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 鏡に向けた作り笑いは世界を愛おしくさせる。漠然と何かを愛おしく思った頃の感情が身体に蘇って、これから始まる一日や自分自身を思い切り抱擁してみたくなる。

 香澄が真っ先に思い浮かべたのは彗の姿だ。桜が散るころに出会った物静かな男子高校生は、天気予報士が梅雨入りを告げる頃になっても伏し目がちな微笑をたたえて香澄の傍にいる。灯や汐音先輩、御影や咲葉たちともメッセージを送り合うことはあるが、彗のように毎日会うということはない。


 彗だけが香澄の記憶のことを知っている。だからこそ彗は普通なら立ち入らない距離で香澄を見ている。

 知っている、ということは近づくために必要なことなのかもしれない。何も分かっていない人が土足で踏み込んでくるのは誰だって嫌だ。天気の話をするのも、好きなものを訊くのも、一緒にご飯を食べるのも、すべては最適な距離からその人のことを知りたいからだ。

 彗は香澄の過去を知っていて、それでいて香澄のことを受け入れてくれている。不安定な女子高生にはそれが一番の手助けだ。


 鏡に映ったこの笑顔を誰に向けよう。

 久慈丸のもとへ行くたびに少しずつ記憶が思い出され、当たり前のように周りにいた人への恐怖心が突風のように襲い掛かってくる。他者への恐怖と孤独の矛盾を抱えながら歩いていると笑うことを忘れてしまう。どうしようもないほど笑えなくて、夜が怖くなるほど涙が出るときには笑顔は貴重品だ。

 だから、この笑顔は大切な人のためのものだ。

 込められた想いに気付かれなくてもいい。感謝なんてものは一方的なものなのだから。


 返品不可の笑顔を届けに今日も香澄は校門をくぐり保健室へと歩いていく。誰もいない廊下も教室のざわめきを遠巻きに耳にするのも慣れたものだ。

 いつも通りに挨拶をして迎えてくれる保健室の先生。一人での勉強。少しよれてきた単語帳に英文を書き散らしたノート。日々を綴るなんて言うと生真面目な感じがするけれど、ここにあるものが日々の堆積だとするならそれは同時に吹けば飛びそうな身体を支えてくれてもいるのだろう。


「失礼します」


 何度も聴いたはずの声なのに、なぜだか懐かしさみたいなものが身体中に広がっていく。パーテーション越しに待っていた人の声を聴くこの瞬間は、香澄にとって悪いものではない。すぐにこの小部屋から顔を出してしまいたい衝動と、今にも走り出してしまいそうな喜びを抑えようとする理性が香澄の身体を引っ張り合う。この数秒は、香澄の思考から過去のトラウマを消し去る数少ない時間だった。


「彗」

「ああ、どうも」


 白いカーテンと木目が太陽に照らされるこの部屋は教室とは違う温度が流れている。

 だからだろうか。同じ教室で毎日会っていたはずの彗はただの大人しい男子高校生だったはずなのに、ここではそれとは少し違う奥行きのようなものが見える。

 どうして人は会う場所が変わるだけでこんなにも違って見えるのだろう。淡い陽に照らされて女の子のような毛先を橙に染めた彗はなんだか分かりにくい雰囲気を纏い、それでいて香澄に優しさを手向けているのは香澄自身にもはっきりと感じ取れた。


「今日は暖かいね」

「はい。よかったです」

「雨は嫌い?」

「嫌いではないんですけど、なんとなく嬉しくて」

「そっか。梅雨の時期には貴重だもんね」


 雨の日も晴れの日も変わらずスケッチブックを持ち歩いている彗と雨の度に過去を感じる香澄。二人の見える景色はあまりに違う。

その違いが心地いいのだとすれば、合わさっていたピースの形が変われば隣り合わせにはなれなくなるかもしれない。

 それは嘆いたところでどうにもならないことだが、言い換えれば消失と背中合わせだからこそ香澄は彗に特別な感情を抱いた。あり続けることも大切だが、消えると知りながら今を大切にするのも素晴らしい。


