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 ある人は世界はいつだってシンプルだと言い、またある人は世界は不条理で満ちていると言った。シンプルな不条理に満ち溢れた世界では、住んでいる場所が300年ぶりの火山活動でなくなったり、突然我が子の死に直面したりする。もしも幸福で満ち溢れていた香澄の世界もこの世界の一部に過ぎないのなら、そこに亀裂が入るのも世界の理に照らし合わせるならば何ら不思議ではないのだろう。

 真っ白な部屋。それが香澄が目を覚ました時に感じた風景であった。

 ついさっきまでいつも通りに話していた友人の不調に驚いた御影と咲葉は、急いで香澄を保健室へと運んだ。香澄は朦朧とする意識の中、二人に抱えられながらなんとか保健室へとたどり着いた。香澄は保健室に入ってからの記憶がない。あるのは教室で感じた「モノクロな世界」の痛みと、廊下を歩く際に感じた苦しみがどこまでも続くような不安だった。

 太陽の光を浴びてふかふかと膨らんだ布団と硬いベッドに挟まれながら、香澄はどこか違和感を感じた。どうやら頭痛がまだ残っているようで、まだ眼球を押さえつけられるような感覚があり、視界もなんだか不鮮明なようだった。


「起きましたか?」


 カーテン越しに空気を擦るような養護教諭の声が聴こえる。人の声にスイッチが入ったのか、香澄の視界はオートフォーカスがかかったように鮮明なものになった。


「はい」

「開けますね」


 ここに来たのはいつぶりだろう。優しげな養護教諭の顔を見た途端、香澄は保健室に関する記憶を辿り始めた。抜け落ちがなければ、香澄が以前ここに来たのは御影と一緒だったはずだ。

 体育の授業中にサッカーをしていたら御影が香澄に当たって派手に転び、当事者の香澄が付き添いとしてここに来た、というのが事の顛末である。それがきっかけで香澄と御影はよく話すようになり、今では席の配置的な責任感も合わさって遅刻が多い御影の世話も焼いている。


「具合はどうですか?」

「もう大丈夫みたいです」

「症状はどうですか? 藤峰さんたちからは、教室に入ってから気分が悪くなったと聴きましたが」

「教室に入ってから眩暈がして、それからいきなり頭が痛くなりました」

「今までに同じようなことはありましたか?」

「初めてです。今日も登校してくるまでは普通だったんですが」

「なるほど」


 保健室にお世話になるなんてことは御影と来た一度だけで、香澄にとっては縁のない場所であった。そんな自分がベッドの上で問診を受けている。香澄は自分のことながら誰かの映像を見せられている気分になった。

 私にもこんなことがあるんだ。それが養護教諭と話しているときに香澄がぼんやりと考えていたことであった。


「じゃあ、血圧を測りますね」


 話の流れから貧血と判断されたようで、香澄は言われるがまま制服を巻くって右腕を露出させた。

 腕に巻かれた血圧計が膨らみ続ける最中、香澄は汐音先輩のことを考えていた。汐音先輩というのはアルバイトをしているカフェの先輩で、香澄より一つ上の高校生である。この分だとどうやらバイトには行けそうだ。できればバイトは休みたくない。香澄にはバイト先で汐音先輩と一緒に働くという重要な目的があり、彼と過ごす時間はいくら日々幸せに包まれている香澄と言えども、易々と手放すわけにはいかなかった。

 脳内に広がる汐音先輩の姿を打ち消すように血圧計が無機質な音を立てる。香澄はその音を聴いて初めて、血圧を測るときに汐音先輩のことを考えるのは良くなかったと思い直した。それと同時に過ぎ去ったことを悔やんでも仕方がないとも考え、ありのままの結果を受け入れることにした。


「うん。正常値みたいですね」

「じゃあ、教室に戻ってもいいですか?」

「今日は一日安静にね」

「はい」


 香澄は何事もなかったかのように保健室を後にした。ベッドから降りるときわずかに額に張りを感じたが、それも教室へと続く肌寒い廊下を歩いているうちに消えた。

 教室に戻ったら御影と咲葉にお礼を言おう。そう思いながら歩く授業中の校内は、香澄をただの女子生徒Aから特別な女子生徒Aにした。出入り口の窓から見える声を張る先生や黒板を睨みつける生徒たちは、そこにいない人間を生徒でも教師でもない謎の生き物にしてしまうようだ。

