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「おう」


 どこか気怠さを引きずったような声にふっと香澄は振り向いた。

 いつもこの声を探していたのかもしれない。気怠く甘い声が周りの景色から聴こえるたびに声の方へと顔を向け、それが空耳だったと分かると諦めて通り過ぎる。そんな日々がしばらく続いていた。

 だから、目の前に探していた人が現れた香澄はかけるべき言葉を失った。


「美也子から尋問されてただろ」


 下駄箱を抜け、生徒がまばらに溜まる校舎の外。そこには灯が立っていた。


「その、何か言われた?」

「たいしたことじゃないよ」


 いつもとは違う一生懸命言葉を探しているような顔をして、灯は香澄の方をちらと見た。目が合うと、自分の目に映っているものを隠すように灯は目を逸らした。

 ああ、この人は何かを知ったんだ。

 それが記憶のことなのかは分からない。けれど香澄はゆっくりと歩き始めた灯を見て、灯の目に映る自分が前とは違うのだと意識せずにはいられなかった。


「とりあえず、行こう?」

「そうだな。ここに居ても邪魔なだけだし」


 言いたいことと、言えることは違う。

 灯は自分の言葉をどう分類するべきか決められないままここに居るのだろう。それを「言うべきこと」にしても、「言わない方がいいこと」にしたとしても、どちらも等しく灯が決めたことだ。

 香澄は灯の歩幅に合わせて歩く道すがら、とにかく待つことにした。

 この世界には「言わなければよかったこと」があまりに多すぎる。言葉を急かすにはあまりに酷な世の中だ。

 どれぐらい沈黙が続いていただろう。

 静かな場所を求めて立ち寄った神社の境内を前に、二人は長椅子に座って青々とした桜の木を眺めていた。


「本当は、恐かったんだ」


 きっかけなんてものはない。もしかしたらあったのかもしれないが、ゆったりと流れていく雲を見ていた香澄には灯の中で起きた変化は何一つ分からなかった。

 それでも灯はその言葉を枕に自分の思いを口にし始めた。


「香澄が苦しんでるとき、俺は香澄が居なくなってしまうような気がしていた」


 それはいつもの優しい灯ではなくて、香澄と同じように苦しんでいた人の言葉だった。


「香澄が変わっていくことも怖かったけど、何より香澄がいなくなった未来を想像するのが怖かった」

「うん」

「今でもそれは変わらない。香澄が居なくなってしまうのは、悲しくて、俺には耐えられそうにない」


 こうして二人で過ごすのは久しぶりだ。一緒に屋上で昼ご飯を食べたこと、香澄の家でケーキを食べたこと。灯と過ごした日々が脳裏にフラッシュバックする。


「俺は、どんな形でも、香澄には生きていて欲しい」


 最近はこういう言葉をよくかけられている気がする。

 すっかり重くなってしまった身体を引きずりながら今日まで生きてきたが、そこまで絶望感はない。笑顔の数は減ったかもしれないけれど、今の香澄にはそれも良いように思えていた。


「灯もね」

「俺は……そうだな」


 立ち上がった灯はフェンスの外に広がる集合住宅の群れを見下ろした。

 灯の髪は降り注ぐ日差しを浴びて暖かな色に染められる。黄色とか橙とかそういう空気が流れていた。


「香澄は好きな人ともっと一緒に居た方がいい」


 灯は吐き出すように言葉を紡いだ。


「国見のこと、好きなんだろ?」


 香澄はその言葉に身体が揺れるような思いになった。

 きっとこれこそが灯が言いたかったことだ。前触れもなく香澄の前から姿を消して、遠くで見守ろうとした灯が最後に言わないといけなかったことなのだ。

 いつから気付いていたのだろう。

 すべてを知った上で灯は距離を置いた。彗の存在を知ったから。


「俺が言うようなことじゃないのは分かってる。でも、今の香澄には国見が必要だと思うから」

「そうなのかな」

「いいんだよ、伝えても」

「うん」

「きっと国見は受け止めてくれるよ。踏み出したことは無駄にはならない」


 香澄は灯の目にも自分と彗がそういう仲に映っていたことに驚いていた。

 彗と一緒に居る時の自分はどんな顔をしているのだろう。そんなに彗のことが好きに見えるのだろうか。


「もしダメだったら俺が慰めるからさ」

「一応、考えとく」

「その時はまたケーキでも食べるか。失恋記念日ってことで」

「それ、全然めでたくないね」

「めでたくなくても記念日は記念日なんだよ。そうでもしないとやってけないだろ?」

「やっぱり、灯は優しいね」


 過去を思い出して一番変わってしまったもの、それは灯との距離なのかもしれない。

 灯と一緒に居るのは心地いい。けれど今では、これ以上踏み込むのは何かが違う気がする。

 灯に対する「好き」が変わる。今まではそれを恐い事だと思っていた。

 でも、それでも灯はやさしい。


「国見は応えてくれると思うよ。ちゃんと気持ちを伝えれば」

「それ、美也子にも同じこと言われた」

「はは、じゃあ俺が言うまでもなかったか」

「ううん、灯に言ってもらえてよかった」

「そう?」

「うん」


 何度も背中を押されて、その度に意気地なしだと自分を罵って。どうしようもなく勇気が足りていないこの身体に灯は今までも前へと進む力を入れてくれていた。

 もう二度とキスはしないだろう。香澄は灯に笑いかけると長椅子から立ち上がった。

 小鳥が上空へと舞い上がる。空には飛行機雲が彼方へと続いていた。

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