「よかったら、今日は違う場所で食べませんか?」


 保健室の片隅から連れ出すのは王子様じゃなくてもいい。

 重要なのはそれが大切な友人からの誘いで、その先に心の裡に留めたくなる思い出が転がっていると確信できることだ。


「うん、いいよ」


 心の壁に厚さは関係ない。

 どんなに薄い壁でも出られないときは出られないし、どんなに厚い壁を築いたとしても人の心は容易に傷つけられてしまう。

 この大きな学校の一室で起きたことなんてほんの些細なことだ。クラスメイトに連れられて保健室を出るという行為は他人が見たら何てことない日常風景に過ぎない。

 彗の微笑みにつれられて保健室の扉をまたぐ。香澄はあまりにもすんなり唯一の居場所から出た自分に驚く半面、それが当然のようにも思えた。


 渡り廊下を抜けて冷たさを感じながら上る別棟の階段は香澄を祝福することもなく、どこかの病院の階段のような静寂を保ち続けている。昼休みだというのに全く人のいない第二教室棟は暗い空間に足音ばかりが響いて薄気味悪い。それなのに不思議と香澄は嫌な感じがしなかった。

 がらんとした二階の廊下もむしろ居心地の良さすら覚える。窓から見える中庭の景色を覗くとアヤメが陽を浴び、誰も目にも止まらずにひっそりと咲き誇っている。香澄は後でこっそり眺めようと心に決めた。天気のいいうちに写真を撮っても良いかもしれない。

 こんなところで大切に胸にしまわれているとも知らずに空を見上げているアヤメを背に、香澄は振り向いた彗の下へと足を進めた。


「ここでご飯を食べるの?」

「そう思ったんだけど、ダメだったかな」

「ううん、良いと思う」


 見上げたそこには「美術準備室」と書かれた札が掲げられている。人から身を隠すための小部屋を飛び出してたどり着いた場所もまた、人から遠ざかるには丁度いい部屋だ。こうして人のいない場所ばかりを渡り歩いていると、あれだけ人で溢れかえっていた学校が嘘のように思える。

 保健室が香澄の隠れ家なら、ここは彗の住処なのだろう。足を踏み入れた絵の具の匂いが僅かに残る部屋は壁にイーゼルとキャンバスが立てかけられ、窓際には石膏像たちが陽に当てられて白い肌を輝かせている。


「机、持ってきますね」


 そう言ってイーゼルの山とロッカーの間に挟まれている机を取り出す彗を見て、香澄はどこか懐かしさに似た感情を覚えた。ここがパーテーションに囲まれた部屋じゃないからだろうか。ここは教室ではないのに、香澄はかつての日常に戻ってきたように感じた。

 そうか、居ていいのか。

 自分もこんなに穏やかで平凡な世界に居てもいいのか。

 窓もドアも締まっているのにどこからか風が吹いたようだ。保健室ほどは日差しの強くないこの部屋で彗と昼食を食べる日々。香澄はドアの脇に置いてあった椅子を運びながらそれもいいなと思った。


「美術部はどこで絵を描いてもいいんですが、僕はここで描くことが多いんです」

「それは、どうして?」

「ほら、そこに背の高い木がありますよね。そこに鳥がよく留まるんです」

「鳥?」

「鳥はいいですよ、みんな目がキラキラしていて」

「へえ」


 人は自分にないものを埋めたりもするけれど、同時に似たような存在に近づこうともするらしい。似ているけど違う存在に手を伸ばすのは、そうなりたいと言うよりもあり得たはずの未来がそこに映されているような気がするからだ。

 彗は時々今みたいに目に光を宿しながらどこかを見つめている。香澄はその目を見るたび、この目が前後不覚に陥って蹲っていた自分を助けてくれたのだなと思わずにはいられなかった。


「なんだか、こうしていると不思議だね」

「そうですか?」

「まさか彗と二人でお昼を食べる日が来るとは思わなかったから」

「はは、そうかもしれないですね」

「同じ教室に居るのに一言も話したことがない人って、ある意味一番遠い人なんじゃないかな。まったく知らない人ではないのに、初めて会う人よりもよそよそしかったりもするし」

「でも、あの時浅間さんを助けられたのは僕と浅間さんが同じクラスだったからかもしれません。いくら過去を知っていても、全く違うクラスだったら躊躇ったかもしれないですし」


 彗はいつも通りに購買のたまごロールをビニール袋から取り出す。音を立てないように包装を開け、たまごの部分にも届かないほどの大きさでパンをついばむ。まるで誰かに見られないようにしているかのようなその姿から、香澄は目を離すことができなかった。