 もし未確認生命体が校舎に侵入したとしたらこんな感じなのだろうか。いや、突飛なことが起きる前はいつだってこんなものかもしれない。だって窓ガラスの向こうには日常が詰まっているのだから。

 一時は宇宙人になった香澄はそそくさと教室に入り、真面目に授業を受ける女子高生に戻った。扉を開ける際に思ったよりも音が大きかったのと、まさに教室に入ったという時に先生とばっちり目が合ったのはドキッとしたが、それ以外は取り立てて何もなかった。宇宙人だってすぐに日常に溶け込めるのだ。


「香澄、どうだった?」

「大丈夫だったよ。貧血だったみたい」


 授業が終わると同時に、横に座る咲葉が身を乗り出して香澄の体調を案じた。本当は貧血かどうかも分からず、結局何が起こったのかも判明することはなかったが、それを言っても心配させると思い香澄は少し嘘をついた。


「結構顔色悪かったし、またおかしくなったら言いなよ?」

「うん。ありがとう、咲葉」

「いやでも、本当に心配したよ。香澄が眠り姫になったらどうしようかと思っちゃった」

「あはは、大げさだよ。大体、眠り姫は御影の方でしょ?」

「へ? ちゃんと起きてたってば。まだ三限だし」

「ってことは、これから寝るんだ?」

「いやいや、まだまだやれますよ私は」


 だらしなく机に突っ伏しながら説得力に欠けることを言っている御影を見て、香澄は小さく笑った。仮にも進学クラスであるこの教室で、これだけ遅刻を連発しているのは御影くらいのものだ。睡眠不足はほとんどの高校生が抱える悩みだろうが、御影の場合は度を越して眠そうにしている。御影本人の弁によると情報がいっぱい入ってくるからいっぱい眠らないといけない、とのことだがそのあたりの因果関係は香澄と咲葉が調査してる途中である。


「香澄も寝不足なんじゃない? 一緒にお昼寝しようよー」

「こらこら、まだ午前の授業終わってないでしょ」

「そう言って咲葉も寝たいんでしょ? あんだけ部活で動いてたら眠くないはずないし」

「私はちゃんと夜に寝てるし、健康だから」

「はあ、そう言って咲葉は彼氏もできないまま高校生活を部活に捧げてしまうのかぁ」

「それは今関係ないでしょ」


 ソフトボール部に強打者として君臨する咲葉はまさにスポーツ少女だ。彼氏がいないことをたまに御影にいじられるが、香澄から見た咲葉はスポーツ以前に異性に対する興味が薄いように映る。咲葉はすらっとしていて綺麗だが、一方で色気を出している姿が想像し難い女子高生でもあった。


「あっ」

「どうしたの? 口を開けたまま固まって」

「そういえば西春君が来てたよ」

「えっ、灯が?」

「特に用件は言ってなかったけど」

「急いでる様子でもなかったし、昼休みあたりにまた来るんじゃないか?」

「うん、そうだね」


 隣のクラスの西春君が香澄を訪ねてきた、というニュースは御影や咲葉にとって特筆すべき話ではなかった。有象無象の男子高校生が香澄を訪ねてくることは珍しいことでもなく、もはや日常風景の一部だ。香澄は遊びに誘われることもあれば、部活のマネージャーに誘われることもあり、たまに告白もされた。

 香澄としてはそうしてやってきた男子と遊ぶのは嫌ではなく、誘われた日時がたまたまスケジュールの谷間だった場合は快く承諾していた。ただ一応進学クラスに在籍していてアルバイトもしている香澄のスケジュール帳はそれなりに埋まっており、今では知らない男子と遊ぶことは少なくなっていた。


「どうしたんだろ」


 ただ、灯が来たという話は香澄の心の中に小骨が挟まったような感触を残した。灯という知っている男子がここに来るのは稀だったのだ。

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