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彗と美術準備室で昼食を取ってからというもの、香澄は保健室の小部屋で勉強の傍ら今までの自分について思い返していた。
カーテンを翻す風は降り注ぐ太陽光線で温められた香澄の頬をそよそよとくすぐる。人によっては未だしつこく花粉を飛散させ続ける植物によって尋常ではない痒みと粘膜に襲われたことだろう。そう感じさせるほど、梅雨の晴れ間はあまりに素晴らしい行楽日和であった。
人の来ない昼下がりには香澄と先生とを仕切るカーテンを開け放つ。カタカタと灰色のキーボードを叩く先生の姿もすっかり見慣れたものだ。
英文を書き連ねるのにも飽きてきた香澄は、レース越しの光を浴びた白衣を眺めながら皮膚に残る感覚を探った。彗といたあの空間、あの空気。冷たいけれど安らぎを与えてくれる美術準備室の景色を思い出しては、体内の血流が穏やかに揺れるのを香澄は感じた。
「先生」
小さく独り言のように香澄がそう切り出したのは今だからこそできたのかもしれない。
手にした平凡な感覚を失いたくなかったのだ。
「どうかした?」
机に向かって書類作成に勤しんでいた養護の先生は「お腹空いた?」とでも言いそうな口調で香澄の方を振り向いた。
そんな顔をされると自分の抱えているものが思い悩むほどのものではないように思えるから不思議だ。授業時間中の他に誰もいない保健室は何を話しても許されるようだった。
「明日から、教室に戻ってみようと思います」
言えずにいた言葉は言っても言わなくても後悔が残る。
いずれ言うことになっていたのだと頭では分かっていても、心のどこかで本当に良かったのだろうかと悩んでいる。空気を飲み込むような養護教諭の仕草に香澄は汗を滲ませた。
「大丈夫?」
今の状態で教室の雑踏に飛び込めるのだろうか。
香澄は教室にいた頃の自分や教室にいる今の自分を何度も想像してみたものの、窓辺に座る自分がどんな顔をしているのかはついに分からなかった。
のっぺらぼうな自分の顔にどんな表情が浮かぶのだろう。笑顔でいられる自信なんてあるわけない。
「ダメだったら、戻ってきてもいいですか」
「浅間さん、ここが何のためにあるか知ってる?」
「えっと、病気を治すため?」
「うん。生徒の中には病気がちな子もいれば、部活でケガをする子もいる。そういう子はたちを治すのも保健室の役目。でも、ここはそういう子だけの場所じゃないの。学校生活がうまくいっていない子、成績のことで周囲のプレッシャーに押しつぶされそうな子、家にも学校にも居場所がない子。ここは辛い気持ちを引きずっている子の為にもあるの。だから助けて欲しいとか、落ち着ける場所が欲しいと思ったらここに来ていいのよ」
後ろ向きな言葉を咎められると思っていた香澄は、じっと覗き込むような養護教諭の瞳から目を背けられなかった。
なんだか目を動かした途端、涙が溢れ出してしまいそうだったのだ。
手を差し伸べてくれる人はここにもいる。不安な自分を支えてくれる人が。香澄は小さな声で「はい」と呟いた。
「ま、女の子の寝顔を覗きに来る男子にはお帰り願いたいけどね」
自然と笑顔を取り戻していた。もしも過去の記憶を一切思い出すことがないまま生きていたとしたら、こうして救われる思いをすることもなかったかもしれない。
取り戻しつつある記憶はどれも辛いものだ。それでも、今の香澄は中学二年生の時の香澄とは違っている。香澄は記憶があっても生きていけるのだと自分に言い聞かせた。