 震えていたのだ。たまごロールを頬張る彗の唇が。


「それでも助けてくれたよ、彗は」

「僕にそんな勇気はないですよ」

「それは教室にいる時の彗でしょ? 教室の外の彗なら助けてくれたよ、必ず」

「そうですかね」

「うん、今の彗は私の知ってた彗とは違うから」


 食べかけのたまごロールをコーヒー牛乳で流し込むと、彗はそっかあと呟いてじっと机の表面を見ていた。

 じっと一点を見つめる彗の顔は今までずっと一人でここに居たみたいに寂しげで、今もその瞳には誰の姿も映っていないようだった。


「教室の外には隅っこがないんですよ。だから、いつも通りでいられるんだと思います」


 その考え方は数カ月前の香澄には分からなかったことかもしれない。人との距離が曖昧で、人の呼吸なんて気にしなくてもするすると生きていられた頃の香澄には「隅っこ」なんて見えていなかった。

 教室を思い浮かべて窮屈さを抽出できるのは香澄が学校の隅っこに居るからだろうか。これに気付けたことは良いことなのか悪いことなのか。彗の顔を眺めながら、知らない方が生きやすいのだろうなと香澄は思った。


「隅っこかあ」

「僕はもう慣れているので」

「でも、隅っこってちょっと失礼じゃない?」

「そうですかね」

「だって彗の席は私の前でしょ? それだと私も隅っこみたいな感じだし」

「いや、そういう物理的な話ではなくて」


 捨てられた子犬のような顔をした彗を見ていると思い切り抱きしめたくなる。きっとそれは同情なんかじゃない。優しさの呪いのようなものだ。


「私の隣、でいいんじゃない? 隅っこなんて言わなくても」


 窓の向こうで小鳥が飛び立った。言葉で人の気持ちが変わるのならこれは呪いでもいい。昼休みが終われば解けてしまう安っぽい呪いだとしても、彗の目が輝き続けるのならそれでいい。


「その言葉、浅間さんらしくなくて好きです」

「そうかな?」

「額に入れたいくらいです」

「良いよ。その代わり、毎日こうしてお昼を一緒に食べること」

「それじゃ、今と変わらないですね」

「それで良いんだよ」


 言葉というものはそんなに万能じゃない。むしろひどく扱いにくい道具だ。

 ただそこに居てくれる方がずっと良いことだってある。

 どこかひんやりとした美術準備室で香澄は過去の記憶に襲われた自分を思い出し、「もう恐がらなくていいよ」と言い聞かせた。人を信じるなんて大層なことはできないけれど、クラスメイトの男子と昼食を食べることくらいはできそうな気がした。


「僕は何もできていないですね」

「そんなことないよ。ほら、私はこうして生きてる」


 香澄は彗の手をぎゅっと握った。生きていることを示すように。


「彗は私を助けてくれた。ちゃんと、やり直してくれたんだよ」

「でも」

「彗は今も助けてくれてる。彗が私の傍にいてくれるだけで、私は嬉しい」


 彗が香澄の手をぎゅっと握り返す。

 どうしてこの人と一緒に居たら胸の奥がふわりと暖かくなるのだろう。

 自分はこれからも変わってしまうかもしれない。それでも、香澄は今あるこの思いを簡単には捨てたくなかった。


「今は少ししか思い出してないけど、いつかは全部思い出すと思うんだ。その頃には今の私は跡形も残ってないかもしれない」


 彗の潤んだ瞳が香澄の目に映る。

 大切なもの。大切な人。それは変わるかもしれない。

 でも、この偶然は手放したりはできない。


「それまで一緒に居てくれる?」


 まるで告白みたいだ。

 自分の口から出た言葉に照れくささを覚えたが、香澄は彗から目を逸らしたくなる衝動を堪えた。逸らしたら途端に恥ずかしさが湧き出してきて、言ったことをすべて取り消してしまいそうな気がしたのだ。

 彗と一緒に居る。たったそれだけの告白は、好きが何かもはっきり掴めない香澄の身体を心臓の音で揺らした。


「はい」


 空が遠く感じられるほど影に満ちたこの部屋に、さっと夏の木漏れ日のような光が差し込む。

 彗はこくりと頷いた。


「僕でよければ」


 力強い光を映しながら彗はにっこりと笑った。

 彗につられて出た笑顔は朝の作り笑いの何倍も幸せが胸に広がった。

 もう自分は大丈夫なのかもしれない。移動教室の生徒でざわめき始めた第二教室棟で、香澄は何かが溶け合っていくのを感じた。

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