きあがらせた。どうしてこんなに真っ黒な気持ちが膨らんでいくのだろう。香澄自身にも分からないまま感情は増幅し続け、灯が肩に触れようとした瞬間に爆発した。
「やめて!」
恐怖にも似た嫌悪感が濁流のように押し寄せ、瞬く間に香澄を真っ黒に塗りつぶした。翻った身体は弾かれたように灯の手を払いのけ、四肢は何かに怯えたように小刻みに震える。
香澄の瞳には目の前の光景に戸惑いを隠せない灯の姿がわずかに映っていたが、恐れの滲んだ目は鋭く灯を睨むばかりだった。
「来るな」
まるで灯に抱いていた感情がまるで塗り替えられてしまったようだった。灯が手を差し伸べようとするたびに香澄は這いつくばったまま後ずさり、震える息を吐きながらモノクロになった景色を必死に見渡す。
「嫌だ。来るな、来るな、来るな」
蹲った香澄は目の前の恐ろしさから逃げるようにぶつぶつと呟き、冷え切った腕をしきりにこすり合わせた。
どうして灯が近づいてくると拒絶反応を示すように気持ちの悪さが襲い掛かってくるのだろう。香澄を取り囲む感情に原因らしい原因はなく、ただただ恐ろしさと居ても立っても居られないような不安とが渦巻き続けていた。
「ごめんな」
それだけを言って灯は香澄の横を通り過ぎていく。
泣き続けた後のようにどっと疲れが肩にのしかかり、次第に香澄の視界はいつも通りの色彩のある景色に戻っていた。
まるで一瞬にして周囲の世界が塗り替えられたようだった。香澄自身でもまったく理解できない行動によって世界は塗り替えられてしまった。遠ざかっていく灯の背中を目で追うことすら出来ず、香澄は手に痛みを感じながらピンとのズレた景色の中で立ち尽くしていた。




