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 街の明かりで薄っすらと照らされた夜の闇は、200メートルほど先を駆け抜ける大型トラックの音を掻きまわされた空洞のように乱反射させる。ゆっくりと解きほぐされていく体内の空気に連動するように香澄は彗の手の平をやわやわと握った。

 まるで夢の中を歩いているみたいだ。

 ベージュのマンションから覗く三日月はいつもより大きく見える。遠近感のない夜の風景は香澄を知らない場所に立っているような気にさせた。

 きっと数分前から一言も口を聞いていない彼のせいなのだろう。香澄は手の先にいるはずの彗を見ることさえできず、揺れ動く身体と敷き詰められたレンガを鳴らす足音に耳を傾けてばかりだった。

 今まで生きてきて、こんなに言葉が出なかったことがあっただろうか。

 何か捉えどころのない思いはふつふつと沸き続けている。それなのに、香澄は声を出すことができなかった。

 風もない街で、手の平の温度ばかりが上がり続ける。じわじわと、離すことも出来ずに。


「あっ」


 だから、香澄は頬を掠めた微かな変化に大きめの声で反応した。


「雨だ」


 恵みの雨、と言ってしまえば今までの数分が砂漠のように不毛な時間であったと認めているような気がして頭から削除した。それでも香澄が助かったと微塵も思っていないと言えば嘘になる。雨の恵みがなかったなら、無言のままわが家に帰っただろうから。

 次第に増えていく雨脚の中、雨を遮るものが何もない歩道を進む香澄と彗は特に急ぐわけでもなく淡々と歩き続ける。ぽつりぽつりと服が雨粒を弾く度、香澄は息をついた。生温かい息は冷たさが貼りついた頬に触れた。

 雨宿りをする。コンビニで傘を買う。ひとまず地下鉄へと潜る。全力疾走で家へと帰る。取るべき行動はいくつも浮かんでいた。けれど、香澄は彗と歩き続けることを選んだ。


「帰ったら、すぐお風呂に入らないとね」

「うん。風邪をひかないように」

「彗の手は暖かいね」

「そう? 普通じゃない?」

「私の手は冷たいから」

「そうかな」

「冷たくない?」

「僕にとっては暖かいのかもね」


 彗が居てよかった。

 過去のトラウマを思い出すのは恐い。出来ることなら二度と思い出したくない。

 けれど、香澄の胸に広がる緩やかな感情は安堵だけではなかった。


「彗といると暖かいね」


 一人の雨の日はいつも冷たかった。

 冷え続ける身体を抱えて自分の居場所へと走るときは、抱えているものがいつまでもなくならないような気がしていた。寂しさも、あふれ出る涙も、かじかむ指先も。


「初めて役に立てたね」


 それは謙遜でも自分を卑下するための言葉でもなく、ひどく純粋な彗の本心だった。

 香澄はすぐさま「そんなことないよ」と声をかけたい衝動に駆られたが、もっと救われる言葉があるような気がしてやめた。

 すべてを思い出したからだろうか。胸のそこにある温もりが広がって止まらない。自分に納得したように頬を緩める彗を見て、香澄は後悔した。

 言うべきことはたくさんあるはずなのに、彗といると言葉が消えていってしまう。


「彗」

「なに?」

「ありがとう、一緒に居てくれて」


 声は震え、言葉は足りない。それでも、それが今の香澄が言える精一杯の言葉だった。


「お礼を言わないといけないのは僕の方だ」

「お礼って、彗が?」

「記憶がなくなっていることを知った日、僕はどうすればいいか分からなかった。忘れたままの方がいいのか、思い出した方がいいのか」

「うん」

「でも、今になってようやく分かったんだ。僕は、僕のことを思い出して欲しかった。今の香澄に」


 その言葉を聴いて、香澄はようやく過去を消した自分と繋がれた気がした。

 思い出したはずなのにどこか違う人間のような中学生までの自分。香澄は苦しみのない世界で初めて小さな自分の気持ちに気付くことができた。


「やっと呼んでくれたね」

「えっ?」

「下の名前。ずっと呼んでくれなかったから」

「ごめん、つい」

「ううん、嬉しい。彗がそこに居るって思えるから」


 時間は巻き戻らないし、もう一度やり直したいとも思わない。それでも香澄は途切れてしまった彗との時間だけはなくしてしまいたくはなかった。小さな香澄が大切にしていた気持ちは、今も消えてはいないのだから。


「そっか、また香澄といられるのか」


 ぽつりと雨音に溶けた彗の声はまるで「もう忘れなくていいんだ」と言っているようだった。二人で過ごした時間が一人だけのものになる。それはどんな気持ちなのだろう。そっと両手で彗の手を包み、香澄はどこか遠くを見つめる瞳を覗き込んだ。


「彗、ただいま」

「おかえり、香澄」


 雨は降ったりやんだりを繰り返しながら香澄の頬を濡らす。

 右手を包む体温を頼りに香澄は雨の夜を進んだ。

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