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 話しかけられるだけで嬉しい。そんな人は誰にでも一人はいるかもしれない。

 それは学校の先輩かもしれないし、近所のお姉さんかもしれない。別に恋愛感情的に好きなわけではなく、どちらかと言うと星占いで上位だったときや道で可愛い猫に出会ったときの喜びに近い感覚だ。

 レアキャラとか希少生物とかと同じように、その人たちはいつも会えるわけではない。だから、話しかけられるだけで今日一日がいいものであるように思える。

 放課後『よかったら今日来なよ。コーヒー奢るから』とメッセージを送ってきた人は香澄にとってのレアキャラのような人だった。


「汐音先輩、久しぶりだな」


 もう長いことバイト先にも行っていない。以前に店長から電話がかかってきて、「辞めないでいいから」と言われてそれに甘えてきたが、どうしても申し訳なさから足が遠のいていた。

 今日は体調も悪くない。行くなら今なのだろう。

 数日続いているどんよりとした空は今にも雨粒を矢のように落とし、アスファルトで敷き詰められたこの街を水浸しにしてしまいそうだ。雨が降るアパートの一室で身を顰める自分の姿を振り払うように、香澄はカフェへと歩き出した。

 一人は強くいられる条件ではない。

 足早に地下鉄の入口へと進む人の中、そのままのスピードで歩くと行き交う人々がモニター越しの映像のようだ。携帯に入っているメッセージをお守りのように思い出しながら歩く街はいつもより少しだけ静かに感じる。

 一人で居てもいいし、二人で強くたっていい。

 要は強さの代償に孤独を選ぶ必要なんてどこにもなく、むしろ内側から日に日に脆くなっていくばかりだ。目的地が近近づくにつれて香澄は自分にそう言い聞かせ、重たくなった空気を引き裂いた。

 もしかしたら今までで一番長いのかもしれない。

 いつも通っていたはずのアルバイト先へと伸びる道はいつも以上に長く、到着した頃には相当な距離を歩いたかのような錯覚すら覚えた。

 いつも通りに佇んでいるカフェの戸を前にして香澄は立ち止まった。

 本当に今の自分が行ってもいいのだろうか。こんなことなら誰かに付いてきてもらえばよかったとも思ったが、そんなことを考えている自分が弱くなってしまったように感じて、弱さを振り払いうように扉を開けた。


「こんにちは」

「いらっしゃいま……えっ?」

「どうも」

「わあっ! 久しぶり!」


 香澄を出迎えたのは店長の驚いた顔だった。

 感度が良いというか、野生的な勘が鋭い人だ。店長は香澄に気がつくや否や、手にしていたダスターを放り出して今にもカウンター越しに飛びついてきそうな勢いで香澄を歓迎した。

 自分のことを思ってくれていたのだろう。店長の様子に驚きながらも、それだけ心配してくれていたのだと思うと香澄は嬉しくなった。


「来てくれたんだ。ありがと」

「はい。汐音先輩のコーヒーを飲みに」

「ちょっと、汐音。なんで香澄ちゃんが来るって教えてくれなかったの?」

「来ると決まったわけではなかったので」

「ちょっとくらい教えてくれてもいいじゃない。人の気も知らないで」


 いつも淡々としている人が時折見せる思いやりは特別だ。弱くてすぐに折れてしまいそうな自分でも前へと歩いていけそうな気になる。

 店長がこんなに感情的になるのを香澄は初めて見た。まさか自分が現れるだけでこんなに嬉しそうにしてくれるなんて思いもしなかった。


「店長、ありがとうございます」

「何かお礼を言われるようなことしたっけ?」

「辞めなくていいって言ってくれたこと、すごく嬉しかったです」

「何言ってんの。当たり前でしょ? こんな可愛い子が居なくなったらお店の損失だもの」

「ほんとに、ありがとうございます」


 おいで、と小さく言った店長はカウンター越しに香澄を抱き寄せてわしゃわしゃと髪を撫でた。ちょっと乱暴なのが店長らしくて、香澄の視界はぼんやりと潤んだ。


「店長、あとでちゃんと手洗ってくださいよ?」

「うるさいわね。汐音の癖毛も一緒に洗うわよ」

「ほら、浅間もそこ座って。出入り口で店長と高校生が抱き合ってたら変な店かと思われるから」


 いつもならあまり喜怒哀楽の振れ幅がない二人だが、今日は店長が特別感情的になっている分汐音先輩がいつもより淡々として見える。

 けれど汐音先輩の機嫌が悪いわけではない。むしろ大切なものをこっそりと胸の内にしまうような柔らかい頬は、この場でもっとも喜びを噛み締めている人のものだった。

 汐音先輩の前の席に座ってじっと手元を見る。コーヒーを抽出しているときの汐音先輩はとても静かで、まるで一人だけ別空間にいるかのようだ。

 抽出が終わりサーバーからカップへとコーヒーを注いていでいく。ふわりと香りがカウンターまで広がり、その匂いに香澄は汐音先輩がそこにいるのだと実感した。


「はい、お待たせしました」

「ありがとうございます」

「冷めないうちにどうぞ」


 一口コーヒーを含むと、キャラメルのような味がとろりと口の中で広がる。ふわふわと苦さと甘さが混ざった余韻が口の中を漂う。それを奥へと流し込むように再びコーヒーを飲む。

 舌から喉へと流れるコーヒーはキャラメルのような風味から深い苦味へと姿を変え、紫色の味を残して消えていった。


「こうやって淹れてもらうのは初めてですね」

「なんだか変な感じだ」

「私は嬉しいです。また先輩のコーヒーが飲めて」

「そっか。良かった」

「先輩は嬉しくないんですか?」

「嬉しいって言うより、安心してる」

「先輩とは何度か会ってたじゃないですか」

「いや、なんというかさ」


 汐音先輩はそう躊躇いながらがしゃがしゃと器具を洗った。さっきから一度も目を合わせてくれていない。


「浅間が一番おいしそうに飲むから」


 それは香澄にとっては意外な言葉だった。おいしそうに飲む。なんだか香澄にはその言葉が自分と汐音先輩の関係を象徴しているように思えた。

 ただおいしそうに飲むというそれだけの理由こそ、香澄と汐音とを繋ぎとめるものだった。


「浅間がここに面接に来た時、俺がコーヒー出したの憶えてる?」

「はい、憶えてます」

「その顔を見て一緒に働こうって思ったんだ。それで気が付いたら店長に同じシフトに入れてくれって言ってた」


 人と人が一緒に居る理由なんてそんなものなのかもしれない。汐音先輩は自分の淹れるコーヒーを一緒に味わってくれる人が欲しかった。香澄は汐音先輩といるのが心地よかった。たったそれだけだけど、それが香澄を支えてくれている。他人には意味のない感情に見えたとしても、二人にとっては大事な時間だ。


「待ってるから。浅間が戻ってくるの」

「はい」


 またここで汐音先輩の隣に立ちたい。そう思いながら香澄はコーヒーを飲んだ。

 誰ともいられない自分になってしまったと思っていたけれど、それでも意外と一人になれないものだ。

 会えるだけで嬉しくなれる人が誰にでもいるとするならば、きっと誰もが本当に意味では一人ではいられない。一人の夜、誰もがつい頭の中でその人のことを思い浮かべてしまうのだろう。一人でいたいと望んだはずなのに。

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