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 迷ったときにはいつもこの熊だらけの部屋に来る。

 さらに増えた熊グッズは、地震でも来たらなだれ落ちる熊の大群に埋もれてそのまま帰らぬ人になってしまいそうなほどだ。

 そのうちこの部屋はハチミツでいっぱいになって久慈丸自身も熊になってしまうかもしれない。そして銀縁丸眼鏡の熊は言うのだ、「甘いものを食べたら元気になるよ」って。


「この部屋は相変わらずですね」

「可愛いでしょう?」

「それはもう」

「分かってくれる人が居てよかったあ。意外と伝わらないんですよ、熊の魅力」

「こんなに可愛いのに」

「でしょ? 熊って聴くと恐いって連想する人が多いみたいで、あんまり人気ないんですよ」

「そこに飾ってある絵本の熊なんて全然恐そうじゃないのに」

「ああ、あれですか?」


 立ったら丁度目線ほどの位置にありそうなその絵本は『マイベアー マイキング』と題名が付けられており、表紙には手足がピンク色の熊がクリクリとした目で描かれている。横で鮭を口にくわえている木彫りの熊とは大違いだ。


「あの熊は『モンタナ』といってとっても強い熊なんです。傷ついた人の下に現れては、その人が抱える悩みを途轍もなく強い力で解決してくれるんですよ」

「見た目とのギャップがすごいですね」

「そこがいいんですよ。良かったら持って帰ってみます?」

「良いんですか?」

「熊愛好家は懐が広いので」


 銀縁丸眼鏡をキラキラさせながらにっこりと微笑む久慈丸はなんだかお茶目だ。同じ歳になった時、同じように振舞える気がしないのは香澄だけではないだろう。


「では次に会う時は患者と主治医ではなく、熊友達としてですね」

「それって」

「はい。カウンセリングはこれが最後になります」


 記憶を取り戻す治療が終わる。永遠に続くかに思えた治療が今日で終わると告げられ、香澄は苦しみ続けた日々を思い出した。

 発症した時から考えるととても長かったように感じる。

 治れば治る程苦しみは深まり、治療とは一体何なのかと悩むほどに苦しみに溺れそうになった。

 それも今日で終わりだ。


 久慈丸と話している間、香澄は自分の脳に雑然と配置された記憶を一つ一つ確かめるように眺めていた。

 数々の記憶と一緒に熊の絵本をかばんに詰め、気付いたときには一人街灯に照らされた公園で立ち尽くしていた。

 別に呆けていたわけではない。

 帰り道、気を紛らわせたくて立ち寄った噴水のある公園。そこにいたのは紛れもなく彗の背中だった。

 手前にある歩道沿いのベンチに座った彗は噴水をじっと見つめているようだった。

 きっといつもなら肩でも叩きながら声をかけたのだろう。

 しかし、香澄は声を出すことができなかった。

急に悲しみにも似た感情が濁流のように溢れ出し、制御できなくなったのだ。

 何かを忘れている。

 自分は大切な何かを取り戻せていない。

 確かに感じる喪失に香澄は涙が止まらなかった。

 深い海の底に投げ込まれた感情は身構える暇もなく、ありとあらゆる記憶の濁流へと飲み込まれていく。叩かれた痛み、灯と出会った日のこと、朦朧としながら記憶の治療を受けた日のこと、日に日に感情が摩耗していく感覚、リセットされた日々、忘れ去った記憶による苦しみ。

 悲しみばかりがあふれ、探しているものは見つかることなく夜の冷たい風が頬を冷やした。


「そんな」


 涙が止まらなかった。

 どうして今まで忘れていたのか。崩れ落ちる身体を抱え、香澄は震える唇から戸惑いを吐き出した。


     *     *     *



 痛い。

 苦しい。

 逃げたい。

 恐い。

 つらい。

 明日が来なければいいのに。

 このまま溺れてしまいたい。

 どうして私だけが笑っていないんだろう。

 身体が重い。

 ずっと眠っていたい。

 このまま、ずっと真っ暗な世界に閉じ込められていたい。

 もう二度と目覚めなくていい。

 ああ、そうだ。

 私は。


「どうしたの?」


 真昼の眩い日差しを背に真っ白な手が差し伸べられていた。

 差し伸べられた手の意味が分からず、恐る恐るその先へと視線を這わせる。


「遊ばない? 一緒に」 

「えっ」


 それが香澄と彗が交わした初めての言葉だった。

 茫然と何が起こっているのか分からずにいる香澄に、すでに友人になったかのような雰囲気で小さな彗は微笑んでいた。

 その純粋さが香澄にとってはわずかに救いだった。

 枯れ果てた大地に水滴を垂らしても大して変わることはない。

 けれど、そこに水滴が落とされたということに変わりはないのだ。

 彗の手を取った。それは香澄が生まれた初めて優しさを手にした瞬間だった。


     *     *     *


「どうして」


 忘れてはいけないものを忘れていた。

 忘れては生きていけないと思っていたものを失っていた。

 勘違いしていたのだ。忘れていられたから幸せだったのだと。

 これは罪悪感なのだろうか。

 痛みも苦しみも恋心も忘れて、平凡な日常を望んだ自分を悔いているのだろうか。

 思考を飲み込むように感情が襲い掛かり、涙がとめどなく流れ続ける。

 どうすれば違う道を歩めたのだろう。

 どうして自分と言う人間はこんなにも後悔ばかりを背負いながら生きているのだろう。

 もう少し強ければ。もう少し運が良ければ。もう少し上手に生きられたら。


「浅間、さん?」


 見上げたところには涙で輪郭がぼやけきった彗が立っていた。

 慌てて涙を手で拭う。

 公園のベンチに座っていたら後ろでクラスメイトの女子が泣いていたなんて、さすがの彗でも引いてしまうだろう。

 恥ずかしさから顔を隠しながらも、香澄の胸のうちにはどうしようもなく嬉しさがこみ上げていた。

 目の前に映る小さな頃にも見た光景。

 優しさに満ちた表情も白い手の平もあの時と同じだ。


「彗」


 香澄は自分の胸に残った感情をはっきりと思い出した。

 忘れてしまっていた、忘れてはいけない気持ち。

 そうだ、どうして忘れてしまっていたのだろう。胸の底にぽつりと残った感情は大切な人への想いなのに。

 掴んだ手は互いの身体を引き寄せ合い、感情の渦に飲み込まれた身体は彗の胸に吸い込まれる。


「思い出したんだね」


 その声を聴いて、一度堪えた涙が止まらなくなった。

 香澄は彗に恋をしていた。

 思い出したくもない記憶の中で、ボロボロの香澄は恋をしていた。

 かつて抱いていた感情。

 忘れてしまっていた感情。

 あのとき、香澄が手にしていた脆くて強い想い。


「好き。彗が好き」


 香澄は薄い彗の身体を思いきり抱き締めた。もう二度と手放さないように。

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