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 混ざり合っている。

 今の自分は混ざりものだ。香澄はそんなことをふいに思った。

 それまで二つあった自分が、段々と混ざり合って今はほぼ一つになっている。

 中学二年生までの香澄と記憶を取り戻すまでの香澄。そして今の香澄。

 二つ、と言ったけれど、三つかもしれない。

 辛かったことも楽しかったことも、救われたことも、全部胸に残ったまま生きている。香澄はそんな存在だ。

 だから変わってしまったことを悲しんだりはしない。惜しまれる必要もない。

 瞳に滲む光は少し陰ってしまったかもしれないけれど、香澄はそれも好きになれた。いつまでもキラキラと目を輝かせていたいと思っていたのは、輝きを失えばもう二度と取り戻せないと気付いていたからだ。


「無くなって困るわけでもないのにね」


 休日の日差しがさらさらと木陰に揺れる公園で香澄は横に座る彗に身体を預けた。

 自分の中に渦巻いていたあの感情はなんだったのだろう。どうしてあれほどにも恐ろしく、毎日を重く灰色に染めてしまっていたのだろう。

 過去の記憶に苛まれる日々が終わったわけではない。それでも香澄はそんな記憶と一緒に生きている。


「どうするのが正解だったんだろ」

「きっと、正解なんてないよ。大切なのはこれからもそれなりに生きていくってことだろうから」

「ん、そうだね」


 彗は空洞だ。心地の良い空洞だ。

 触れる肩から思考を支配していた余分な文字が流れ出し、空洞に吸い込まれた文字たちはいつの間にかなくなっている。現代では情報を投げ込む場所を「雲」と呼ぶらしいけれど、彗は確かに雲のようにも見えた。


「もし正解があるとすれば」

「あるとすれば?」

「それは作れるはずだから」


 木々に囲まれた小さな公園は鳥の鳴き声もなく、時々葉が擦れる音が響くだけの街から忘れ去られたような場所だ。落ち葉と呼ぶには青々しい葉を払いのけて座った木目のベンチはごつごつと背に当たる。


「今が少しでもいい日になれば、いつかは自分が選んだ答えを正解にできるんじゃないかな」

「そうだね」


 ここは涼しいけれど冷たくはないのが良い。道の向こうから吹き抜ける風はどことなく優しく、思わず目を閉じて身を任せてしまいたくなる。


「それは、いつになるんだろうね」


 本当は、もう正解かどうかなんてどうでもよかった。

 彗は「いい日」を精一杯作り出そうとしているのだろう。優しさと強さに満ちた彗はそうやって人を救うのだ。いつだって。

 香澄はその事だけで十分に思えた。


「彗」

「ん?」

「んー」


 香澄はたまに無性にキスがしたくなる。これもかつての自分の名残なのだろうか。

そう考えると、どっちが本当の自分なのか分からなくなる。記憶を持っている自分は過去の経験から今のような性格が形作られている。でも、あんな経験もなく普通に歳を重ねていたなら。

 香澄は一度にすべての記憶を取り戻したわけではない。高校生活を通して、少しずつ思い出していき、それに伴って香澄の性格も徐々に変わっていった。

 近しい人たちこそ香澄の変化に気が付いたが、それ以外のクラスメイトの目には大きな変化には映らなかったようだ。日々変わっていく自分。香澄はそれが怖かったものの、それを受け入れる覚悟はあった。その覚悟がなかったら、恐怖心や不安感から記憶を封印ししようとしただろう。


「香澄、大丈夫?」

「うん。たいしたことない」


 もう一時期ほど頭痛や苦しさが襲ってくることはない。

 それでも彗はこうして香澄を心配する。

 彗は香澄の表情をよく見ている。香澄が少しでも過去のトラウマを思い出して不安な思いになっていると、すぐに気づいて香澄の気持ちが安定するまでそばにいてくれる。


「最近、魔法が使えるようになった気がする」

「魔法?」

「いや、前も使えたんだけどね」


 そう言うと香澄は彗の耳元に顔を寄せ、小さく息を吐いた。突然のことに驚いたのか、彗が身体をのけぞらせながら香澄の方へと振り向く。どうやら彗はそこまで耳が弱くないらしい。


「なに、いきなり」

「幸せの魔法」

「今のが?」

「こうすると幸せな時間を過ごしてる気分になるでしょ?」


 二人はなんだかおかしくなって笑った。そこにいるのは幸福の所有者たちであった。


    *     *     *


 今日も雨が降る。部屋から覗く小さな丘は上も下も灰色に覆われ、先ほどから降り始めた雨はぽつぽつと鉄筋コンクリートのアパートを黒く染めている。

 遠く離れた平凡な校舎の誰もいない美術室での何気ない一日を香澄は思い出していた。壁際に並んだ石膏像、軋む椅子、肌に迫ってくるような冷えた空気。彗と一緒にいる時間は不安ばかりを気にしていたが、こうして一人アパートの一室で外を眺めているとあの時間を漂っていたものが特別であったとようやく気付かされる。

 人と人の距離がどれだけ近くなろうとも、人は一人としての自分を抱えて生きないといけない。降り続ける雨の中でも一人で歩かないといけない日もある。色の消えた街の中を濡れた靴を引きずりながら前髪の貼りついたしかめっ面で歩いたところで、苦渋に見合った対価なんてとても見込めはしない。

 それでも、香澄は手に入れたのだ。

 雨の中を歩いていくだけの理由を。


「さて、行こうかな」


 電気の消えた部屋を残し、黒いスニーカーを履く。緩やかな坂道を駆け抜ける水しぶきの音は玄関の扉越しでもしっかりと聞き取ることができた。

 新しい傘を買いに行ったとき、香澄は迷わず真っ白で大きな傘を手に取った。何だか守ってくれるような気がしたのだ。この雲のような傘が。


「なんだか、不思議だな」


 扉を開けるとともに湿度と冷気が脚に纏わりつく。香澄は目の前に広がる雨の景色をじっと見入りながらひっそりと足を踏み出した。

 どうして雨の日だというのに胸が高鳴るのだろう。

 恐怖も憂鬱も確かにあったはずなのに、今は雨粒がアスファルトを鳴らすこの景色に身を委ねてもいいと思える。

 少しだけ変わったのだ。

 いつまでも降り続ける雨の中で、少しだけ変わったのだ。

 些細な波紋が大きく広がっていくように、香澄は足をのばした。なんだか笑みがこぼれそうだった。

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