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 人が起こした行動に明確な理由なんてそれほどない。それもそうだ。抱いた感情に理由がないのだから。

 何をされたから好きになるとか、何を言われたから信頼するなんてものはない。抱いた感情の構成要素なんて、なんてことはない日常の集積だ。

 こうしてレストランで向かい合うのも何度目だろうか。あと何回こうしていられるだろうか。窓を眺める汐音先輩が愁いを帯びていたせいか、香澄の脳裏を終わりの瞬間が横切った。


「汐音先輩には知って欲しいことがあって」

「うん」

「私、今まで自分の過去を忘れていたんです」


 言葉足らずかもしれない。そんな香澄の不安をよそに、汐音先輩は真剣なまなざしで相槌を打っていた。


「私が苦しんでいたのはその過去のせいで、最近になってその過去はDVを受けていたころのことだと分かりました」

「そっか」


 汐音先輩が感情を押し殺すように頷く。

 まばたきと一緒に息を吸い込んだ汐音先輩はくしゃっと髪を掴んだ。周りの喧騒は遠く、いつもより距離が近く感じられる。汐音先輩の長いまつ毛が揺れるたび、香澄はどこかで不安を感じながら次の言葉を待った。


「俺が浅間から体調不良を聴いたとき、本当はあまり驚かなかった。むしろ、来てしまったかって感じだった」


 一言一言が重い。香澄と同じように、汐音先輩も悩みながら言葉を紡いでいるようだ。


「浅間がDVを受けていたってことは知ってたんだ」

「知っていた?」

「浅間の具合がよくなるまでは黙っているつもりだったんだけどな」


 今まで隠してきたつもりだったが、どうやらバレてしまっていたらしい。

 誰も知らないはずの自分の事情を汐音先輩が知っていた。それは思いもよらない返答だったけれど、不思議と香澄は納得できた。


「初めに気付いたのは俺じゃなくて店長だった。面接が終わって制服を試着した時、バックヤードには店長もいただろ? そこで見たらしいんだ。浅間の背中にある痣を」


 記憶の糸をたどると、確かにバックヤードには香澄と店長がいた。

 面接が終わり、制服を試着することになった香澄は当たり前のようにその場で着替えた。過去の記憶を忘れていたのだ、当然その時の香澄は背中の痣のことも忘れている。それに店長がパソコンに向かって事務作業をしていたこともあり、香澄は人の目を全く気にしていなかった。

 ふと顔を上げた拍子に店長は目にしてしまったのだろう。香澄の背中に残る無数の痣を。


「その日にシフトに入ってたのは俺と店長のふたりだけ。浅間が帰ったあと、店長は悩んだ末に俺に相談をした。今面接に来た子はDVを受けた過去があるかもしれないって」

「そうだったんですか」

「二人で話した結果、当分は浅間の事情を知っている人間が一緒に居た方がいいと判断した。そして浅間と一緒にシフトに入るのは俺と店長だけって決まりになった」


 きっと店長は汐音先輩なら責任ある対応をしてくれると思って相談したのだろう。香澄と汐音先輩をペアにしたのも汐音先輩なら香澄の面倒を見てくれると信頼していたからだ。それは一緒に働いていた香澄にはよく分かった。


「初めの頃は俺も店長も驚いていたんだ。浅間があまりにも明るい女の子だったから。過去にDVを受けていたなんて全く思えないほど浅間は楽しそうで、俺たちも過剰に反応し過ぎていたんじゃないかって思ってた」

「はい」

「でも、ある日を境に浅間の様子がみるみる変わっていった。俺と店長は浅間に何かが起きているってすぐに感じた。俺が浅間をレストランに誘ったのも早く動かないと浅間が取り返しのつかないことに巻き込まれてしまうって思ったからだ」

「全部、知っていたんですね」

「いや、俺と店長は浅間がDVを受けていたんじゃないかって推測をしていただけだ。実際、今も浅間が過去にどんな目に合ったのかは知らないし、触れていいとも思っていない」


 汐音先輩は時折寂しそうな表情をしていた。その伏した目の奥にある悩みを取り除いてあげられたら。今まで何度も手を差し伸べようかと迷い、その度に香澄は触れることを躊躇ってきた。

 今となればおかしな話だ。汐音先輩を悩ませてきた人間が助けようかと迷っていたのだから。

優しい汐音先輩は、今まで自分の姿を見るたびに悲痛な過去を想像して苦しんできたのだろう。楽しげに過ごしてきた時間も、過去を垣間見ていた汐音先輩の目には随分違った光景が広がっていたはずだ。そして汐音先輩は痛ましさを隠しながら笑っていた。他でもない浅間香澄のために。


「俺は、過去を思い出したのは悪いことばかりではないと思う。浅間は自分の過去と一緒に生きていこうとしている。綺麗ごとかもしれないけど、それは素晴らしいことだと思う」

「そうですね。そうかもしれませんね」

「俺と店長はどんな形でも浅間の味方だよ。支えない理由なんてない」


 そう言い切る汐音先輩は必死に香澄に向かって手を差し伸べていた。その手がそこにあるということが、香澄にとってはこれ以上ない幸運だった。


「先輩」

「大丈夫、ここにいるから。それに、今が辛いのも偶然だ」

「はい」


 過去を思い出して何もかもを否定したくなるときに比べれば今はずっと良い。この世界はそれほど悪くないと思えているから。

 少しずつ修復されていたのだ。助けてくれた人たちによって。

 白く透明なジュースを飲み干すと、香澄は窓の外を見渡した。灰色のコンクリートブロックが敷き詰められた歩道はスーツや制服を着た人たちがバラバラのスピードで行き交って渋滞している。

 自分は助けられたのだ。窓ガラスに映った自分の顔を見て、香澄はようやくそのことに気付いた。

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