21
今日何度目かの深呼吸をした。
家に帰ってから朝起きてここに来るまで何度もこの瞬間をイメージした。
目の前にある扉を開ければその先にはいつも通りの教室が広がっているはずだ。静かに淡々と進む一人一人の日常が詰まっているここでは、久しぶりに来た一人の女子生徒なんて居てもいなくても大きな違いはない。
滑るように入って当たり前のような顔をして席に座ろう。わずかに震える指先を不安に思いながら香澄はドアを開けた。
「えっ!」
薄っすらと聴こえていた喧騒を打ち消すように響いた大きな声は教室中の視線を浴び、注目の的である声の主は香澄に驚きの眼差しを注いでいた。
「香澄、もう大丈夫なの?」
いつも窓際の一番後ろの席で眠そうにしている人間が大声を上げたのだから、クラスメイト達はさぞ驚いているだろう。周りの視線も構わず立ち上がった御影は一目散に香澄の方へと駆け寄り、そのままの勢いで抱きついた。
「かすみいいい」
「御影、苦しいよ」
「だって、だってえぇ」
強く抱きしめながら泣きじゃくる友人は、自分よりも浅間香澄という人間を思ってくれているのかもしれない。とめどなく流れだす思いに、香澄はそっと髪を撫でて応えた。
現実は想像通りにはいかない。
想像上の香澄はすでに自分の席に着いてじっと授業が始まるのを待っているはずなのに、現実の香澄は教室の出入り口でクラスメイトに抱きしめられている。人の思いに重さがあるとすれば、それが測れないからこそ想像とは違う景色が描かれるのだろう。
胸を温める体温も身体を締め付ける二本の腕も震える吐息も、自分を揺り動かすすべてのものが見えていなかった思いの重さだ。
「御影、ありがと」
涙の匂いにつれられて熱が滲むのが分かった。
自分は今まさに救われているのだろう。まだ記憶は戻らず、恐怖心は常に渦巻き続けている。だからこそ香澄は大切な友人を抱きしめた。襲い掛かる過去を今ある優しさが浄化してくれるように。
「香澄」
「ん?」
自分の袖を引っ張る感覚があり、そっちに顔を向けるとそこには咲葉が涙をぼろぼろ流しながら立っていた。
「咲葉?」
「うぅ」
「ほら、咲葉もおいで」
「うん。ぐすぅ」
御影と咲葉に抱きしめられて、香澄は顔が熱かった。涙を拭くことも出来ず、どちらかと言えば二人を慰める方になっていた。
「香澄がまた来てくれて、よかった」
「本当に、よかった」
「待っててくれて、ありがと」
この温もりは香澄には初めてのものだった。灯や汐音といる時とも違う、同じ感情が共振しているような温かさだ。
ああ、午前中は目元が赤いままだな。そんなことを思いながら香澄はもう一度ぎゅっと二人を抱きしめた。
* * *
「よかったですね、戻って来れて」
昼休みの美術準備室にいると何も変わっていないような気になる。いや、何も変わってはいないのだろう。授業は毎日あるし、誰もが決まった時間に学校に来る。そんな風に回っているこの街は香澄が記憶を思い出す前と少しも変わってはいない。
「彗のおかげだよ」
「いえ、僕は何も」
「ううん、彗が居なかったら今日あの教室に行くことはなかったと思う」
「それでも、浅間さんならいずれ戻っていたと思いますよ。そう遠くないうちに」
「そうかな」
「はい。一週間後には戻って生きていたはずですよ」
「じゃあ、この一週間は彗がくれた時間だね」
「そう、ですかね?」
「うん」
本当は一週間なんてものではない。
彗がくれた時間はもっと長くて特別なものだ。
だから香澄は同じだけの時間を彗のために使えたらと思った。
「また雨が降るね」
「すぐに晴れますよ」
「だといいね」
梅雨が明けたらここのひんやりとした第二教室棟も夏に飲み込まれてしまうのだろう。大型客船のように進んでいく雲を見ながら香澄は残っていた卵焼きを口に入れた。
「甘い」
「味覚は変わりませんね」
「確かに」
卵焼きを甘くする人間はたとえ何度生まれ変わろうと卵焼きに砂糖を入れる。そんな業のようなものがいっぱいあるのだと思うと、なんだかおかしかった。




