23
懐かしさは不快なものや無関心だったものを心に触れさせる。
一日が終わった解放感からだろうか、放課後の校舎は昼休みよりも格段に話し声が響き渡っている。教室だけではなく、廊下中がざわめきで埋め尽くされて声に押しつぶされそうだ。
ここはこんなにもうるさかっただろうか。少しだけ隣を歩く彗に身体を寄せ、香澄は小さく息をついた。
「あれ?」
どれだけ周りがうるさくてどれだけ人で溢れかえっていようとも、知っている人間にはすぐ反応してしまう。少し明るめな髪色にビビッド寄りの黄色い雰囲気。気怠さと無邪気さと混ぜ合わせたような笑い顔は他でもない美也子のものだった。
「香澄、元気になったんだ?」
「うん」
「そっかあ」
周りに興味がなさそうな顔をしているが、美也子は常におもしろいことを探しているタイプの子だ。美也子自身はそこまで恋愛に興味がない癖に、友人の恋愛話には目をキラキラさせて聴き入る。
だから、心底嬉しそうな顔をした美也子が答案用紙の間違いに気付いたような目つきで香澄と彗を交互に見たのは当然のことだった。
「今、いい?」
針のようなその声は潜めていてもしっかりと鼓膜を揺らす。一歩も動いていないのに、香澄は美也子に詰め寄られているような気がした。
しかし美也子が話しかけたのは香澄にではなく、横の彗に対してだった。
「何でしょうか?」
「香澄、借りていってもいい?」
「ええと、僕はもう部活に行くので」
「そう」
彗の返答に納得したのだろう。美也子は香澄の手をぐいっと掴むと、そのまま手を引いて階段を降り始めた。
美也子は強引なところがある子だ。
香澄は美也子のこういう強引なところには慣れている。二人でこうして話すのは久しぶりではあるが、どこか毎日一緒に居たような気さえした。
「灯の次は彼?」
「へ?」
誰もいない中庭は吹奏楽部の練習音がこだまする。
音ばかりが飛び交う空の下で振り向いた美也子は、香澄を捉えたまま静止していた。
その頬の裏にどんな感情を隠しているのか。美也子の意図が分からず香澄が言葉に詰まっていると、美也子は硬くなった頬を溶かすように表情を緩めた。
「あー、いや。間違えた。体調はどうなの?」
どうやら美也子も香澄の体調のことは聴いていたらしい。おそらく灯から聴いたのだろう。
「うん。行ったり来たりだけど、なんとか悪くはなってないかな」
「そっか。確かに、前に遠くから見た時よりも顔色がいい気がする」
「でも、本当に聞きたいのはそれじゃないんでしょ?」
「ん、まあね」
香澄は美也子の興味がありそうなことはなんとなく分かった。
美也子は友達の恋愛が好物なのだ。自分は灯と微妙な関係を続けているだけで彼氏の話は聴かないのに、人の恋愛話にはやたら興味を示す。
「あれ、絶対彼氏でしょ」
「決めつけるねえ」
「いや、だって、空気がそんな感じだったし」
「そうかなあ」
「絶対、そうだった!」
芸能人はいつもこんな風に週刊誌の記者に問い詰められているのだろうか。香澄は心底楽しそうに尋問する美也子にため息をつくしかなかった。
追う側はゴールがあるのに、追われる側にはゴールがない。とにかく追われ続ける限りは逃げ続けるしかない。
「いや、そういうのじゃないよ」
「でも、『まだ』でしょ?」
どうしてこうも食い下がってくるのだろうか。
香澄は観念したように言葉を吐いた。
「彗といると色々考えすぎることがないから」
「なるほどね」
「美也子の言う通り、まだ彼氏とかはよく分からない。ただ居心地が良いのは認める」
「ふうん」
美也子はじっと香澄を見つめると、嬉しそうにニッと笑った。
「今度はちゃんと「好き」って言いなよ?」
「話聴いてた?」
どうやら美也子の中ではすっかり未来が決まっているようだ。
すぐそこにあり得るかもしれない未来の話。少しの選択で未来が変わると分かっていても、香澄にはまったく別の世界の話のようにも聴こえた。
「香澄は臆病なところがあるから。私は好きだけど、相手は可哀そうだよ?」
「はい、出来るかぎり直します」
肝心なことを後回しにしているのかもしれない。今まで恋愛事に考えを巡らせたことはあまりなかったが、美也子と話していると漠然とそれが大切なことのように思えた。
好きと伝える。自分は彗にそうしたいのだろうか。
暗く沈んでいく中庭に彗の姿が浮かぶ。伝えたらどうなるのだろう。
好きです、付き合ってください。その言葉で訪れる変化を自分と彗は望むのだろうか。
「じゃあね、香澄」
「うん。またね」
それだけ言うと、美也子は人の気配が薄らいだ校舎から去っていった。




